マスターの講義
神を認識することは人生における最も重要な美徳である
Supreme Master Ching Hai ギリシャ・アテネ 英語講演 1999.5.20

ギリシャは神と女神についての神話がたくさん残っている偉大な国で、その高度な霊性を象徴する彫像が、今でも世界中で称賛されています。

代のギリシャの神と女神であるみなさん、こんばんは。きょう私は、誉れの高い遺産をみなさんに思い出していただくために参りました。すでに思い出しているのでしたら大変結構ですし、もしまだでしたら、私がみなさんにどのようにして栄光の地位を取り戻したらよいかをお教えします。覚えているにせよ、忘れてしまったにせよ、とにかくみなさんは全員神、あるいは、女神です!

もし、皇帝や皇太子が、一時的に自分が皇族であることを忘れたとしても、皇族でないとは言えないでしょう。皇帝や皇太子、あるいは皇族の一員といえども、国を守るためや新しい冒険に挑むために、荒れた原野や戦場へ出掛けていって、一時、宮廷から離れなければならないことがあるでしょう。冒険をしている間は快適で豪華な生活から離れ、ときには困難や危険に襲われて、しばらくの間、自分の本当の身分を忘れてしまいます。それと同様に、私たちはこの物質世界をさまよい歩いている間に、自分の本当の天国を忘れてしまいます。ですから、もし私たちが自分で思い出せないのなら、思い出させてくれる人が必要です。そうすれば、私たちは天国に戻ることができます。私たちはすでに神や女神であり、少なくとも神の子なのです。ですから、神になる必要はありません。ただ、思い出すだけでよいのです。

霊性の科学

しかし、普段私たちが触れたり、つかんだり、肉眼で見たりすることのできるあらゆる物質的なものとは異なり、天国や神聖なる境涯は物質世界では見えないので、違う方法で思い出すか、認識をしなければなりません。神を知ること、あるいは、私たちの真我を認識することは非常に簡単なことですが、ただ気づかせてくれる人がいないだけです。6歳以上なら子どもでも毎日神を見ることができます。神は確実に存在しています。いつ、どんなときでも、私たち自身でそれを証明できます。物質科学がこれこれの物質が存在するということを証明するのと全く同じように、私たちは霊性の科学で神や天国が実際に存在することを証明できます。しかも、私たちは行きたければいつでもそこに行けます。

物質科学において、ある科学者たちがある物質の存在を証明する方法を発見するのと全く同様に、霊的問題についても誰かがある事柄を発見することができますし、そうなればそれを、私たちみなと分かち合うことができるのです。大昔、ギリシャの神や女神はこのような霊性科学を発見し、後の人の勉強になるようにと、その足跡と知識を残してくれました。ある人は人類の文字や言葉の背後にある本当の意味を理解するために、また、霊的知識を発見するために霊性科学を深く研究し、その成果は私たちにも大変役立っています。

あらゆる科学研究と同様に知りたいと願うなら、より多くの時間を使って、その課題について深く研究しなければなりません。ですから、なぜ私はわからないのだろう、と思わないでください。それは、みなさんが多くの時間をかけて一所懸命研究していないからです。一部の人は貴重な時間を割いて、短時間のうちに古代の聖人たちの、教理の真髄を理解するための最も簡単な方法を見つけました。私たちはこの成果をみなで分かち合えます。この宇宙の神秘を知るためには、時間だけではなく、真心と心からの渇望が必要です。この神秘がわかれば、私たちの智慧を開くことができます。もし、私たちが一旦この智慧を開いたら、同じ課題に興味のある人すべてに伝えることができるのです。

神を認識することは、私たちが唯一身につけなければならない美徳であり、無知は私たちが犯してはならない唯一の罪です。無知のせいで、私たちは互いに殺し合ったり憎しみ合ったりするのです。競争し合って自分自身を傷つけるだけでなく、自分と意見が違うと思われるあらゆる人々に被害を与えます。無知は、貪欲や、恨みや憎しみといったようなたくさんの悪をもたらし、私たち自身に計り知れない苦痛を与えます。これらのことは、また、自分自身に憎しみをもたらすことになるからです。

