マスターの講義
なぜ座禅は必要なのか
Supreme Master Ching Hai中国語の講演 香港1992.2.20

たちの世界はこっちで戦禍、あっちで水害、またそちらは餓死、こちらは難民と絶えることがありません。これらすべての原因は私たちが智慧を使わずに行動することにあります。個人の好ききらいや自分の頭脳で、あるいは傲慢な習慣で行動するからです。そしてどちらでもいいじゃないかと思うのです。それは違います。同じ服でもこれとあれとでは違いがあり、この布地を着るのとあの布地を着るのとでも体の感触に違いがあります。エアコンの冷気と普通の外の冷たい空気とでも違いがあります。同様に冷たければ同じだということではありません。違うのです。それぞれのものが違うのです。たとえば私たちが寒い山の中にいて雪が降ったとします。しかし私たちの体は疲れを感じません。それは空気がとても自然で、たとえ寒くても、新鮮な酸素をたくさん取り入れると私たちの体は中から温まり、体が自動的にうまく調節してくれるからです。逆に私たちは冷房の中で生活していると換気がよくないため、たとえ非常に涼しくてもとても疲れを感じたりして体にとってあまり良くありません。また冷房の部屋から外へ出ると体はすぐに適応できません。あるいはそのまま寝てしまうと起きたとき 顔がまっ白になります。もし住んでいるところや仕事場でエアコンの冷房の中に長時間いると顔色が悪くなります。山の上のとても寒いところにいて、そこが冷房より寒くても私たちの顔はピンク色です。

もちろん私たちは自由に自分の好きなことをしていいのですが、何が良いことなのかをわかってから行うべきです。自由だからといって何をしてもいいということではありません。たとえば私たちは何かをする場合、頭と智慧を使うべきです。これは私たちがすでに持っているものですから使っていいものなのです。何の目的もないままにやりたいことを何でもやってしまうのではありません。そうするとたとえば買い物をするとき、同じ時間と同じ金額をかけ、あるいはもっと高い金額をかけても悪いものを買ってしまいます。ですから私たちは何かをするときは頭と智慧を使うことが必要なのです。そうすれば私たちは時間とエネルギーを節約して自分と他人に利益を与えることができます。これが修行なのです。これは決して理論に合わないことではありません。

☆ エネルギーを集中すること

虫めがねを使って太陽の光を集めると、その下は燃えてしまいます。それは太陽の光がそこに集中したからであって、そうでなければたとえ太陽の光がいくらあっても私たちは利用することはできません。同様に私たちのエネルギーは体全体に分散しています。外側にも分散し、どんな物でも私たちが注意を払うと私たちのパワーとエネルギーをその物に与えることになります。ですから私たちがすべての注意力を一点に集中すれば、あらゆる問題を解決することができますし、どんな障害をも燃やすことができるのです。それほど論理的であり、何も神秘的なことはないのです。

修行する人は盲信してはいけません。私たちはなぜこの観音法門を修行し、なぜここに集中するのか(マスター指で智慧眼を指す)はっきりと理解しなければなりません。みなさんは何かを考えるときここで考えるでしょう?眉間にしわを寄せるでしょう?しわの原因は集中しようとするからです。自然にこうなっているのです。ですから私たちはここに集中すべきだとわかるはずです。そうしてこそパワーは外に分散せず、外への無駄遣いもしません。ここに集中すると、パワーは強くなるということを知っていますね。そうすると何かを乗り越えようとするとき比較的早く乗り越えられるのではありませんか?そうですね!たとえばドアは片手で開けられますが、両手を使えば壊すことすらできるのです。これはとても論理的で、とても簡単で、ちっとも神秘的なことでもありません。修行はとても科学的なことです。ですから疑う必要はないのです。

たとえばみなさんは私に「どうして外のものを見ると私たちのパワーは分散するのですか」と抗議することもできます。しかしそれは確かに分散します。そうでなければ催眠術師はどうして人を思うままにあやつることができるのでしょうか。それは彼が自分のパワーを外に出して人をコントロールするからです。ですからどうして彼が自分のパワーを使っていないと言えるでしょう。使っていますよ!一部の人は集中力を訓練して、ある物が空中を飛ぶのをイメージすると飛び、下に下がるようにイメージすると下に下がります。また、とても遠い場所から意念を用いて人を殺せる人々もいます。この様なことはチベットでは現在もあります。もしかしたら中国にもあるかも知れません。私たちの集中力は非常に強いものです。好きなように見て、好きなようにしておいて、これはエネルギーを浪費しているのではないなどと言わないでください。浪費しています!私たちの智慧を浪費しているのです。

