マスターの開示
私たちの修行を進歩させる方法
Supreme Master Ching Hai 開示(英語)1997年12月26日 国際禅4 アメリカ・ワシントンD.C.

なさんと分かち合いたいものがあります。と言ってもそれは、今まで何度もみなさんにお話ししてきたものです。しかし、理解していなかったり、忘れてしまったりした人も多いようなので、もう一度お話ししようと思います。それは、どのようにしたらもっと良く、もっと安定した座禅ができるかということについてです。

第1に、グループで座ることです。あなたの家でも、地方のセンターでも、中央のセンターでもいいですから、グループで座りなさい。一緒に座れば、必ず効果が現れます。たとえば、向き合って座った方が強くしっかりと座禅ができるようなら、そうすることも良いでしょう。また、その前に冷たい水で顔を洗いなさい。座禅の間、眠らないでいることができます。顔を洗う前でも、洗った後でもいいですから、できれば新鮮な空気の中をしばらく歩き回ることも良いでしょう。そして私が話してきたことは、多くのみなさんにとって大変大変役に立ちますから、私のビデオや、テープをもっと見たり聞いたりして、それらを修行に役立ててください。

みなさんの多くが座禅で望むような成果を上げられないのは、私の話していることを実行しないからです。そういうことを私はたくさん見てきました。たとえば、私はみなさんにここに来るときは、他のすべてのことを後ろに置いてくるように、しばらくの間、家族のことも何もかも忘れるように言っています。しかし、次の瞬間みなさんは私の所へ来て、「子供はこんなで、母はあんなで、父は病気で、私も病気です」などと言います。みなさんは、それぞれ村ごと全部ここに背負ってきているのですから(笑い)。

私はみなさん全部がそうだと言っているのではありません。ありがたいことに、みなさんの内一部の人たちです。しかし、たった一人か二人でも十分、そこら中に塵をまき散らして私に世話を焼かせています。そして、今度は私がみなさんに癇癪玉を破裂させる、すなわち、「獅子吼え」法門を使うことになるのです。みなさんは、仏教のお経で仏陀が時々「獅子吼え」法門を使われた話を読んだことがあるでしょう。仏陀は弟子たちを教えるのに八万四千通りもの法門を使っていました。そして、その中の一つにこの「獅子吼え」法門があったのです。多くの人たちが私に「マスター、あなたはなぜその方法を私たちに使わないのですか。あなたはたった一つの方法しか教えてくださらない。何か欠けているようです」などと聞きます。とんでもありません。私は八万四千の法門を教えています。そして、この「獅子吼え法門」はみなさんがよく経験しているものです。ですから、もうこれ以上聞かないでください。仏教徒たちは、私が教えないのは何か秘法とでも思っているらしく、いつも、いつも、私に聞いてきます。経典を読み過ぎるのです。その中に、この「獅子吼え法門」もあります。みなさんはこ の15年間にそれを経験しませんでしたか。したでしょう! もっと、して欲しいのですか。(聴衆「いいえ!」)よろしい。もう十分です。私もそれを何度も教えたくありません。エネルギーを消耗するだけです。

私が、なぜたくさんしゃべるかというと、それは私がおしゃべり好きだからではありません。もし、みなさんが、私の昔の友達や同僚、級友、あるいは、同じ教師について学んだことのある人々を知っていれば、私が非常に無口だったことがわかります。それに、人が私にいろいろ話しかけようとすれば、私は「ここは話をするところではありません。特に食べている間は」などとたしなめるでしょう。きのう、私は昔の同修に会いました。彼女は私がよく、不必要に食事中や集会中に話し掛けないでくれと言っていたと話してくれました。私はそれを覚えています。私は、おしゃべりをしないとても静かな人間でした。家族の中だけでなく、道場でも、集会でも、一人でいました。彼女は、私がよく24時間座禅をしていたと言いました。彼女は私のことを覚えていましたが、きのう私は彼女のことを思い出せませんでした。彼女は私と昼食を共にしたいと言いました(笑い)。それで、私は彼女のことを思い出したのです。でも、彼女はとてもかわいいので、今は彼女のことを覚えています。あまり、おしゃべりをせず、とても立派な同修でした。彼女が私を思い出してくれたので、私は彼女を思い出すことが できました。私は誰ともあまりしゃべらず、関わり合いを持たなかったので、あまり覚えていないのです。私は、ほんとうに他の人たちに注意を払っていなかったので、彼女を覚えていなかったことを詫びました。私はみなさんにも言ったことがありますが、私と一緒に長く働いたことがあれば、もちろん、私はその人たちを覚えていますが、そうでなければ、あまり注意を払っていないのです。私はもう一度シスターに謝ります。私たちは、一時期、同じ師についていたのですから、私を「シスター」と呼んでください。「マスター」と呼ばないでください。前にも言ったように、私にはたくさんの師がいたのです。

