初めにこの世界の普通の音について話し、それから超世界の音、つまり神の音について話すことにしましょう。古代から今日まで、音楽は私たちの生活の中で重要な部分を占めてきました。想像するのも難しいことですが、この世界に音楽がなかったら、どんなに欲求不満の多い生活になることでしょう。クラシック音楽は比較的温和で優雅ですから、聞く人の心をとても楽しく安らかに優しくしてくれます。それで、昔は高貴でありながらも慈悲深い人々がたくさんいたのです。現在の音楽は、もっとずっと刺激的です。小さいころからこのような音楽に慣らされている人々は、教え導くことが非常に難しいのです。なぜなら、このような音楽は現代人の個性と品格を代表しているからです。精神病院の医者は、よく患者に穏やかな音楽を聞かせ、患者の情緒を安定させます。仕事で疲れたり、心に大きな悩みがあったりするとき、音楽を聞くと気分も次第に落ち着いてくるのです。
宇宙のあらゆるものは振動している
宇宙ではどんなものもみな振動していて、この振動が音になります。ちょうど放送局から発信された電波が、ラジオでキャッチされて音になるのと同じです。宇宙の万物はみな振動しています。それらは各自みな異なる振動周波数を持っています。石、草木、人などは、みなそれぞれ独自の振動周波数を持っています。けれども、振動周波数が各自異なるために、動物と人間、人間と人間、夫と妻など通じ合うことが難しいのです。
波動が穏やかでない人たちがいます。私たちがその人たちと接触すると、とても不安に感じます。反対に、波動や話の雰囲気が非常に穏やかな人たちがいて、一目見ただけでとても心地良く愉快になります。振動の周波数が私たちに近く、そこに入って行くと気分が楽しくなる場所があります。雰囲気があまり良くない人たちが入ってくると、周りの人は緊張し、不安や焦燥を感じます。なぜなら、その人の振動があまりにも低く重かったり、非常に重いカルマを持っているので、邪悪であり、魔障が多いからとも言えるでしょう。その人の陰のエネルギーは非常に重く、一方私たちの陽のエネルギーはかなり多いので、互いに釣り合いがとれなくて、それで焦燥と不安を感じるのです。
この地球上、すべての場所の振動周波数がみな同じというわけではありません。なぜなら、地球には様々な鉱脈があり、それらの分布は均質ではないので、修行してない人にとって落ち着いて住めない場所がたくさんあるからです。けれども、本当に修行した人にとっては、どの場所も浄土であり、どの場所も聖地です。けれども、言うは易く行うは難しです。真にこのような境涯に到達した人がどのくらいいるでしょうか。この不調和な雰囲気は、ごくまれにいる非常に無明な人や、少数の石頭の人を除けば、修行をしてない一般の人でも感じることができます。ただ、修行のレベルが高くなればなるほど敏感になるというだけです。けれども、修行が最高の境涯に達したときは、どの場所もみな同じになってしまうのです。
私たちはどんな人と一緒にいても、その人の振動に影響されます。その人の雰囲気がとても穏やかであれば、私たちもより穏やかになります。その人がとても興奮すれば、私たちも興奮します。菩薩が人に代わってカルマを担う、という話をよく耳にします。なぜなら、菩薩は他の人の体に生じた悪い影響を与える振動を、たとえいわゆるカルマであろうと、自分自身で受け取って、自分の良い振動と交換するのです。修行のパワーにより菩薩は素早くカルマを洗い落すことができるのです。それにどのくらいの時間がかかるかは、回収したカルマの量によって決まります。このようなカルマをきれいに洗わないうちは、やはりこのようなカルマに影響されます。ですから、菩薩はともすると病気になったり、誹謗されたり、殺されることもあるのです。
例えば、イエス・キリストは衆生に代わってカルマを担い、十字架に磔にされて死にました。釈迦牟尼仏については、仏陀が人の代わりに何かのカルマを担ったということは聞いていませんが、経典に次のような記載があります。ある人がこれまで99人の人間を殺し、その後仏陀をも殺そうとしました。けれども、殺すことができず、反対に仏陀に済度されてしまい、最後には修行して阿羅漢( 解脱した聖人) になりました。もし、仏陀がその人に代わってカルマを担わなかったら、そんなにもたくさんの人を殺したカルマはどこに行ってしまったのでしょう。そんなにもたくさんの人を殺していても、阿羅漢になれるのは因果の法則に反しているのではないでしょうか。いいえ、それは釈迦牟尼仏の功徳が非常に大きく、無量無辺の福報があり、その人の代わりにあらゆるカルマを清算してもなお十分だったからです。決して、この人が果報を受ける必要がないというのではなく、釈迦牟尼仏がその人に代わって担ったからなのです。
