たくさんの人たちが私に質問します。「なぜ肉体を持ったマスターを探さなければ、神の加護のパワーを私たちの世界に伝えることができないのですか。聞くところによると、神のパワーはあらゆるところに存在し、私たちが祈り求めさえすれば私たちを加護してくれるそうですが、どうしていわゆる在世のマスターが必要なのですか」。神のパワーが直接私たちを加護し、私たちを開悟させて聖人に成らせたり、涅槃に至らせ天国に入らせたり、あるいは道を得させたり、私たちが求める至福の境涯を得させることを私も願っています。けれども、造物主の手配はこうではないのです。
たとえば、私たちがこの世界を見てみると、もし子どもが欲しければ結婚しなければなりません。造物主が「呼(ホ)? (ラ)吽(ホン)!」と叫んで一人の子どもを天国から「拍(パッ)」と降りてこさせ、私たちに見せてくれるわけではないのです。もし野菜とお米が欲しければ種を播かなければなりません。種を播いた後、農夫は面倒をみれば良い結果を得て、たくさん収穫できるのです。
この創造の法律は誰が作ったものかわかりませんが、この法律がなければ私たちの世界は非常に混乱してしまいます。一人ひとりが望むことを何でも要求したり、私たち凡人の頭脳は無知なので、ときには間違った物事を祈り求めるため、この世界のシステムはますます混乱するのです。ですから私はこのような法律も悪くないと思います。
たとえば、ミミズは酸化して硬くなりやせた土地を肥沃な土壌に変えます。どうして造物主は自分でそれをしないのでしょうか。私たちにもわかりません。いずれにしてもミミズがいればその土地では農作業がうまくいきます。ですからミミズにはミミズの効用があるのです。私たち人類にも人類の効用があります。たとえば夫と妻がいるから子どもができるのであって、造物主が「呼(ホ)? (ラ)吽(ホン)」、「翁(オン)嘛(マ)? (ニ)叭(バ)? (ミ)吽(ホン)」と叫んだり何かをするから子どもができるのではありません。
「すべての衆生には仏性がある」といわれますが、私たちはどのようにして仏性を見つければよいのでしょうか。またイエス・キリストはこのように説いています。「私たちはみな神の子です」。けれども、なぜ神の子なのでしょうか。私たちが神の子であるとは、創造の本能をそなえているということです。私たちがいなければ人もいないし、子どももいないのです。救世主も必ず人を通して生まれてきます。ご覧なさい、私たち人類はこんなにも偉大ではありませんか。すべての生きとし生けるものは、生を好む本能をそなえています。この本能こそが創造の力であり、慈悲の愛の力なのです。そのパワーは、いかなる衆生をも生存させ、この地球を衆生で満杯にさせます。
私たちは神の子ですが、自己と神を通じさせることはできませんが、このことを私たちは簡単には受け入れられません。けれどもこれは創造の法律なのです。たとえば私たちの子どもはみな神の子どもだといわれていますが、私たちを通さずに生まれてくることはできません。また、たとえば同じ土地に色々な種類の花や果物や樹木を植えると、それぞれが必要な栄養分を選びます。そしてそれなりのさまざまな花や果物になります。同様に私たちはみな神から生まれてきましたが、一人ひとり顔が違います。なぜなら一人ひとりは花、果物、木と同じく、違う栄養分を吸収するからです。この栄養分がすなわち仏教でいう「因果」です。「因果」とは何でしょうか。私たちの前世あるいは今生で行なったことが、ある磁場に変換され、そしてその磁場が他の同じ質のものを私たちの体に吸収して、今ある自分となることです。
それで、マスターというのは世々代々の修行をしたからこそなれものであるといわれたり、あるいは仏教経典には、仏陀になるにはとてつもない年月の修行を要すると説かれているのです。それはおそらく私たちがたくさんの違う資質と能力を吸収しなければならないためでしょう。そして私たちはやっと完璧になり、あらゆるものを持てるようになるのです。これは間違いありません。