一つのことに集中し、マスターの教理を尊重すること

彼女は昼食の時に人々に言いました。私はほとんど24時間座禅をして話をしなかったと。それは本当です。そして、これこそみなさんが私のようになりたいなら、やらねばならない方法なのです。もし、みなさんが私のことを尊敬し、理想的な女性、または、修行者だと思うなら、これこそなすべきことなのです。何も秘訣などありません。一つのことに集中し、師と共にいる限りは、師の教えに従わなければなりません。仮に、みなさんがある日、私のことを良くないと思うか、あるいは、何らかの理由で離れてゆくなら、それはそれで結構です。しかし、みなさんはここにいる限り、一つのことに向けて集中し、私がこのようにしなさいと教えたことに注意を払うべきです。そうすれば、必ず良い結果が得られます。もし、みなさんがこれらのことすべてを行ったにもかかわらず、良い結果が得られなくて去ってゆくのだとすれば、私は非難しません。いつでも離れていってください。しかし、みなさんが私の教えを実行せず、私のアドバイスに耳を傾けないで去ってゆくのなら、私はみなさんを気の毒に思います。そして、みなさんも自分を気の毒に思うべきです。せっかく自分が達成しようと望んでいた ことを成就し、成長する良いチャンスなのに、自分が宿題をきちんとしないでそれを逃してしまうのですから。

もし、私がみなさんに悪いことを教えたら、すぐに言ってください。もし、私を疑うなら聞いてください。それが正しいやり方です。近頃、私についての疑問や、意見を述べる人たちがいましたが、私はそれについて怒ったりしませんでした。私はその理由を説明しました。どんな批判でも歓迎しますし、どんな疑問も説明します。そして、私が説明した後でも、まだ、私を信じられず理解できなければ、去ってゆくのも良いでしょう。しかし、もし、みなさんが私を信じてやってみたいなら、自分自身にとって最善の結果を得るために全力を尽くすべきです。みなさんは、もうここに来て、たくさんの時間と努力とお金を費やして期待をかけてきたのですから、さらに最善を尽くしたらどうですか。それがすべてです。私のためにしなければならないということではないし、また、みなさんがしなければ罪になるというようなことでもありません。そうではなくて、それはみなさん、みなさん自身にとって良くないのです。自分の努力やお金を無駄にしてしまうのです。もしも、みなさんが価値がないと思えば、来なければいいのです。そもそも、初めから関わることはないのです。自分の時間や精力を自分に とってより有益な、何か他のことや、他の人を探すことです。誰でも師に対する相性があるのですから、それで良いのです。理解の程度によって、出会う人や師が違います。もし、皆さんが悪い師に出会ったとしたら、それはみなさん自身のカルマであり、みなさんの内面の質がそういう師を引きつけるのです。みなさんの内面の熱意が、より良いマスターに出会うのに値しないからです。ですから、師を責めてはいけません。自分自身を責めるべきです。みなさんは師が悪いと思って師を変えます。そして、たいていそういう師を引き寄せたのは自分だったことが分かるのです(拍手)。

座禅をしているときに障害が起こったら

もし、みなさんが家で座禅をしているとき、何か妨げになるようなことが起こったら、たとえば何か目に見えない存在に怯えて、良く座れなくなったり、落ち着いた気持ちになれずに焦ってしまったりなどのことが起こった場合、二つの解決法があります。私の仏讃歌や、音楽テープや、講話のテープをバックグラウンドに流すのです。みなさんの後ろではなくて前に置いて小さなボリュームで流すのです。何でも決して後ろに置いてはなりません。注意が後ろに向けられて、前の方に集中するのが難しくなるのです。できないことはないのですが、みなさんにとってあまり良くありません。テープや、テレビや、音楽など聞きたいものは何でも、電話や、ファックスでも、前に置きなさい。オフィスで座っているようなときでも、機器と向かい合いなさい。例えば、それが鳴ったとき、みなさんの前で鳴るわけですから、注意を後ろに向ける必要はないでしょう。後ろに向けた注意を前に戻すのは、とても難しいのです。また、電話を取るとき右の耳で聞きなさい。それを習慣にしなさい。左の耳で聞かないように。みなさんの左や後ろに注意を引くものは何でもみなさんにとって良くないのです。覚えておき なさい。これが一つの方法です。もう一つの方法は、神(仏)の名を大きな声で唱えるのです。必要なだけ長く、毎日1時間でも状況が良くなるまで。