無知であれば、自分も他人をも傷つける

無知というのは、自分自身が神であるということを、私たちがみな知らないということです。あらゆる聖典に書いてありますが、神は私たちのこの肉体という宮殿に住んでいます。ですから私たちが、ここかしこで見るすべてが、神の、この物質世界における顕現なのです。無知のために、私たちは互いに戦争をしたり、この世界に満足できずにあらゆるものに対して貪欲になったりするのです。私たちは何一つとして、決して不足することのない天国から来たのです。しかし、この世界に降りてきて、そのような絶対的に快適な状態を失ってしまいました。ですから、私たちはお金が欲しい、もっと大きな家が欲しいというように、天国にいたときのことを懐かしく思うので、この世に来ても色々なものを欲しがるようになるのです。しかし、どれほどたくさんの物が得られても、天国に比べることはできないので永遠に満足できません。しかも、物をたくさん得れば得るほど、もっとたくさん欲しがるようになり、人々はそれを貪欲だと非難します。実は貪欲なのではなく、ただここには完全に快適な状態がないだけです。唯一の解決方法は悟りを開くことです。私たちの真我を認識することです。それは天 国、つまり、私たちの本当の家を訪れることを意味します。私たちは行きたいときはいつでも、毎日訪れることができます。そこで、私たちはもっと素晴らしいものを得られます。しかし、この世界にあるものはすべて無常です。もし、私たちが本当の栄光を認識すれば、このような上辺だけの現象に対する興味はなくなります。

無知であるため、すなわち、自分の真我を知らないために、私たちは自分だけでなく周りの人をどれほど多く傷つけているかわかりません。たくさんの人が神の美しい宮殿である自分の肉体に持ち込んでいる毒物を見てください。たとえば、酒や、タバコや麻薬などです。そのうえ、高い代価を払っています。これは時間をかけて行う自殺です。しかし、多くの人はこれを用いてストレスを解消し、快楽を得たと思っていますし、実際そのように見えます。けれども表面上はそう思えるかもしれませんが、長期間使用すればその影響は恐ろしいものです。毎年、喫煙による死亡率はますます増え、戦争で亡くなった人数をはるかに超えています。ですから、戦争を心配する必要さえないのです。すでに私たちは自殺しているわけですから!酒や麻薬もタバコと同じです。実は、みなさんの方が私よりもっとよくわかっていると思います。誰もが知っているのに、まだやっている人がいます。なぜでしょうか。私たちはここでは快適な状態が得られないからです。天国のような幸福と平和をもたらすものすべてに、すがりつきたいからです。これらの問題を解決するためには、私たちは自分の真我を知らなければな りません。私たちの霊性に必要なものを得るために、毎日天国へ行かなければなりません。そうすれば、私たちの肉体を傷つけたり、頭脳を麻痺させたり、周りの人に害を与えるこれら毒性のある代用品を探さなくてもよいのです。周りの人に苦痛や被害をもたらしたり、愛する人に心配をかけなくてすむでしょう。

昔から神を認識した人々の多くは、もうこれ以上この世界に興味がなくなって、一時的な慰めにすぎないこの世界のものをすべて放棄しました。けれども、私たちは必ずしもそうする必要はありません。私たちは、この世界と超世界の両方を持つことができます。もちろん、この世界のすべてを捨てることもできます。それは、私たちがこの世界のすべての物を本当に必要とは思わなくなるからです。しかし、私たちは現代に生きているので、正直で純粋になるために現状を維持しつつ、本当の家に戻るまで仮の人生を送ります。

今までに、神や女神が大勢この地球にやって来て、とても多くの霊的恩恵によって私たちを加持してくれたからこそ、この世界はどんどん文明が発達し、現代化し、あらゆる面で私たちに快適さをもたらす科学的設備が開発されたのです。このすべては神の恩恵の賜物として使わなければなりません。神に感謝するために、神とは誰なのかを認識しなければなりません。私たちは、直接神にありがとうと言わなければなりません。神と交流するのです。神の望む方法でこの美しい惑星を存続させ、兄弟姉妹を助けるためにどうしたらよいのかについて、神の言うことに耳を傾けなければなりません。