ですから、昔から解脱しようと思う人は、まずそのような大師を訪ねなければなりません。なぜなら、私たちは修行を始めたばかりなので、自分のパワーに頼るだけでは、そんなにも多くのカルマを清算することは無理だからです。けれども、そのような大師は、代々修行しているので福報が非常に大きく、私たちを導きながら荷物を持ってくれるのです。なぜなら、大師は十分なパワーを持っているからです。人間は人間のパワーを持っています。修行をしている人は修行によるパワーを持っています。そのようなパワーを私たちは目にすることができないかもしれませんが、無量無辺に大きく、決して物質的な力と比較できるものではありません。みなさんは、私について印心すると五代にわたって超生できると聞いたと思いますが、それはこのような修行のパワーに頼れば、五代の先祖全員を引き上げることができるからです。ですから、修行のパワーは貴く、どれだけ多くのお金を積んでも買うことはできないし、どれだけ大きな権威によっても持ち去ることはできないのです。
私があるところへ講義をしに行くと、とてもリラックスした感じがして、話が非常にすらすら出てくることがあります。けれども、ときには何かに圧迫されているかのように、話が出てこないうえに、非常に疲れたように感じることもあります。人に印心する場合も同様で、順調で何も問題ない場合もありますが、ときには死にそうになることもあります。それは講義を聞きに来る人や、印心に来る人がそれぞれ異なる振動を持っているからです。各人の振動の多少が、いわゆるカルマなのです。これらの異なる振動は、実際どのように作られるのでしょうか。それは因果の法則に基づいて作られ、私たちが世々代々作ってきたカルマと関係しているのです。
本来、私たちはみな仏陀(悟った聖人)でした。イエス・キリストもまた、「私たちは神の子である」と言っています。それなら、なぜある人は裕福なのに、ある人は貧乏であったり、またある人は聡明で、ある人は愚かであったり、ある人はとても優しくて善良なのに、ある人はとても悪いということがあるのでしょうか。第一には、私たちは本来仏陀であったのですが、この幻想の世界に来るとき、ずっと下に降りてきたために、智慧をほとんど忘れてしまったからです。第二の理由は、周りの環境に影響されたからなのです。
色界と無色界
この世界は、高い境涯の世界とは異なります。高い境涯は私たちの修行が進歩するように援助してくれ、私たちをますます気楽にし、ますます高貴なものにしてくれます。けれども、この世の環境は私たちをいともたやすく後退させ、私たちをさらに愚かに、さらに邪悪にします。なぜなら、極楽世界では欲しいものは何でもあり、少しの苦痛もないのに、この世界では、大自然と戦わなければ生存できないからです。釈迦牟尼仏であってもご飯を食べなければなりませんし、この世界のものを使って初めて生存できるのです。それは形、分別のある色界であり、冷、熱、美、醜、男、女などがあり、極楽世界とは異なっているのです。極楽世界は形、分別のない無色界です。
ですから、私たちがこの世界にやって来ると、外部に興味を持つような普通の衆生となり、食物を見ると食べたくなり、物を見ると好き嫌いという考えが浮かんできます。私たちの心は常に好きな物事に引き付けられるので、そのため自分の大智慧を忘れ、だんだん宇宙の大きなパワーから遠ざかり、ますます孤独な存在になってしまうのです。
本来、すべてのものはみな私たちのものでした。けれども、私たちが心を一つか二つの好きな物事にだけ気を取られてきたので、知らないうちに自分を小さな枠に閉じ込め、本来区別がなかった(極楽世界の中にあっては、みな同じように黄金の身体をし、男女の分別もなかった)のに、区別のある人間になってしまったのです。私たちは全身全霊で一人か二人の人間や、物事だけを好むので、自分をますます孤独にし、宇宙の大きなパワーから遠ざかります。私たちのパワーは非常に小さくなってしまうので、たちまちのうちに使い切ってしまうのです。例えば、ある人がガンジス河の中に住んでいたとするなら、必ず四方八方から水の供給を受けるので、使い切れないほどの水があります。もし、その人が岸にある何かに心を奪われ、ガンジス河を離れてそれを追って行けば、そのことに心を奪われて元の場所にどうやって帰るのか忘れてしまいます。のどが渇いたとき、付近にある水を探して飲むほかなくなるので、足りなくなるのは当然のことです。