次は、二つ目の解決方法です。もし、みなさんが自分の周りや後ろに何か見えないものを感じて怖いと思ったり、みなさんが私の所に来る前に何かに取りつかれていて、今も怖いのであれば、私の写真をみなさんの周りに円になるように置くと良いのです。みなさんは、私の写真をたくさん持っているでしょう。大きくなくて良いのです。小さいのでよろしい。大事なのは大きさではなくて写っている人物なのです。小さな写真で良いから、みなさんの周りを囲むように置きなさい。チベット仏教の曼陀羅は、このような実践をした名残です。チベットの仏教徒はいつも円を描きます。その起源は、師が弟子たちにマスターが祝福して記念に与えてくれた工芸品をもって、円く座るようにと教えた昔に遡ります。チベットの仏教徒はマスターのあふれんばかりの愛と祝福によって自分たち自身を囲んでいたのです。後になって、花や、お香や、砂や、色などが付け足され、もっと華やかになりましたが。

みなさんは、その他何を付け足してもいいのです。気持ちが良いと思うなら。また、ほっと安心していられ、守られている、安全だと感じられるなら。私の写真をみなさんの周りに置き、花や、お香や、ろうそくでも、その他何でも置きたければ置いてください。でも、あまり煙の出るものはいけません。いつも咳をするようになります(笑い)。ろうそくの出す匂いや煙はたとえそれがロマンチックに見えたり、霊的に見えたりしてもイライラの原因になることが多く、そして、後で喉が痛くなったり肺が充血したりします。それは長い期間副作用となり、良くありません。でも、みなさんがそれを我慢できるなら、それでも結構です。私は、みなさんが気持ち良いと感じるなら、修行中何も禁止するつもりはありません。数珠を持ったり、ロザリオを数えたり、何でもしてよろしい。ただ、あまり数珠に気を取られ、それが習慣になるとここに集中するのを忘れるようになります(マスターは智慧眼を指さす)。再び戻ってくることが難しくなります。

そうでなくても、私たちは毎日外の世界に心を煩わされています。朝起きて顔を洗い、歯を磨き、化粧をしたり、ネクタイを締めたりします。これはすでに物質的なものに多くの注意を払うことです。仕事に行けば、自分の意識をお金に向け、家に帰っても、まだ、お金のことを考えます。ですから、私たちは毎日、女のこと、男のこと、ネクタイのこと、宝石のこと、化粧のこと、お金のことに対して座禅をしているのです。だからこそ、私たちは座禅する時間があるときには、意識を内面に向けなければならないのです。私に限らず、どんなマスターでもみなさんに、これをしてはだめ、あれをしてはだめと禁止するのは、私たちが狂信的だったり、権威を振りかざすということではありません。そうではなくて、私たちは他のすべてを、ただ忘れるべきなのです。ただ、内面の智慧のセンターに集中すべきなのです。そして、集中するときは真っ直ぐ前を見るのです。

真っ直ぐ前を見るというとき、それは肉体的な話です。実際には、みなさんが智慧眼で見るとき、それは内面のことです。そればかりか、私たちは内面にいるわけでも、また、外面にいるわけでもありません。私たちはどこにもいないのです。それは、話の仕方の問題なのです。肉体を使って表現すればみなさんが分かるからです。話を戻して、みなさんが目を閉じ、耳をふさぐとき、すべては内面になります。物質世界との接触がかなり少なくなります。内面に入るとみなさんは、自分だけになり、そこで自分自身を知り、自分自身を再び認識するのです。自分が霊であり、神であり、仏陀であることを認識するようになるのです。だから、ロザリオや数珠のようなものは、そのとき私たちが集中するのに有害になったり、妨げるものになったりするのです。良くないと言っているのではありません。みなさんに神を思い起こさせるものは何でも、写真でも、ロザリオでも、十字架でも、仏像でも、みないいものです。しかし、みなさんが座禅をするときだけは、すべてのものを完全に下に置く方がいいのです。みなさんは仏陀であり、十字架であり、神だからです。みなさんに神を思い出させるようなものは 必要ないのです。

しかし、曼陀羅がみなさんを守ってくれることは確かです。まれにですが、前に不安にさせられた目に見えない存在に今も怯えたり、その恐ろしい記憶で不安になったり、暗闇を恐れたりする人がいますが、そういう人を守るものです。昔、座禅する時にろうそくを灯したのもそのためで、これによってそういう人も怖くなくなります。時々、私は明かりをつけたままにしておくように言うことがあります。それでいいのです。しかし、いつも誰でもそうしなければならないということではありません。しかし、「ああ、ろうそくをつけたら良く座れるようになった」と誰かが言うと、みながそうするようになって、それが習慣になります。そういうのは良くありません。