メディテーションは体と魂の栄養である

私たちはみな神を信じたいのですが、直接神と交流できないため、しばしば困難に陥ります。私たちは兄弟に親切にしたい、智慧や財産をみなと分かち合いたい、と思いますが、ただ、自分が持っているものはそれ程多くありません。今日、みなさんの抱いてきたこの願いを実現させるために、どうすればよいかをお話しします。祈りや礼拝や断食は、一時的にやすらぎをもたらしたり、あるいは、それらによって一時的に神を見たりすることがあるかもしれません。しかし、神や女神の品質である完全な真我を理解するためには、それより他にしなければならないことがあります。それは仕事を捨て、家庭を捨て、食べず、眠らずなどといった禁欲主義ではありません。私たちは今の生活を続けながら、神と交流する時間を少し作ればよいのです。私たちは神との交流をすればするほど、自分の時間が増えます。他のことが少なくてすむようになるからです。睡眠時間を短くでき、食べる量も減るし、以前私たちにとって必要だと思っていたことがそれ程必要でなくなるのです。肉体は食品から栄養を摂るだけでなくて、霊的な恵みも必要です。そうでなければ、なぜ、亡くなった人はもうそれ以上動けないし 、話せないし、考えることもできないのでしょうか。肉体や脳は生きているときのままなのに、なぜ、動かないのでしょうか。それは亡くなったとき、魂、すなわち本当の自分が肉体から離れて、他のところへ行ってしまったからです。ですから、この肉体を完璧に機能させるために、私たちは魂、すなわち、本当の自分をも大切にして栄養を与えなければならないのです。

私たちが、メディテーションや真の霊的祈りによる修行を行うことは、肉体の手入れをすることでもあります。これは、葉に水をかけることではなく、植物の根元から水をやるのと同じです。これは、宇宙の原理です。「まず、内在の天国を見つけなさい。そうすれば、すべての物を得ることができます」(マタイ福音書)。実は天国は遠いところにあるのではなくて、目の前にあるのです。非常に近いみなさんの内にあるのです。そして、いつでもそこにあります。天国が手もとにあれば、それを見ることができます。私はみなさんにこのことを保証します。私に天国が見えて、しかも、私たちのグループのみなが、非常に多くの人が見えたとすれば、みなさんもきっとわかるでしょう。みなさんが見たければ、いつでも、私はすぐ証明してみせます。もし、私たちがお互いに時間があれば、みなさんはすぐに天国を見ることができます。天国のすべてが見えるか、一部分だけが見えるか、これは人によります。そうでなくても、みなさんは自分の死後が保証されるような、たとえば死んだ後、地獄へ行かなくてすむということを確信できるような、何らかの体験があるでしょう。生命は永遠に存在します。私 たちを待っている真の天国も存在しているのです。

無形の学位を取得しよう

聖書には、ある聖人が毎日死ぬと述べたことが書いてあります(聖パウロ・コリント前書15:31 )。その聖人は、どうして毎日死ぬのでしょう。しかもこういう言葉が書かれています。「霊性のために肉体を放棄すれば、再び新しい生命を得る」。これはどういう意味でしょう。この二つの言葉の意味は同じです。私たちは生きながら往生できる。つまり、天国を訪れ、再び戻って来たら、また責任を持って今までどおり生活を続け、そして天国へ行って、また戻って来るのです。まるで二つの世界を持っているように。