その結果、私たちはますます軟弱に、ますます智慧不足になります。智慧が不足すればするほど欲が深くなり、安心感が得られないので、少しでもたくさんの物を手に入れようとします。貪・瞋・痴(欲、怒り、愚か)の思想はこのようにして生まれるのです。これらの思想はある特殊な磁場を形成し、私たちの周りを取り囲みます。一人一人の状況が異なるので、磁場もまたそれぞれ異なります。同類は引き寄せあい、異類は排除しあいます。貪欲で気性の激しい人は、当然激しい状況を自分の磁場に引き寄せ、穏やかな人は比較的穏やかな状況を引き寄せます。このようにしていわゆるカルマが形成されます。
私たちは、何をしても不器用な人をよく目にします。それはその人の磁場がいつも悪い力、障害の力、愚かな力、魔障の力を引き寄せてしまい、大智慧を身の回りに引き寄せることができないからです。動物的性質が非常に強い人がいます。これもその人の磁場のためであったり、世々代々の習慣がまだ改まっていないからです。私たちの磁場が次第に良い方向に向かって改まるとき、私たちは上に昇り始めているということを示しています。どのくらいの時間で改まるかは、私たちの心の純粋さに関係しています。多くの経典や道徳経には、子どものような天真爛漫な心になって、初めて天国に戻ることができると述べられています。
私たちの習慣や磁場を変えるのは容易ではありません。呼吸法や、ヨガに頼れば変えられるというわけでは決してありません。なぜなら、習慣を身に付けるには頭脳の制御を受けるので、習慣を改めるにはどうしても私たちの頭脳を改めなければならないからです。丹田、骨、水、呼吸などに頼っていたのでは不十分であり、最も究極的な方法は観音法門だけです。
仏音
この音とは「仏音」(神の音)であり、私たちの本性の音でもあり、宇宙の万物が生まれる前から存在していました。この音は「この世界を超越した音」であるので、私たち凡人の耳では聞くことはできません。けれども、どんな衆生もみな聞くことができます。ただ等級の違いによって、異なる音が聞こえるというにすぎないのです。宇宙の中ではあらゆるものが振動しているので、みな音を持っています。石ですら音を持っていますが、ごく小さいので肉体の耳では聞こえず、智慧を用いなければ聞くことができないのです。それで「観音」と言い、「聴音」とは言わないのです。どんな衆生も音を持っていて、智慧を持っているなら、なぜこのような音を観(み)ることができないのでしょうか。それは、彼らには鍵がないので、音がどこにあるのかわからないからです。ですから、私たちはまず、私たちのために扉を開けることのできるマスターを探さなくてはならないのです。
なぜ、この音がそれほど重要なのでしょうか。それは、宇宙の万物がみなこの音によって一つに繋がっており、高い境涯から低い境涯までみなこの音によって一つに繋がっているからです。先程も触れましたが、人によってはその振動が他の人と合わないため、共存が難しいのです。同様に、私たちの振動が動物やある場所と合わないと、動物と一緒にいるのが難しかったり、その場所に長くいることができないということがあるのです。たとえその場所に住める人がいるとしても、それはその人たちの方が私たちより優れているということでは決してありません。たぶんその人の振動があまりにも低いか、動物の振動と同じであるため、何も感じないのかもしれません。
例えば、豚、カエルなどはとても汚い場所に住んでいるのに楽しそうです。これは、とても耐えられない場所であっても、人によっては平然と楽しく住んでいられるという理由です。その人の雰囲気がその場所に合っていても、私たちの振動はもっと高くもっと穏やかなので、そのような低い振動とは合わないので住めないのです。住めないというのは、振動の低い人の方が私たちより能力が高いというわけでは、決してありません。それで、善良な人は往々にして凶悪な人と一緒にいることができないのです。
運命を変えたいと思う人は、この最高の音に頼らなければなりません。今、それを持っているのはほんの一部分の人にすぎず、しかも、それほど振動の高い音ではありません。振動が高くないので、等級の高くない動物と共存するこの世界に住んでいられるのです。これがすなわち、「類は友を呼ぶ」という事例です。