たとえばどんなことでもそれを注意して見て考えると、後でそれを完璧にすることができます。どんなことでも同じです。音楽を楽しんだり、あるいは衣服を洗濯することすら例外ではありません。どこかに黒いシミがあればそこをよく見て、力を入れて洗い、きれいにします。また芸術家は非常に集中してこそ絵を描きあげ、あるいはよい作品を作ることができます。また私たちは誰かを見ることがあります。たとえばある女性、あるいは男性を見て好きになったとします。自分のパワーを浪費していないと言えますか?浪費しています!ずっと見つめると相手はそれを感じ、誘惑されるかもしれません。それはあなたが自分のパワーを使って誘惑したからです。これは私たちのパワーを分散していないとは言えないですね。

ですから私たちはその様に浪費したパワーを集め、できるだけ節約することです。お金と同様に、こちらに少し、あちらに少し、そして必要のないところにも使ってしまうと、いくらあっても足りません。もしも私たちが使うべきところにだけ使って、一円節約したとするとそれは一円もうけたことになり、一円増えたことになります。そして節約すればするほど増えて、生活もさらに良くなり、それほど多く仕事をする必要もなくなります。そしてたくさんお金がたまって、重要な買いたい物も簡単に買えます。逆にお金がなければ、たとえ安い買い物さえできません。ですから私たちはまず節約をすることです。そうすれば、買いたい物が買えるのです。

同様に毎日私たちはエネルギーを外に分散しています。座禅の時間はつまりその機会を利用して分散したものを集めて戻す作業なのです。できるときはいつでも時間を節約すべきです。時間がないよりはよいでしょう。24時間のうち二時間半を節約し、一日の十分の一の時間を使って自分のエネルギーを回復させ、パワーを集中させます。そうすると私たちは一日中それを利用できます。つまり私たちはお金を使うときもあれば、稼ぐときも必要というわけです。私たちは24時間生活するために、8 時間仕事をします。私たちは今24時間活動するために、二時間半を節約して座禅しています。私が思うに、これは論理的なことで、しかも最低限の時間です。ですから私たちは印心を受けたらそれで終わりではなく、家に帰ってもその作業、つまり座禅を続けるべきです。

印心を受けることは、ちょうど、ある工場に登録して仕事を始めるのと同じです。社長はあなたを採用しました。しかし、あなたはただ単に登録をして毎月給料をもらうのではなく毎日働かなければなりません。社長に対して責任を持って仕事をし、そして毎日その日の報酬を受け取るのです。同様に私たちが毎日座禅をするのは、自分で自分の智慧とパワーを稼ぐためです。そしてみなさんはますます不可思議な出来事を体験します。それは何かの神通力でもなく、福報でもありません。自分自身が節約したパワーで、以前解決できなかった多くのことが解決できたということなのです。非常に論理的です。

以前みなさんはお金を持っていても無駄遣いしていました。見ると何でも買ってしまい、必要のない物まで買ってしまいます。お金をかけて買ったものは場所もとります。そして物がたまればたまるほどいらだち、物が多いために人のいる場所も狭くなってそれでまた悩み、快適でなくなります。今私たちはそれらの物を捨てて、これからは無駄遣いはしません。私たちの空間は広くなり、お金も節約できます。これから買い物をするときは、とても必要で、きれいで、しかも自分の気に入った物、または快適な物だけを節約したお金で買います。買うときは自分が本当にそれが好きであることを十分承知しており、気分よく感じ、価格に見合っていて、物も良いのです。そして不思議に思うでしょう。どうして今までこういう物を買えなかったのだろう。それが天国から自分の家に降ってきたように感じるのです。そんなことはありません。それは自分のお金で買った物で、たくさん節約したからこそそういう宝物を買うことができたのです。以前は無駄遣いをしていたため、この様な宝物を見る勇気もなく、ましてや買うことなどできるはずがありませんでした。

同様に、以前私たちはただ外面の物を見たいがために、たくさんのエネルギーとたくさんのパワーを浪費してしまいました。そういった物は私たちを慰め、快適にしてくれるものだと思い込んでいたからです。しかし実はそれらは私たちをさらに悩ませたのです。たとえば買い込んだたくさんの物を家に置いては場所をふさがれ、ストレスがたまり、圧迫感を感じたりする様なことです。今は、以前処理できなかったこと、消化できなかったカルマ、または抜け出せなかった因果を節約したパワーで処理したため、因果は少なくなり、だいぶ楽になり、あるいは別の方法を用いて処理することができるようになりました。ですから修行するほど私たちの生活は快適になるのです。