今日の講演会が終わった後、もし、お望みであればお教えします。その後、みなさんは毎日同じように続けてください。それは、眼鏡を外すのと同じように簡単なことです。そして、それこそが、多くの人が認めない原因なのです。私たちは天国の境涯に達することは非常に難しいと考え、また、自分の罪を自ら罰しなければならないと思ったり、何カ月も断食しなければならないと思ったり、あれやこれやしなければならないと思ったりします。どうしてこんなことをしなければならないのですか。私たちは神なのです。少なくとも神の子である、とどの聖典にも書かれています。王子は王の息子であるのに、王子になるために何か罪の償いをしたり、苦しんだりしなければならないのでしょうか。もともと王子なのに。私たちの苦痛の原因は、自分が王子であることを忘れてしまい、邪悪な下僕に、すなわち、世の中の否定的な力に苦しめられているということです。私がここにいるのは、みなさんに気づいてもらい、また、みなさんを保護のパワーの源に連れ戻し、自分が神であることを思い出してもらうためです。思い出してもらうという言い方はよしましょう。自分が神の子であることがわかる、いわ ゆる印心のときに、みなさんの内にある自分自身の神の力によって霊的に目覚めると言うべきでしょう。

この世界では、自分の身分を証明するために認定するもの、つまり証明書なり学位証書が必要です。天国には無形の学位証書があり、自分は一体誰なのかを知るための無形の教育があります。きょう、みなさんはこれを勉強できます。そして、卒業するまで毎日学びます。神を見ることはすぐできますが、時間がかかるのは自分自身の真我を再び取り戻すことです。なぜなら、私たちはこの肉体や物質的な世界、そしてこの世界の考え方に慣れきっているからです。ですから、私たちは天国の教えを吸収するのに少々時間がかかります。そうでなければ、神を認識するにはほんの数秒しかかかりません。そして、完全に思い出すまで、毎日神を繰り返し繰り返し認識するのです。悟りは、見たり聞いたり、本を読んだりすることによって得られるのではなくて、自分自身で静かに修行することによって達成されるのです。再び智慧を開き、神である自分自身の真我を認識するのです。でも、みなさんが天国への道に就くためには、私が少し説明しなければなりません。

自分の本来の偉大な真我を思い出したいかどうかを決める前に、もし、何かご質問がありましたら、喜んでお答えします。ご静聴ありがとうございました。神の祝福がありますように!

問答精選

問:キリストとは何ですか。

答:こちらはキリスト教を信仰する国ではないでしょうか。(笑い)みなさんが知らないとおっしゃるなら、私も少ししか知らないことにしてご説明します。そうしないと、私たちの会話は続けられませんから。(笑い)

「キリスト」は聖なる意識の名称です。この聖なる意識には、たくさんの名称があります。たとえばキリスト教では、誰かが目覚めたときにその人をキリスト教徒と呼んでいます。他の国や他の伝統では、同じ力に違う名称をつけています。ですから、この世の中にこんなにも多くの、いわゆる「宗教」がたくさんあり、宗教戦争さえあるのは、ただ名称の違いにすぎないのです。ギリシア語では「母親」をどう発音しますか。(答Mhtepa)英語ではMother、フランス語ではLa mere 、ドイツ語ではMutterと言いますが、これらは意味が違うのでしょうか。それとも同じく私たちを産んでくれた女性を指しているのでしょうか。これは、単にことばの問題です。

私たちの内面にキリストはいます。私たちは、ただそれを思い出せばよいのです。私がその方法を教えて差し上げます。もし、それでもイエスは自分とは違う人であると思っている場合でも、メディテーションをしている間に内なる神の力が再びよみがえれば、みなさんはキリストを見ることができるし、交流することもできるのです。

悟った亡霊

問:もし、死んだ後でもまだ生命が存在して、これらの霊魂が再び地球に戻ってくるとしたら、一体どのような過程をたどり、そして、それはどのような理由によるのでしょうか。

答:亡霊について知りたいのですか。それとも、生まれ変わりについて知りたいのですか。地球に戻ってくる霊魂には2種類あります。肉体を伴わずに戻ってきた霊魂は「亡霊」と言います。霊魂が別の肉体に入って戻ってきた場合は、「生まれ変わり」と言います。実は、この2種類共に輪廻です。魂の輪廻の方法には色々な種類があります。必ずしも、この世界に戻るとも、肉体を持つとも、人間の肉体に戻るとも限りません。