けれども、こう言ってしまったら、私の「即刻開悟、一世解脱」とは反対になりますね。(聴衆笑う)道を成すには計り知れないほどの時間がかかります。これは本当のことです。けれどもなぜ私は「即刻開悟、一世解脱」を説くのでしょうか。なぜなら、私たちにその時機が来たからです。私たちは即刻開悟します。その即刻開悟をする人はすでにとてつもない時間、修行をしてきたのです。そうでなければ、私たちはいったいどのようにして自分がいつその時間に到ったかがわかるのでしょうか。世々代々、イエス・キリスト、釈迦牟尼仏、老子、荘子、孔子、墨子などの多くの明師が現れてきました。それなのに、この世界は人があふれています。それは、解脱する人がいないということなのでしょうか。います! けれども非常に少ないのです。
私たちはずっと、いわゆる仏教の「六道」の中で輪廻しています。「六道」とは何でしょうか。私たちは天国に行って天使になり、時間が来ると降りて来て人間や畜生、餓鬼になったり、地獄などに行ったりします。私たちは最高の意識レベルに到達しなければ、「六道」の輪廻の輪を超えることはできません。
六道輪廻は三界以内の状況ですが、三界以内とは何でしょうか。私たちの世界の他に三つの世界があって、私たちはその三つの世界を行ったり来たりすることができます。けれどもそれは非常に難しく、見るだけでも決して簡単ではありません。ですからそのような世界が見たければ、修行しなければならないのです。
法門が違うとは交通手段が違うようなことである
たとえば、禅宗の「私は何物であるか」、「あなたは何物か」、「誰が念仏を唱えるか」という公案を考える修行法は第二世界まで行けます。私たちがヨガを修行すると第一世界、あるいは第二世界、最高では第三世界まで行けます。けれどもそこまでで止まってしまい、それ以上に上がることはできません。さらに上へ行きたければ、もっと素晴らしい法門が必要です。つまり「即刻開悟」の観音法門です。
もし高雄へ行きたければバイクか自動車が必要です。澎湖へ行くには船が必要です。アメリカへ行くには少し遠いので、飛行機の方が速く着きます。私たちがもし三界を超えたいならば、そのための特別な道具が必要です。ここでいつまでもこの世界の言葉を使って討論していてはいけません。この世界の言葉はどんなに聡明でもこの世界の言葉でしかありません。たとえば車はどんなに速くても、道路上の道具でしかありません。海を渡ったり、空を飛んだりはできません。同様に、修行には当然たくさんの法門があります。昨日私は一部の法門をみなさんに紹介しましたが、もし興味があれば修めてみてください。というのは、昨日心を落ち着かせたい人がいたからです。まだまだたくさんの法門がありますが、たとえみなさんに教えたとしても教えきれるものではありません。
みなさんが望む法門は何でも紹介できますが、危険な法門もあるし、比較的安全な法門もあるのです。昨日私が教えた法門は最も安全なものです。まだ私とつながっていない状況の下で一番安全なものです。別の法門は、もし私と毎日一緒にいないのなら修めない方がいいでしょう。しばらく修めた後、神経がおかしくなり体も悪くなり、あらゆる面が混乱します。ですから私は教えません。
インド人の多くは今でもとても複雑な法門を修行しています。その理由は、彼らがたまたまそのような先生に出会ったからです。あるいは彼らの定命が割合複雑なのでそのように修行しているのです。たとえば、彼らは一枚のとても清潔で柔らかく、5メートル位ある細長い布を巻いて、水を少し使って、布の一部を残して飲み込みます。その後ある特別な運動をしてお腹を動かし、胃腸の中を洗います。そして最後に少しずつゆっくりと引っ張り出します。まだたくさんの話しにくい変な法門があります。たとえば、男女の器官を修めたり、私はここで具体的に話す勇気はありません。女性たちが家に逃げ帰ってしまう恐れがあります。(マスターと聴衆笑う)
ときには、彼らは布を鼻の中に入れてゆっくりと引っ張り出します。鼻を洗うだけではなく、全身あらゆるところを洗います。これが彼らのカルマを洗うということです。けれども、私の考えではカルマは布で洗うのではなく、功徳、道徳、善良な心、修行の功力でこそきれいに洗うことができるのです。その理由はカルマは無形で、心が造り出したものだからです。ですから私たちは心で洗ってこそきれいにすることができるのです。
インドでは現在も、ヒマラヤの山中で隠れて修行している人が大勢います。これまで人が訪ねたことがない程非常に寒く、非常に高い所もあって、修行者は一カ月に一度しか山を下りません。あるいは、誰かが少しばかりの米や飯や食物を運んできて差し上げます。彼らはその場所で真面目に修行して、山を下りないのです。。