しかし、私たちは本当の真心をもって修行しなければなりません。本当に敬虔にならなければなりません。そうしてこそ私たちは真に集中できるからです。もしそうでなければ私たちは散漫になり、なまけたり、してもしなくても同じように思えるのです。これは非常に論理的なことです。世間的なことで説明すればもっと理解できると思います。たとえば心の底から一人の人を愛すればどんなにたいへんなことでも恐くありません。彼の家がどんなに遠くても会いに行きます。彼の性格がどんなであっても結婚できるまですべてを受け入れられます。もし彼に対して誠意がなければ、彼のことを見ても、見ていないのと同じで何とも思わないことでしょう。会いたい気持ちもなく、会いに行こうともせず、何としても彼と結婚しようとか、彼に愛されたいという気持ちもありません。あらゆる方法を使わなければ、当然彼は手に入れられません。それは自分もそれを望んでいないからです。もしかしたら別の人、別の物を望んだり、あるいは休んだり遊びたいと思い、その人をそれほど望んでいないからです。ですからあなたは彼のことを手に入れることができなかったのです。そして彼もあなたのことをそれ ほど気にしていなかったのです。それはあなたが本気でなかったので、彼を引きつけることができなかったのです。彼を感動させるほどのパワーがなかったということです。

同様に私たちは自分の智慧と不可思議なパワーを本当に欲しいと思えば、何とかしてそれを手に入れようとするのです。私たちの頭脳と魂は何とかしてそれを手に入れます。もし本当に欲しいのでなければ手に入りません。これはとても論理的ではありませんか?(「はい」と答える)どんなものでも本当に欲しければ、私たちは真剣になってそれを探します。そうでなければ、あってもなくても関係ありません。ですから私たち修行者にとって、敬虔な気持ちは最も重要です。敬虔なふりをして人に見せるものではありません。座禅しているところを人に見せてはいけないということではなく、いかにも大げさな態度をしてはいけないということです。

☆なぜ体験を人に言ってはいけないのか

けれども人から何を修行しているのかと聞かれた場合は「私は観音法門を修行しています。修行して以来、色々な面でよくなっています。私は毎日いくらかの時間座禅して、菜食しています」と答えるべきです。ただし体験を人に話してはいけません。どうしてでしょうか。人に言っても相手は信じずに大笑いするかも知れないからです。世間の多くの人はあなたの言うことを信じないでしょう。たとえばきのう私が宇宙の星の話をしたとき、ある人は「そんな星が存在することをどう証明しますか。幻想ではないのですか」と尋ねるのです。新聞紙上には多くのUFO や宇宙人の話が載っています。テレビでも報道されています。それでもまだ信じません。ましてや私たちは内面の体験を話しているのですから信じてもらえるわけがありません。私たちはUFO を持ってきて彼らに見せることはできませんし(マスター笑う)、どうして彼らを信じさせられますか。

私は運が悪いためにマスターに選ばれました。ですから何でも話さなくてはならないので人から笑われますが、まあ一人くらい犠牲になって真実を言うべきです。神が私を選んでこの「仕事」を渡した以上、するしかありません。そうでなければ私たちは自分の修行のレベルや体験を話すと、いつも人に笑われてしまいます。それはつまり、逆効果になってしまうからです。私たちがその様な話をするのは人に信じてもらい、修行してほしいというのが本意なのですが、逆に笑われてしまいます。しかも私たちを攻撃し、私たちの信心を弱くしてしまうのです。相手はこれは幻想だ、幻想だと言い続けます。そしてみなさんもこれは幻想だと信じてしまい、気持ちがさめて、さらに面倒なことになってしまいます。私たちが体験を話すこと自体が悪いということではなく、ただ、ときには話した後その体験が消えてしまうのです。そして私たちの修行のレベルも少し下がってしまいます。ですからなるべく内面の体験を言わないことです。どの仏を見たとか、どんな光を見たとか、どんな音を聞いたとか言ってはいけません。