けれども、ある音はすべての衆生を含んでいます。これがすなわち「仏音」(神の音)と呼ばれる本性の音です。私たちがこのような音を修行すると、振動を高め、等級を高い方へ向上させることができます。外見からは以前と同じで、何の違いもないように見えますが、体からは光が放たれ、講義をするとみなが喜んで聞くようになり、人を済度するのも簡単になります。それは私たちの振動が変わったからです。より穏やかになり人を安心させ、解脱させることができます。人々の振動は私たちの振動に包囲され、私たちは人々に良い振動を与え、悪い振動を消してしまいます。それはちょうど医者が人の悪い血液を、良い血液に取り替えるようなものです。バケツの水が汚いとき、汚い水を捨てればきれいな水を満たせるようなものです。けれども、私たちの振動がまだ十分に良くなっていなければ、他の人の悪い振動と換えることはできません。さもなければ、後の結果はひどく悪いものになってしまうでしょう。ですから、衆生を済度したいなら、まず修行をしなければならないのです。
先程、宇宙の万物にはみな音があると述べました。宇宙の万物はみなこの音から創生されたもので、それは道徳経では「名」、または、「道(タオ)」と言い、老子は、「『道』が語りうるものであれば、それは不変の『道』ではない。『名』が名付けうるものであればそれは不変の『名』ではない。天と地が出現したのは『無名』(名づけえないもの)からであった。『有名』(名づけうるもの)は、万物の(それぞれを育てる)母に過ぎない。(中公文庫「老子」小川環訳注より)」と言うのです。「名」または「道」は、この音あるいはこの振動を指しています。古文と現在の中国語は、用法に少し違いがあるかもしれませんが、実際は同じ一つのことを指しているのです。私はみなさんがこのことを理解できるであろうと思います。
より高次の音に調子を合わせる
宇宙の万物はみな、この「名」または「音」から生まれたものであり、私たちもまたその一部です。けれども、私たちは「人間」であるので、その最高の一部分を所有しています。ですから、私たちはそれを完全に所有する可能性が十分あるのです。そして、動物はこの音を完全に持つには等級が不足しています。もし、私たちがこの音の修行をすれば、それによって私たちは絶えず自分を高めることができ、もっと高い音に周波数を合わせて行けば、最後にはそれを完全に所有するようになるのです。そのとき、私たちは宇宙のどんな衆生とも調子を合わせることができるようになります。あらゆる衆生はみなこの音の一部分であり、しかも私たちがすでに完全にこの音を持つようになったので、私たちにとってはどの場所もみな浄土であり、だれもがみな仏陀であり、どんな衆生にも仏性があるということになります。そのときになって、初めて本当に理解したといえるでしょう。そうでなければ、ただ「……らしい」「私が聞く所によると」と言うにすぎず、本当なのか虚偽なのか区別がつかないのです。
自分で体験することは、経典を読んだり、他の人の体験を聞いたりするのとは違います。経典を読むというのは、他の人の体験を読むだけにすぎません。私たちが観音法門を修行すると自分で体験でき、経典中の記載と比較することができます。昔の人の体験と同じかどうかを見てみると、ときには昔の人の体験よりも高いこともありますが、それは決して私たちが彼らよりも高いというのではなく、彼らがこの体験を書いたときはまだ等級がそんなに高くなかったのかもしれないということなのです。ですから、彼らの当時のレベルと比較するなら、たぶん少しばかり超えたということなのでしょう。
私たちは、この音がどんなに強力であるかを知らなければなりません。どんな衆生にもこの振動と音があり、互いに影響しあっています。この世界は西方極楽世界とは異なり、動物、悪い人、良い人、神経質な人、穏やかな人、楽しい人、苦しんでいる人などがいて、たくさんの種類の雰囲気が入り混じっています。私たちはこのような入り混じった状態の中にいますので、安心して修行するのが非常に難しく、いつでもたくさんの障害や、良くない雰囲気に影響されます。けれども、もし一心に修行できれば、非常に速く進歩することもできます。
ですから、人間に生まれ変わりたがる天の衆生がたくさんいます。この体があればこそ、修行ができるからです。私たちは、この体など役立たずだと思っていますが、これがなければ修行するすべがないのです。この体は非常に貴重なものですから、よく手入れをし、十分栄養のあるものを食べて大事にしなければなりません。けれども、貪欲に食べるというのではなく、体をよく保護し、冷しすぎたり、暖めすぎたり、辛い目にあわせたり、あるいは疲れさせすぎたりしてはなりません。苦行をするのも良くありません。それは自分を処罰することで、自分を処罰するのは最大の罪を犯すことです。自分は過去の仏陀、現在の仏陀、未来の仏陀なのですから、自分を尊敬しなければなりません。自分を苦行によって処罰して良いことがあるでしょうか。けれども、もしそれが避けられない場合は、もちろん状況は異なります。