そういった場所に行くには、歩くか飛行術などを使って飛んで行くしかありません。彼らの歩き方は飛んでいるようで、他の人はその速さに追いついて行けません。また、そのような場所に行くには荷物を持てないので、先に「拙火功」という修行をします。つまり、丹田の火を全身に分散させて体を暖めるのです。衣服を着ないか、一枚の薄い布をまとい、歩いて登ります。道のりがとても遠いので、多くの物は持てません。
そこは雪におおわれた山なので、バイクはありません。歩くときに気をつけないと、とても深いガンジス川の谷間に落ちてしまいます。往生の呪文を唱える間もなく、粉々になってしまいます。その場所は、さまざまな法門をたくさん修行しなければ住むことはできないのです。
密教の非常に有名な教主であるミラレパは、それまでにとてもたくさんの色々な法門を修行してきたので、ヒマラヤで生きることができたのです。たとえば、彼は飛行術を修めたので、空中を飛ぶことができましたし、拙火功も修めていたので、お腹の熱を全身に運ぶことができました。ですから彼は衣服を着ていませんでした。ときには三ケ月間雪崩が続いて道がなくなり、山を登り下りする人がいなくて托鉢もできない場合、彼は三、四ケ月何も食べません。
以前は交通が不便で生活も簡素だったので、多くのさまざまな法門を修行することが可能でした。現在の私たちにも修行はできますが、現代人の多くは体が弱く、精神的ストレスも多いので、長く歩いたりするような複雑な法門を色々と修行することはできません。
ヒマラヤのような気候に耐えられる人は大変少ないのです。たとえば、私がヒマラヤにいたとき、ご飯を炊くことはできませんでした。炊くことは炊けますが、非常に時間がかかるのです。それは気圧が足りないからです。ずっと煮続けても冷たいままです。私はお米を見つめ、お米は私を見つめますが、沸騰はしません。仕方なく生のままで食べます。ガンジス川で洗って食べました。とてもおいしかったですよ。
ヒマラヤには、あれほど寒くても野草が生えています。私もどうしてそんなふうに生えるのかと非常に驚きました。その野草は摘んで食べられます。けれども、もし食べすぎると野草のようになって、緑色の毛が生えてきます。(マスター笑う)ですからミラレパがヒマラヤに住んでいたときは、全身に緑色の毛が生えていました。人々は彼を見ると「あなたは布達ですか」と言いました。「布達」とはチベット語で「鬼」の意味です。(マスターと聴衆笑う)彼は「違います。私は人間です」と答えます。するとその人は質問します。「人間なのにどうしてそんな様子なのですか。なぜ緑色の毛が生えてきたのですか」。そうです。私たちは何を食べるかによって何かになるのです。
これは体に関することですが、精神面でも何を思うかによって何かになるのです。これをみなさんは聞いたことがありますね。けれども、どうして一人ひとりが道(タオ)を得たいと思っても、得ることができないのでしょう。そうできれば簡単でしょう。みなさんは帰ったら毎日こんなふうに思ってみてください。「私は道を得ました、私は道を得ました、私は道を得ました・・・」そうして道を得ることができるでしょうか。こんなふうに唱えることは必要ありません。唱えても役には立ちません。もしも私たちにマスターがいなければ、何を唱えてもむだです。ですから多くの人が毎日「阿弥陀仏」と唱えても、阿弥陀仏にはなれないのです。けれども、もし一人の道を得たマスターと出会って、そのマスターの指示に従って唱えれば役に立ちます。
なぜ最高のパワーと直接通じることができないのか
どうしてこのように不思議なのでしょうか。その理由は先程私が話しましたね。とても多くの人が私にたずねます。「なぜ私たちは、この法脈を得るためにマスターが必要なのですか。最高のパワーはどうして私たちに直接伝わらないのですか。観世音菩薩はどこで願ってもどこにでも現われます。どうして私たちの前に現われないで、一人の凡人の体を通す必要があるのですか」。答えはこうです。観音菩薩があらゆるところにいるというのは間違いではありません。けれども、私たちにその姿は見えません。たとえ私たちの目の前に立っても見えません。その理由は私たちの思想と振動がとても粗いからです。けれども観音菩薩は違います。すでに大きな悟りを開いた者の振動で、体は本当に本当に微細ですから、私たちには見えないのです。