もし人に聞かれたらこのように答えるとよいでしょう。「う? ん!観音法門を修行すると光を見る人もいれば、音が聞こえる人もいます」と。総括的に話すのはかまいませんが、自分はこのような音が聞こえると言ってはいけません。あるいは「私にもその様な体験があります。確かにあります。けれどもあなたに話すことはできません」と、このように言えばよいのです。何でも話してはいけないのではありません。何も言わなければ、人々はどうやって観音法門の存在を知ることができますか。また、どの様にして観音法門の素晴らしさを知り、そして私たちと一緒に修行する気になるでしょうか。ですから話すべきことは話していいのです。ただし体験を言ってはいけません。印心のときの具体的な内容を言ってはいけません。マスターが許可する以外は言ってはいけません。それは、みなさんはまだ完全に修行できていないので、話しても効果がないからです。たとえば英語のABC を覚えたばかりなのに、人にABC を教えて何の役に立つでしょう。つまり、こういうことなのです。みなさんに何かを禁止しているわけでもないし、あるいは神秘的なことでもありません。

しかし、これだけは忘れてはいけません。それは私たちがこの世の中で何かをしていて、それをもし人に大げさに言うと後で失敗するということです。世間の仕事だってそうなのです。ですから、私たちは修行していることを秘密にしても、悪いことではありません。その理由はこの世界は魔王(illusion)の世界で、どこにでも彼らの部下はいて、いつも修行している人の邪魔をし、攻撃するからです。彼らは私たちの内面には宝の山があってとても快く、素晴らしい体験があり、涅槃があるなどと聞くと、あらゆる方法を用いて私たちを倒そうとするのです。これは嫉妬心から来るものです。彼らは自分は修行していないし、修行しようともしません。私たちがこの法門を修行するととても良いとわかったら、彼らは必ず攻撃して来ます。この世界はこうなのです。みなさんにお金があり、地位があると人はよく思いません。あるいは、人に良いことを教え、多くの弟子がいると、他の人からまた攻撃を受けるのです。多くの宗教間の紛争、または宗派の間のトラブルはみな正しい修行をせず、魔に利用されてその手下となり、仏の子どもになっていないことにあります。ですから私たちは修行をするとき、 このような難しい点があることを十分に心得なければならないのです。ただこれだけの理由です。何も私がみなさんに何かを禁止したり、厳しくコントロールしているのではありません。それは違います。これらのことは修行する際、知っておかなければならない秘訣です。自分を守るためなのです。

☆ 霊体は他の星を旅する

座禅のときは、もちろん横になってもかまわないのですが、横になるとすぐに寝てしまう可能性があります。私たちは座ってしていても寝てしまうのに、横になればなおさらでしょう。私自身もそういう経験があります。私だって横になると寝てしまいます。けれども寝ることが無駄ということではありません。睡眠時間も十分とらなければなりません。私たちの肉体を回復させ、内面の霊体にも休息が必要です。ですから座禅の時間は疲れていないときを選んでください。なぜ朝と夜が良いのかといいますと、朝は十分寝た後なので比較的良いのです。もちろんベッドから離れたくないときもありますが、でもそんな場合は起きて座禅するのが一番です。もちろん少しの勇気と真面目な態度が必要ですが。そうでなければこれはとても難しいことです。

しかし、ときには眠っていて霊体が上へ引き上げられることがあります。上に上がって行くとき、みなさんはほとんど何もわかりません。わかっている場合もありますが、わかっているとまた面倒なことになります。たとえば昨日、ある同修が私にこう言いました。「マスター、私はいつも寝ているときに霊体が出て行きます。外に出ると自分の寝ている姿を見て恐くなり、『ああ!これが私の肉体なんだ!』と言ってすぐに戻って来ます」。私はこう答えました。私たちは毎日この肉体の中にいるのです。たいしたことではありません。たまには外に出て少し遊んでもよいでしょう。私たちがそこにいなくても、肉体が逃げることはありません。逆に私たちが中にいると、あちこちを走り回るのです。これは私たちが動いているのであって、肉体が動いているのではありません。そうでなければ人は死んだ後、肉体は変わらずに目や耳があるのにどうして動けないのでしょうか。肉体を殴っても声は出さず、罵っても反応しません。これはつまり、肉体はすでに使えなくなっているということです。私たちが中にいるときだけ、肉体は動けるのです。ですからあなたたちは外に出たとき、肉体がそこにあるのが 見えます。これはとても良いことです。肉体は逃げません。ですから怖がる必要はありません。もし恐くなったら私を呼んで「マスター、私を守ってください!」と言えば、あなたを上に連れて行きます。なんと良いことでしょう!