みなさんが座禅をするときは、自分一人で十分です。どんな美術品も、ろうそくも、花も、お香も、そういうものは何も要りません。どんなものでも、みなさんの注意を何かとそらしてしまいます。ろうそくはちらちら、ちらちらします。また、お香の匂いで「ハクション!」(マスターはくしゃみのまねをする)(笑い)そしてそこに座って考えます。「これは乳香だ。私は好きじゃない。白檀の方がいい」(笑い)みなさんは、ああでもない、こうでもないと自問自答し、2時間も経ってしまい、今度は別の花を置きます。「ああ、バラだ! 私はバラアレルギーがある。菊の方がいい」などなどです。そしてみなさんは菊を買いに出掛けて時間を浪費します。というのも、誰かが「菊を置いたら、マスターが来てくださったようで、とても気持ち良く座禅ができた」などと話すのを聞いたからです。

盲信は良くありません。みなさんの修行に有害です。私が言ったことも含めて、誰が言ったどんなことでも、みなさんは自分で試してみるべきです。それが論理的かどうか、受け入れる前に分析してみるべきです。みなさんが、私の教理の大部分、または、全部を受け入れるのは、それが理屈にあっている、自分の知性に反しないと思うからでしょう。みなさんの知性や常識にあっていて、考えられる限り一番合理的だから、みなさんは受け入れたのでしょう。もし、それが理屈に合わないと思えば、否定するのも自由です。また、私の所へ来て言うのもいいし、私に手紙を書くのもいいし、その他どんな方法でも私に説明させてください。もし、私が説明できず、またはしてもなお受け入れられなければ、それは考え方が違うのです。仕方のないことです。私たちはみな、考え方も生き方も違うものを選んでいいわけです。私はそれでかまいませんが、もし、すでにこれは自分に合わないとわかっていれば、時間を無駄にしないでください。でも、もしここにいるなら最善を尽くしなさい。自分のお金や精力や時間を使って、最善のものを得るために。

それから、みなさんは自分の智慧眼をマッサージすると良いです。少し油を付けても、付けなくてもいいですが、あまり乾燥しているようなら、油を付けてマッサージしてご覧なさい。なめらかになります。これは、私のような年配の人(笑い)のしわにもいいです。私はあまりしませんが、メイクをするときに少しします。もし、みなさんが集中するのが難しければ、親指か他の指で、少し智慧眼の所をマッサージするのも良いでしょう。そして、ちょうどここで止めるのです(マスターは額中央の眉間の所を指す)このように止めて、また、ちょっとマッサージして、それから止めてください。

愛と修行

みなさんは、座禅や共修をするときは、あまり周りをきょろきょろ見回さない方がいいです。女性を見ないなんて普通ではないと私が言ったのを覚えていますが(笑い)、それはあの青年だけに言ったのです。あの青年が普通であることを教えようと思ったのです。彼は若くて独身です。それで、もちろん、美しい女性に会えば見ます。しかし、みなさんは見なければ見ないほど良いでしょう。特に、もう結婚していたり、ガールフレンドや、夫や、ボーイフレンドがいるときは。二人の間が穏やかであればあるほど、お互いの関係に専念でき、そこからたくさんの利益や幸福を引き出すことができます。霊的な修行を含めたみなさんの生活のすべてにわたって何をするにせよ、自信が付き、熱中できるようになります。だから、肉体的な快楽にあまり耽ることのないように。疲れて座禅もできなくなり、霊的な修行に捧げる時間が少な過ぎるようになりますから。何事も中庸がいいのです。

もし、みなさんがボーイフレンドかガールフレンドが欲しくなったり、寂しくて誰か話し相手が欲しくなったり、どこへ行くにも誰かと一緒に行きたいのなら、それはかまいません。しかし、さらにきょろきょろ見回してはいけません。一人を見つけたらその人に決めてその人のために働きなさい。その方が幸せになれます。たくさんのパートナーを持つほど、みなさんは幸せでなくなります。本当ですよ! だから、マスター方はみな、みなさんに配偶者は一人だけにするように勧めるのです。別にみなさんに焼き餅を焼いているわけでも何でもありません。道徳的な話をしているわけでもないのです。結婚するか、パートナーを一人にすべきだというのは、みなさん自身のためなのです。不道徳ということを別にして、みなさんが飛び回り過ぎたり、いろいろな人の心を射止めたりすれば、他の人々の心を傷つけ、害するのです。それは結局大きな不幸をもたらすでしょう。ただ虚しさを感じるだけです。