ヨガナンダ(Paramahansa Yogananda )の自伝にはこのように書かれています。彼はインドのとても有名なヨガ行者の一人で、修行がすすんでいて、彼の師の師であるババジー(Babaji)は千年以上も生きるほどのたいへんな長寿で、ヒマラヤに長く生活しており、決して死ぬことはありませんでした。
ある日千年以上生きているババジーがヨガナンダの師を訪ねて来たとき、師はとても感激してお茶を用意しました。けれどもお茶を出したとき、ババジーの姿はありませんでした。どうしてでしょうか。それは、彼がすでに太陽の光の中に隠れていたからです。この物語は以前にも話しましたね。
私たちはどのようにして太陽の光の中に隠れるのでしょうか。みなさんは太陽の光の中に人が隠れて見つけられないということを想像できますか。けれどもこれは事実です。修行していない人には理解できないでしょうが、先程同修が報告したように、ときどき私の姿は見えなくなります。私はどこに行ったのでしょうか。この何十キロの体が、どうしたらそんなに早く走れるでしょう。突然どこかにこんなふうに飛んで行くことはできません。体が光の中に隠れているので、見つけることができないのです。
体がとてもかすかで、私たちに天眼が開いていなければ見ることのできない人々がいます。私たち凡人の心は少し揺れるとすぐに見えなくなります。たとえば、私たちは観音法門を修め座禅をするとき、仏陀の境涯が見えることがありますが、喜んで興奮するとすぐに見えなくなります。私たちを恐がっているのでしょうか。違います。それは私たちの心が平静ではないからです。それで仏が見えなくなるのです。
今後私たちの修行レベルが高くなれば、完全に悟りを開いた衆生が見えるのではなく、私たち自身が完全に悟りを開いた衆生となるのです。それは非常に高いレベルです。けれどもそれを手に入れられる人は非常に少ないのです。私には言えます。観音法門を修める以外にそのレベルに到達できる人はいません。(聴衆拍手)とは言っても観音法門を修行したからといって必ずみながそのレベルに到達するとは限りませんが。
昨日私たちは金山活仏のレベルについて話をしました。彼が病気を治療する能力は非凡で、不可思議です。彼は何を使って病気を治すかみなさん知っていますか。体の垢、体を洗った後の水、痰、鼻水、耳垢などを使います。みなさんはそのような薬を飲みたいと思いますか。(聴衆笑う)
たとえマスターが来ても、私たちが福報を得るのはとても難しいことです。なぜならば、私たちの区別する気持ちがとても強いからです。マスターがすでに一つの肉体に変化していることさえ簡単には信じられないのに、フワフワと空中に存在して姿が見えないのなら、なおさら信じられないことです。ですから、なぜ私たちの大多数が聖号を唱えるときに一心不乱にできないのかというと、それは私たちが姿の見えないマスターを信じられないからです。問題はここです。私たちはマスターを信じることを好きでないわけではありません。けれども、私たちは簡単には信じません。それはマスターの姿が見えないからです。
金山活仏はある日一軒の民家に招かれ、夫人の病気を治すよう頼まれました。彼女は大官夫人です。彼は入ってくると、夫人を抱きしめてキスしました。そして彼女の口の中に自分の痰を入れようとしました。夫人は今までこのような聖人に出会ったことがなかったので、急いで逃げようとしました。彼女の夫もとても怒って、金山活仏を追い返しました。
別の夫人がこの話を知って、こう言いました。「惜しいことをしましたね。あなたたちは彼の病気を治す方法を知らないからです。彼の体のどんな物も神薬なのですよ」。けれども、たとえそうであっても、大多数の人のせいにもできません。普通の人には飲み込めないからです。もし私にくれようとしても私も飲めません。(聴衆笑う)金山活仏には非常に申し訳ないですが。(マスターと聴衆笑う)私はただ正直に話しているだけですよ。
最高の救世法
この世の中は逆さまなので、ときには、いわゆるマスターは世間の人をあえて救いません。本当に良い物を私たちは良いと認めません。悪い物や毒物は私たちに傲慢な心を起こさせ、病気の苦しみと怒りを生じさせ、逆に私たちに良い物と思わせてしまいます。