ですからみなさんが眠っているとき、私は黙って外に連れ出します。みなさんにはわからない様にします。わかったら面倒なことになります。行ったり来たりして、なかなか上に連れて行けません。あんなにみっともない肉体の殻に懸命にしがみついて、いつまでもそこにいます。たまに外に出るとすぐに帰りたがるのです。それからこう言います。「私は本当に生死から解脱したいのです」と。誰も騙されませんよ!ボロボロの肉体の殻にしがみついて、それすら認めることができないのにどこか他のところに行きたいなどと言うのです。

私たちのこの宇宙には、たくさんの星があります。これは確かなことです。上を見るとたくさんの星があるのがわかるでしょう!あれはすべて星で、人が住んでいるのもあれば、住んでいないものもあります。一部はとても文明が進んでいて、一部はとても遅れています。全宇宙に私たちの地球だけが存在していたのではもったいなさすぎます。神は愚かではありません。この地球だけを造ったと思いますか。星はとてもたくさんあるのです。最近、科学者たちもその一部を探検しました。一部の星には居住者がいると証明されたようですが、ただ、今はまだそこに入ることはできません。一部のいわゆるスピリチュアルな星の居住者は、私たちのような肉体は持っていません。ですから私たちには彼らが見えませんが、存在していないわけではありません。その様なスピリチュアルな星は、私たちや、あるいは他の地球の様な星よりも進歩しています。私たちが言う地球とは、この世界の様な物質的な星のことを言います。それは何でも物質的なので、見ることも、さわることも、感じることもできます。もう一種類のスピリチュアルなところ、私はとりあえずスピリチュアルな、と言います。どう表現したら いいのか私にもはっきりわかりませんが、[The spiritual world] というところですが、そこは仏菩薩のレベルで肉体はありません。私たちが彼らの振動と同じになれば彼らのことが見え、彼らの存在を感じられます。私たちの振動はまだ粗いので、彼らの姿を見ることができないのです。

今ここでも、死んだ人の魂が一部の人には見えて、一部の人には見えません。それは彼らと私たちの肉体の振動数が違うからです。彼らは体がないわけではなく、ただ違う体になっているのです。たとえばテントは家の様に見えますが、材質は違います。私たちはテントをナイフや手で破ることができます。しかし木の家は比較的丈夫です。質が違うのです。そしてコンクリートの家はさらに硬いのです。

現在、香港では家を建てるのにガラスをたくさん使います。見た目もきれいで、軽くて、とても快適で、中から外を見るととても気持ちがよいものです。もし香港の建物が何でもコンクリートを使い、とても高くて粗雑にできていたら人々は耐えられないでしょう。人々をパニックに陥らせ、空間は狭くて、圧迫感を与えるかもしれません。ですから香港の一部の建物は文明世界のそれととても近いのです。ある世界では瑠璃で家を造ります。見た目は建物の形をしていますが、圧迫感はなく、その壁を通り抜けることができます。なぜならば、壁はそこに存在するけれどもないのと同じだからです。とても柔らかく、とても快適です。周りに視線をさえぎる大きな壁もなく、広々としてあってもないようなものです。私たちが今建てている大きなガラス窓の家に似ています。それは文明世界に比較的近いと言えるのです。しかし、その様な文明世界がスピリチュアルな世界とは限りません。私は彼らのところが最高の世界だと言っているのではなく、天国にある様な世界だと言っているのです。

その様な人はその種の家を建てたがり、そこに住むのを好みます。比較的文明世界に近いということです。ただそれだけのことです。彼らの潜在意識は、前世にどこかでその様な家に住んでいたことを覚えています。他の所の人々は、その様な家を建てたいと思いません。思いもしないのに、建てるということはありえないのです。文明世界に近い者だけがその様な家を建てようと思いつき、そして実際に建ててそこに住むのが好きなのです。しかし、これはただある種の論理的なたとえ話にすぎません。ごく一般的な論理です。修行している人はどこに住んでもかまいません。あの様な瑠璃の家は最高の境涯ではありません。家は重要ではないのです。私たちは修行が完全にできたら、自分の家を建てることができます。こんな家が欲しいと思えば、そのとおりの家ができ上がるのです。あなたの想像力がどのくらい豊富で、建築の才能がどのくらいあるかにより、あなたはどんな家でも建てられます。まだ上に上がらないうちに自分の住む家はすでにできています。あなたの福報がどのくらいあるかにより、それに見合った家になります。