例えば、みなさんは私がヒマラヤで修行をしていたとき、毎日少しばかりの生野菜しか食べていなかったということを聞いているでしょう。それは、そこの土地が非常に険しく、空気は薄く、気温や気圧も低く、ご飯を炊いたり野菜を煮たりするのが難しいので、生野菜を食べるのが、せいぜい手間のかからない方法だったからです。ガンジス河の水で洗い、少し塩を振ればもう食べられます。私がわざと苦行をしたかったわけでは、決してありません。私がかつてフォルモサの山の上にある寺で、夏の三ヶ月ゆったりと閉閑したときも同じでした。毎日玄米に少しのごま塩をかけたものを食べ、水を少し飲むだけでした。当時は世話人がいなかったからです。毎日市場に買物に行っていたのでは「閉関(閉じこもって座禅する)」ではなく、「閉菜(閉じ込もって、野菜しか食べない)」になってしまいます( 笑い) 。これらはみな状況に迫られてのことで、そこにあるものを食べるしかなかったからで、決して苦行をしたかったのではありません。苦行で仏陀になることはできません。苦行すると苦しい人になります。私たちの生活はもう十分苦しいのに、どうしてさらに苦行などする必要があるでしょうか
。
「音流」は宇宙最大のパワーであり、宇宙最高の智慧である
仏陀になるには観音法門を修行し、智慧を使ってこの本源の音を観なければなりません。この音は宇宙の万物を創造し、宇宙においては最高最大のパワーであり、最高の智慧でもあります。私たちがこの偉大なパワー、大智慧に頼らずに修行するとしたら、何に頼るべきでしょうか。なぜあの小さくて黒い腹(丹田を指す)や無常の呼吸に頼って修行するのでしょうか。私たちが座禅をしているとき、体を動かしたり、死んで呼吸がなくなってしまったら、そのときはどうやって修行するのでしょうか。
けれども、この偉大なパワーに頼って修行すれば、たとえ体が少し動いたとしても、あるいは殺されたとしても関係ありません。なぜなら、私たち自身のマスターはすでにこの音と通じ合い、解脱し、この体とは関係なくなっているので、当然のことながら修行を続けることができるからです。それはやはり引き続き私たちの生活の面倒を見てくれ、私たちを引き続き進歩させてくれます。ですから、この最大で最高の、かつ最も根源的な音に頼る以外、何に頼るのも正しくありません。この最初の音は、私たちがまだ来ないうちから、宇宙の万物がまだ創生されないうちからすでに存在し、たとえ三界が破壊されてしまっても、それはやはり存在します。このような永遠のパワーに頼って修行すれば、永遠に存在し続ける境涯まで修行が進歩しますが、無常の呼吸に頼って修行していたのでは、せいぜい無常のレベルまでしか到達しません。
ですから、楞厳経の中で釈迦牟尼仏は、「どんな法門の修行をするにせよ、一時的な便法にすぎず、永遠の法門ではない。ただ、観音法門だけが永遠で、最も究極的で最も正しい修行法門である」と言っています。もし、私たちが観音法門を修行すれば、仏陀の考えに同意するはずです。
聖書でも、宇宙について触れています。「初めに言( ことば) があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」( ヨハネによる福音書1:1−4)
道徳経でも同様に述べられています。老子は「道が語りうるものであれば、それは不変の道ではない。名が名付けうるものであれば、それは不変の名ではない。天と地が出現したのは無名(名づけえないもの)からであった。有名(名づけうるもの)は、万物の(それぞれを育てる)母に過ぎない」と言っています。初めにこの「名不可名」があったころ、宇宙の万物はやっと創生されたのです。
ウパニシャドpanishadというヒンズー教で最も有名な経典にも、やはり同様の記述があります。「初めに言( ことば)があった。創造が始まるやこの音があった。この音が現れたころ、宇宙の万物はすべて現れた。この音は神であり、この音は造化である」。これらは、みな同じことを述べています。なぜなら、釈迦牟尼仏、老子、聖書、ヒンズー教、回教などは、本来みな同じ道理を説いていたからです。観音法門の修行をした後、他の経典を調べてみると理解できます。悟りを開けば、どんな経典もみな同じことを述べているということがわかるのです。
(本文はSupreme Master Ching Hai著「即座に悟りを開く鍵」中国語版第1巻P.99 〜P.109 より引用)
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