けれどもそうであっても、そのような方法を使わないマスターもいます。それはほとんどの人に利益がないからです。私たちは衆生のせいにしてはいけません。彼らの普通の考え方はみな違い、すぐには変えられません。ですから私は別の比較的快適な方法を使います。なぜなら私はそのような方法を使えないことを知っているからです。この時代にそんな方法をどうやって使うのでしょうか。その時代でさえも使えなかったのに・・・。それで多くの人は彼に病気を治してもらう勇気がなくて、病気を持ち帰ったのです。
このような方法を使わないマスターもいます。彼らにはどんな方法も必要ありません。私たちは阿弥陀仏、観音菩薩の名前を唱えるとご利益があって、助けてもらえると聞いたことがありますが、これは非常に楽です。違いますか。もし私たちが観音菩薩の名前を唱えて、男の子が産まれて欲しいなら男の子が産まれ、出世したければ出世し、長寿を望めば長生きし、男性に変わりたければ男性に変われるのです。けれどもこのようなマスターはとても少ないのです。たとえ私たちが観音菩薩や阿弥陀仏がいるということを聞いたとしても、彼らはいつもここに来るわけではありません。また、元々彼らの名前を知らない人々もいるのです。たとえばアフリカ人はどのようにして観音菩薩の名前を知ることができますか。どのようにして阿弥陀仏の呼び名を知ることができますか。それでは彼らは永遠に救ってもらえないのでしょうか。それではあまりにも気の毒ですね。
私たちはしばらく阿弥陀仏、観音菩薩をわきに置いておいて、別のもっと素晴らしいマスターを研究しましょう。私たちがその人の名前を唱えなくても、またその人のことを知らなくても、その人はすでに私たちを助けています。これが最高のマスターです。このようなマスターはさらにもっと珍しいことです。たとえこの世の中に来ていても、私たちは認識できません。たとえその人が「私はマスターです」と言っても、私たちには信じられません。でもその人は普通は「私はマスターです」とは言いません。もちろんこんなふうには言いません。では、どのようにして私たちは知ることができるのでしょうか。
そのような命を助ける能力のある大マスターに出会えるのはきわめて難しいことなのです。ですから私たちはここで観音菩薩を唱えても、一途にずっと唱えても何の役にも立たないかもしれません。それは私たちには彼らの姿が見えないからです。私たちはただ単に彼らが化身してこの世の中に生まれ変わり、一つの肉体を道具として私たちと通じ合うことを期待するしかありません。そのとき私たちにやっと希望が出てくるのです。
けれども私が昨日話したように、もしその人がこの世の中に再来するとしても、その人は私たちが想像するのと同様の姿、格好をしているとは限りません。そして、私たちはまた失望します。けれども、衆生は永遠に失望するものです。それは、たとえ神であってもすべての大衆の心を満足させることはできないからです。ある人は男性の姿であることを好み、ある人は女性の姿であることを好みます。ですから私たちにとって一番良いのは、自分のこの凡人の頭脳ときちんと相談して、頭脳にこのように言うことです。「その人が男性か女性かに関係なく、その人が大きいか小さいかに関係なく、その人がどのような様子であるかにも関係なく、私たちはその人を受け入れるべきです」。試してみてください。(聴衆拍手)
マスターの大願
私がフォルモサに来たとき、ある「佛七」に参加しました。「佛七」つまり七日間仏の名を唱えることです。「南無阿弥陀仏、南無観世音菩薩、南無・・・」三〜五人の仏の名を止めることなく一日中唱えます。家に帰るときに声が出なくなる程唱えます。これを佛七と言います。
私は念仏のときに体験を得ました。そのときすでに観音法門を修行していましたが、することがなくつまらないので、フォルモサの人がどのように修行するのかを見に行ったのです。そのとき一人の有名な禅師がいて、私は彼を訪ねて行きました。私は修行をしている人がとても好きです。その人がどのようなレベルでも関係なく、すべて好きです。彼らの道を求める心と質素な生活が好きです。彼らの衆生を救済したいという悲願がとても好きです。