釈迦牟尼仏がまだ在世のとき、出家したいとこがいました。彼は修行にあまり熱心ではなく、食べたり飲んだり遊んでばかりで、いつもこっそり抜け出して、家に帰って美しい妻に会っていました。釈迦牟尼仏は何度も戒め説教しましたが、聞き入れませんでした。ある日彼は寝ていたか座禅していたとき、ある美しい境涯へ行きました。たくさんのいわゆる天女と天使たちが彼を迎えました。音楽はたいへん素晴らしく、景色もとても美しく、宮殿は燦然と輝いていました。天女と天使たちは彼を中に案内し、そこに住まわせました。そして天女たちは彼の世話をしたり、踊ってみせたり、歌って聞かせたり、天国の美酒や豪華な食事で彼をもてなしました。彼は天女たちに尋ねました。「ここはどこですか。この宮殿は誰の物ですか。本当に美しいですね!こんなにきれいなあなたたちはどこの家の娘さんですか」大体こんな質問です。

すると天女たちはこう答えました。「この宮殿は本来、釈迦牟尼仏のいとこのためにとってあるもので、彼の名前は某と言います」。天女たちは彼が誰であるかを知らないふりをして、またこう言いました。「もし彼が修行が十分できていれば、死んだ後、上に来てここに住むことになっています。私たちは彼の侍従や使用人です」。彼はこの美しい使用人たちを見て、自分の妻より何百倍、何千倍も美しいのでとても喜びました。ここはお酒も食べ物も非常においしく、仙界の桃も非常においしく、俗世間に比べてあまりにもおいしいので彼はこう言いました。「そうですか!では私は今からここに残ってもいいですか。私がつまりその本人なのです。この建物は私の家であなたたちは私の物です。よし!私はここに残ります!」

すると天女たちはこう言いました。「いけません、それはいけません。あなたはまだ修行が十分にできていません。修行がとてもよくできて、そして時間になったら、初めてここに住むことができるのです。私たちはここであなたを待っています。きょうは少し見せるだけで、あなたが将来どこに住めるかを教えただけです」。つまり私たちが家を買うのと同じで、買う前に見に行って、その家が気に入るかどうかを確認するのと同じことです。天女たちは引き続きこう言いました。「今あなたが気に入ったのなら将来ここに来られます。私たちはここであなたのことを待っています。そんなに遠いことではありませんよ!おそらく一日、二日で来られます」すると彼はこう言いました。

「どうして一日、二日なのですか。あなたたちはさっき下の世界で何十年も修行しなければいけないと言ったではありませんか」彼女たちはこう答えました。「そうですよ!ここの数日間は下の世界の数十年にあたるのです」(マスター笑う)。彼は非常に失望しました。そしてそこにいることはできなくなり、すぐに落ちてしまいました。それは、彼はまだ修行の力が安定していないからです。しかも時間がまだ来ていません。彼はとても残念でなりませんでした。その場所に非常に未練がありました。

突然、釈迦牟尼仏は彼を地獄へ連れて行きました。天国から帰ったばかりなのに、すぐに地獄に落ちました。彼はそこでたくさんの恐い化け物を見ました。歯が長く、鼻が大きく、目は真っ黒で、髪の毛と顔はとても恐ろしく、その恐ろしい様子はとても想像できるものではありません。芝居の中で見られるように、そこでは処罰するとき、ナイフやノコギリで人を切り刻んで捨てたり、串にさして火で焼いたり、めちゃくちゃです。その人たちはとても苦しみ、大声でわめき立てています。大きな鍋の中にお湯と油が煮えくりかえっていて幽霊たちが彼を鍋のそばに連れて来ました。そこで彼はこう尋ねました。「この鍋はどうして空なのですか。なぜ人が入っていないのですか」。

幽霊たちはこう言いました。「この鍋は釈迦牟尼仏のいとこのために用意したものです。彼の名前は某と言います。もし彼の修行が十分でなかったら、私たちはここで彼を待っています」。そしてさらにたくさんの道具を見せました。割るときに使うもの、ノコギリ、切る道具、さらに煎じたり、炒めたりするなど多くの方法があると言いました。また、彼の体をどうするか、どの部分を煎じて、どの部分を炒めるか、何百回炒めるかなど細かく説明し、たくさんのメニューを言って聞かせました。彼はそこで鳥肌が立ち、髪の毛も逆立ち、こう言いました。「うわあー!私は嫌だ、私はここに来たくありません!ここにいたくもありません!私はここの者ではなく天国の者です」。すると彼らはこう言いました。「天国は修行しなければ行かれない場所です。地獄に落ちるのはいつでも可能です」。彼はとても恐くなって大声を出したので、釈迦牟尼仏は彼を連れて帰りました。