愛するということと、セックスとは違います。ストレートに物を言ってごめんなさい。ストレートに言ってもいいでしょう? 愛するということは、相手と感情面でも、精神面でも、肉体面でも、心理面でも、一体となる、すなわち、みなさんの愛情と、慕情をすべて注いで、ひたすら一つになることです。みなさんの全存在を投入することです。

しかし、性行為は一時的な情欲を満足させるだけです。その後でとても空虚な気持ちを味わいます。ときにはひどい罪悪感を感じたり、嫌悪感を感じたり、また、恐ろしい病気が移ったりすることもあります。というのは習慣のようになってしまうとどんな相手でも良くなり、注意することを忘れてしまうからです。そして、病気に対する抵抗力さえ低下してしまいます。それは道徳的基準が低下し、情緒的にも落ち込み、警戒心は弱まり、心がまえも乏しくなるからです。気ままな性生活をしていると、あらゆることが低下します。体は弱くなり、精神面でも霊的にも弱くなり、病気が移ればおしまいです。

伴侶を愛することはこれと違います。みなさんは喜びに満ち、愛されていると感じ、親密さを感じ、一体感を得、信頼し合います。感情も、心も、霊性も、情熱も、すべてが高まり、みなさんの愛は満ちあふれます。それで、みなさんは特別なレベルの存在になるのです。みなさんを傷つけるものは何もありません。抵抗力は強くなり、小さな病気にかかっても、すぐ回復します。病気になるということすらないでしょう。二人の間は至高の愛と、献身と、合一のために、生命全体が準備されるからです。二人は一人のようになり、従って万事申し分なくなるのです。すべては清らかで、けがらわしさも、罪悪感も、空虚感もありません。疲れ切ったような感じもありません。少し疲れを感じるかもしれないけれど、それは幸せから来るものです。それは、ただ肉体を満足させるために性行為を繰り返したときに感じるような、消耗感、空虚感、搾取され尽くした感じではありません。全く違います。だからこそ、私たちは伴侶との関係に忠実でなければならないのです。私たちに幸福をもたらすものだからです。信頼関係を築くことは、私たちにとって最優先すべき課題です。その他のことはすべて二の次です 。

昔のマスターたちが私たちに与えた戒律は、みな智慧の海なのです。それは人を束縛するものではないし、人を管理するための方法でもありません。また、専制的に命令するようなものでもありません。私たちを保護し、幸せにするものです。ですから、これに従うことはとても賢明なことです。トラブルを起こしたくなければ、あまり長い間きょろきょろ見回さないことです。礼儀をわきまえ、仲良くすることはいいですが、故意にトラブルを引き起こさないでください。特に、他の人のものであったら。もし、そうと知っているなら見ないでください。もちろん、知らずに見ることはあるでしょう。そうするとトラブルになります。でも、それは別の話です。もし、知っているのなら、始めてはいけません。知らないで始めてしまうのも、非常に良くありません。後で始末をつけなければならなくなります。でも、誰か他の人のものだと知っているなら、決して、決して、始めてはいけません。深みにはまってしまいます。

もう、新しい伴侶を得てしまったのなら、以前の人は忘れるべきです。みなさんのためになりません。普通、過去は良く見えます。悪いところは忘れてしまって、良いところだけ覚えています。でも、現在が最良なのです。現在の状況や、現在の人間関係を大切にすれば、必ずすぐに良いことがあります。過去や将来にばかり目を向けると、心配や、悲しみや、後悔や、幻想がもたらされます。ですから、仕事をするときでも、修行をするときでも、座禅をするときでも、また、人間関係でも、常に現在を見なさい。それが、みなさんに今すぐ利益をもたらす唯一のことだからです。過去は何もできません。私たちはいつも過去に対して、良かったという幻想を持ちますが、それは良くありません。座禅をするときは、私がいつも言っているように、あらゆるものを下に置かなければ問題が起きます。だから、ステージにやって来て、いろいろ無意味な質問をするのです。私は我慢しますが、やがて爆発します。あまりレベルの低い質問をすると、その場の雰囲気を下げてしまいます。みなに塵をばらまいてしまいます。みなそれに影響されてしまいます。私は他の方法でそれを処理しなければなりません。私が 「獅子吼え」法門を使ったら許してください。他の方法「虎吼え」法門を使っても良かったのです。その方が良ければ改めましょう(笑い)。さあ、これで座禅を進歩させる方法については終わることにしましょう。

私たちの修行を進歩させる方法