死んだとき、自分が死んだことにすぐには気づかない人もいて、親類や友人の周りをうろついて話しかけようとしますがうまくいかず、自分の頭を叩いてもちっとも痛くありません。物を食べたくてもできずに、とてもイライラします。死んだ人たちは、自分がこの物質世界から離れたという事実を受け入れたくなくて、この地球に執着しているために問題を起こすことがあります。無知な人がいるのと同じで、無知な亡霊も存在するのです。でも、しばらく時間が経つと、死んだ人は自分にふさわしいところへ連れてゆかれます。霊性の到達度、および宇宙に対する理解の程度に応じて、さまざまな場所に配置されます。

その他、肉体に入ることを選んだ魂は、もっとこの世界の種々の現象を体験したいために戻ってきて、もういいと思うまでこの世にとどまります。その後、別のところで輪廻するか天国に残るかは、状況によって決めます。ある魂は死んだ後すぐ地球に戻り、ある魂はしばらく休んでから戻り、ある魂は他の所に数千年もとどまってから再び戻り、ある魂は決して戻りません。実は、魂は神の一部分なのです。ちょうど大海の、一滴の水のようなものです。魂は神自身ですから、何をすべきかを知っているし、いわゆる「死」の後にすべきことを決定できるのです。

もし、私たちがこの一生で、自分自身と頭脳と、この肉体という道具を訓練すれば、死んだとき、魂は速やかに体から離れ、肉体や頭脳はあがくことも苦しむこともないのです。私たちは、自分がどこへ行こうとしているのか、直接天国へ行くにはどう行くか正確にわかっています。私たちの、魂ではなく頭脳による混乱を起こさずに済みます。ですから、悟った霊、いわゆる「亡霊」になるためには、まず悟った人間になれば、非常に簡単です。

問:前に、輪廻についてお話しくださり、魂は輪廻するかどうか選択できるとおっしゃいました。もし、自由に選択することができるとしたら、カルマの法則とは何ですか。そして、私たちは輪廻のたびに何を勉強しなければならないのでしょうか。

答:実は、私たちはここで何も勉強しなくてもかまわないのです。ただ、知っていることを思い出すだけでいいのです。因果律というのは、私たちがこの世に生きている間に行ったすべての行動は、私たちに影響を及ぼしたり自分のところに戻って来るということです。また魂が肉体から離れても、カルマのある部分は私たちについてきます。もちろん、私たちが悟っていなければ、カルマはどこまでも私たちについてきます。因果律とはすなわち、みなさんが何の種をまいても、その実をすべて刈り取らなければならないということです。しかし、ときには、その結果は私たちが死んでもすぐ来るとは限らず、まだ、そこに残っているので気をつけなければなりません。死んだとき、魂はどこに輪廻するかを選択することができますが、それは常に正しいものです。魂は全知全能ですから、一生の中で高い境涯から見て好ましくない行為をしたことがあれば、債務を返済し、義務を果たすのに適切な境遇を、自分自身で選択して輪廻します。それが私がお話した、悟った人だけがより高いところでも、低いところでも自由に選択できることの理由です。悟った人たちは本当に自由に選択できるからです。しかし 、まだ悟っていない魂にはあまり多くの選択肢はありません。

イエス・キリストの再来

問:最後の審判と、イエスの再来について信じていますか。

答:私たちが物質世界から離れるときが、いわゆる最後の審判のときです。そのとき、私たちの今世におけるすべての行いは、善きにつけ悪しきにつけ、目の前で数秒の間に速やかに再現されます。私たちは、自らの裁判官として自分のことを判定します。私たちは本来神なのですから、何であれ、この世界での自分の選択に責任を持たなければなりません。イエスの再来について言うなら、イエスはいつでも来ています。イエスは私たちすべての中にいて、私たちがこのキリストの力に目覚めたとき、そのときがイエス・キリストの再来なのです。

神を認識することは人生における最も重要な美徳である