こういうわけで、天国と地獄はすべて私たちの手の中にあるのです。私たちが自分で決めるものなのです。誰も私たちを愛してくれない、神は私たちを救ってくれないと文句を言わないことです。神は私たち自身だからです。もし私たちが自分自身を救おうとしなければ、誰が救うのですか。周りには誰もいません。宇宙の中の一人ひとりはみんな独立した存在です。私たちは自分自身の善し悪しと、自分が本当に求めているもの、あるいはどんなことをすべきかを知っています。ですから他人のことはかまわないでください。良いことをすれば、自分が良い結果を得るし、悪いことをすれば、自分が悪い結果を得るのです。これはとても明らかなことです。自分が主人となって、自らの未来を決定することです。

ですから、仮に私たちが過去に間違いをしたとしても大丈夫です。私たちは未来を選んで、過去を償えます。きょう印心を受けた時点で、私はみなさんの世々代々のカルマを洗います。これは無形の中で行います。コンピューターのボタンを押してデータを削除する様に洗い流します。けれども、もし再びカルマを作れば、私たちはまたそれを記録してしまいます。ですから未来のカルマを避けたいならば、戒律を守り、菜食すべきです。それは衆生と再び悪い縁を結ばないためです。ですから私たちが良いことをするのは、つまり自分を良くするためです。もし私たちが苦しんでいる人を、自分を愛するのと同じ様に愛すれば良い結果が得られます。でも良い因果にしろ悪い因果にしろ、そこに執着しないことです。そうすれば、その影響を受けずにすみます。良くても悪くても再び輪廻しなければなりません。一番よいのは、良いものもなく、悪いものもないことです。そうすると私たちは天国に帰ることができるのです。

☆ 得ていながら得ていない如く

みなさんはここでこんなに長く座っていても、何の不安も感じません。これでここには非常に清らかで静かなパワーがあるということがわかります。もちろん仏菩薩のパワー、神のパワーは感電したような感じではありません。「アー!来た、来た!加持力が来た!」(マスター感電した様な格好をする。聴衆笑う)神はとても清らかで静かです。それは私たち自身のパワーですから、なじめないわけがありませんね。とても快適で、とても自然なので自分でもわからないのです。私たちは自分自身を感じることができますか。当然感じることはできません。私たちはこういう自分自身に慣れています!見知らぬ人が入って来たときに、初めて違う雰囲気を感じるのです。

ですからあなたたちは座禅をして利益を得ても、自分でもわからないことがあります。何も得ていないのと同じ感じです。とても自然で、とても優しいのです。十分に注意し、集中して初めて何を得たのかがわかります。ですから『般若心経』の中には「特に得たものは何もない」と書いてありますが、つまりこういうことなのです。また孔子は「得る」と説いています。二つは同じことを述べているのです。何の矛盾もありません。『般若心経』と『大学』は決して矛盾していません。ただ彼らの表現の仕方が違うだけです。「得る」と言っても正しく、「得ない」と言っても正しいのです。なぜなら、この種の「得た」ものは、私たちには計算できないものだからです。出して人に見せることもできません。ですから「得る」とは言わないのです。

このパワーは私たちが感電した様にショックを受け、びっくりするようなものではありません。でも、ときにはそのようなこともあります。もし私たち自身の障害が比較的多く、否定的な考えが割に多いと、仏菩薩の加持力が来たとき、私たちはショックを感じます。そしてこのパワーで否定的なパワーを追い出すので、少しショックを感じます。それは仏菩薩のパワーと魔のパワーは相反するものだからです。魔のパワーは外からの力、外から来る霊的なパワーなので、私たち本来のパワーはそれを受け入れることができず、それでショックを受けるのです。一回戦った様なものです。もし私たちにそれほど重いカルマがなく、外からの霊やエネルギーもなければ、私たちはとても快適さを感じます。何もないように感じます。あまりにも静かなので自分ですぐ感知できないほどです。それでも私たちはやはりそれを感じることができます。たとえば光が見え、音が聞こえることです。

私たちはたとえば音が聞こえてくると、天地をゆさぶるようなことが起きると期待します。たとえば印心のときに雷の音が聞こえると言われると、ずっと雷の音を待っています。そして、どうして聞こえないのだろうと思います。他の音が聞こえてもいいではありませんか。雷と言っても、外の雷の様に大げさなことではなく、雷によく似ていると言っただけです。ゴロゴロといった様子です。とても大きな音ですが、でも全く同じ音ということではなく、この世界のものと比べることはできません。ですからあなたたちはこう疑います。「おかしい。雷の音と言ったが、これが雷の音だろうか」。そしてそこであれこれ考え、集中力がなくなり、雷も逃げてしまいます!(マスターと聴衆笑う)

さっきある同修は、自分は何も聞こえない。ただ「オン... 」という音だけだと言いましたが、それもつまり音ではないですか。それも音ですよ!みなさんは期待しすぎることがあります!ゆっくりやりましょう!まだ、第一歩です。これからまだまだ多くの不思議なことが起こります。十分修行し、自分のパワーをよく節約すれば非常に多くの不可思議なことが起こります。そして良い状態になり、そのときになると『普門品』に述べられていることを理解します。「火に焼かれてもやけどせず、剣で刺されても殺されない」とはどんな意味かを知ることができます。今、毎日「火不能焼、剣不能殺」を唱えても、火で焼かれたら死んでしまい、剣で刺されたら死んでしまいます。その様なレベルを知らないのです。それは一つの象徴的なレベルです。言葉では表現できません。それは古代の修行者たちが自分でそのレベルを得て、それを記したものだからです。

私たちは『観音菩薩普門品』を「火で焼かれても、剣で刺されても死なない」と唱えながら、「こんなことあるものか!」と思うのです。これは自分自身の体験ではないのに、どうしてこの様に唱えるのでしょうか。唱えても何の役にも立ちません。これは他人の体験なのです。たとえばその人がクッキーを食べてこう言います。「このクッキーはとても甘くて、サクサクして、本当においしい!」そして私たちは同じように言います。「このクッキーはとても甘くて、サクサクして、本当においしい!」これはずいぶんおかしな話ではありませんか。他人が食べ、他人が知り、他人が書いて、他人が表現したものです。私たちは食べていないので何もわかりません。では何と表現したらよいのでしょう。人の体験を唱えても何の役にも立ちません。ですから唱えることは無駄なのです。

今、みなさんが『普門品』を唱えるのは役に立ちます。それはみなさんがその中に書いてある意味を理解しているからです。前半には観音菩薩が見えたり、何かの境涯が見えること、そして観音菩薩の功徳について書いてあります。後半には観音の体験が書いてあります。梵音、海潮音、勝彼世界音、妙音、観世音など。前半は観光、後半は観音と修行の体験を非常にはっきり、非常に順序よく書いてあります。しかし後世の人はただそこでずっと唱えるだけで、どうしてそうなのかを知りません!

たとえば、ある同修は化身のマスターが見えて、きのうは一晩中私の夢を見ていたと、先ほど話しました。

彼女は朝早くここにやって来ました。今、印心のときにも化身のマスターが見え、とても明るくて、肉体のマスターによく似ていたそうです。ただ、もっときれいで、着ている服ももっと美しかったそうです(聴衆拍手)。私がここに来る前、彼女は私の写真を見て、以前私とどこかで会った様な気がすると言いました。ただ服が違い、記憶の中では赤い服を着ていたと言いましたが、前に私が黄色の服を着て来たら、彼女は似ていないと感じました。でも今日、私は赤い服を着て来たので、彼女はすぐに思い出しました!つまり今日の服は彼女が以前見たものなのです。私はとても多くの色々な服を持っています。みんながびっくりするような服もあります。私はこの様にして色々な人の好みに合わせます。それは彼らが時々内面で見る私は、さまざまな姿だからです。服は重要ではありません。ときには彼らに見せて思い出させるためです。その理由は、彼らはまだ私と会う以前に内面で会っているからです。もし私がその様な服を着ていなかったら、彼らは思い出さないでしょう。彼らは私と交流することができず、前世で私と縁があったということを忘れてしまっています。私がそれらの服を着ているの を見て思い出すと、内面の意識も思い出し、すぐに修行を始め、比較的安定します。彼女が言った様なことはたくさんあります。一つで十分です。ここで私たちはそんなに多くの話を聞く時間はありません。

たとえ私たちは光が見えなくても、そこに座っていると、とても気持ちがよく、とても静かならば入定と同じで、非常に良い体験です。私たちは毎日自分の愛の心や聡明さ、智慧を発展させると、生活はますます安定します。頼りになる感じがして、自信もあり、とても安心感があります。これも体験で、私たちが修行した利益なのです。修行は光を見るためではありません。光を見ることは私たちが修行していることを自分自身にわからせるためです。私たちは神とつながっていることがわかれば安心できます。もし光が見えなくても安全感があり、帰る場所があることがわかったなら、それも良い体験です。他人の体験とくらべる必要はありません。ですから私は体験を人に話してはいけないと言っているのです。同修にも言う必要はありません。私がOKを出した場合は話してもかまわないのですが

なぜ座禅は必要なのか