私は彼らと一緒に念仏を唱えるときに体験がありました。阿弥陀仏と通じて、一つの思いが浮かびました。そのとき、私は衆生が本当に苦しんでいると感じて、そこで泣いてしまいました。当時、私たちは阿弥陀仏と唱えながら懺悔していました。そのとき私は涙がこぼれてしまいました。私は阿弥陀仏にこう言いました。「衆生はあんなに苦しんでいます。一人ひとりはあなたの名を知っているわけではありません。あなたの名を唱えるまで待っていたら彼らはみな地獄に落ちてしまいます」。私は阿弥陀仏にこのように文句を言ったのです。「もし私が仏に成ったら・・・」続けて私は阿弥陀仏に言いました。「私の名を唱えなくても、誰かが苦しんでいるのを知ったらすぐに助けに行きます」(聴衆拍手)
私たちが何か願をかけるのに、誠心誠意であれば達成できます。私自身がこのように体験しました。以前も私はいくつかの願いをすべて達成しました。みなさんも参考にしてください。もしみなさんが衆生を助けたいのなら、本当に誠心誠意であればとても早く道を得ます。他人を手助けすることが最も早く道を得る方法です。けれどもそれに観音法門も加えなければなりません。
私たちが道を得たいとき、私たちの真心は天を感動させます。私たちが衆生を苦しみから助けたいとき、私たちの真心は天人を感動させます。そうしてこそ私たちの願いは本当に達成できるのです。けれども、私たちが願をかけてすぐに達成するわけではありません。私たちは苦労し、努力してマスターを探さなければなりません。マスターが出現するということは、私たちに時間が来たということです。私たちがそれ程大きな願をかけたので、マスターが現われたのです。高いレベルの衆生も手助けするので、早くに悟りを開き、道を得ることができます。
非常に大きな願をかける人は、普通の人ではありませんが、普通の人も願をかけます。たとえば、自分の子どもが一番の成績で卒業する、あるいは自分の娘が必ず高級官僚と結婚する、または自分が出世するとか世界一の美女になる等々の願をかけます。誠心誠意、本当に他人のために自分の生命と福報を忘れて願をかける人は非常に少ないのです。その人たちの前世はもちろん修行しています。彼らの潜在意識にこのように高雅な思想が記録されているのです。誰も彼らを教えたわけではありません。それに誰かが私たちに何かを教えられるわけではないのです。それは、多くの人から教えてもらっているからなのです。たとえば、私たちには信仰があります。多くの人も信じています。また仏教を知っていて、観音菩薩にどんな慈悲があり、イエス・キリストにどんな博愛があるか、一人ひとりみんな知っています。けれども、私たちは彼らのような慈悲と博愛の精神を学ぶことはできません。ときには、私たちは彼らと同じような願をかけます。けれども真心からではありません。自分は誠心誠意と思っていても、願をかけた後に怖くなってこう言います。「結構ですよ。私は冗談を言っただけです」(マ
スターと聴衆笑う)ですから、大多数の人は修行しても、成功はしません。
修行を成功させたいのなら、私たちは真心を込めて、大いなる努力をしなければなりません。また大マスターの手助けもなくてはなりません。なぜ大マスターが必要なのでしょうか。先程話しましたが、今もう一度言います。たとえば稲の種は元来稲になるものであり、その後お米が取れます。けれども、もしその種を湿った泥の中に播く人がいなければ、種は発芽しません。きちんと分けて一列ごとに田植えをし、肥料をやり、農薬をまき、水をひくというような世話をする人がいなければ生存できないのです。
ですからたとえ世俗的なことでも、私たちには一人の専門家からのアドバイスが必要だということです。そうしてこそ良い結果が出るのです。ましてや私たちが道を得るには、なおさらではないでしょうか。私たちは自己を模索し、あるいは一人の凡人の専門家ではない人を頼りにしてどうやって良い結果が出るでしょうか。私たちにはマスターが必要なのです。それは、私たちがたとえ悟りを開いたとしても、開悟のレベルを上げなければならないからです。そして私たちはすでに開いた智慧を長く養って行かなければなりません。そうしなければ、腐ったり死んだりしてしまうのです。
唯一の法門
ですから、とても多くの人が毎日の念仏で十分だと思っていますが、私は足りないと思います。昨日、私はみなさんに念仏を教えました。比較的パワーのある念仏法門をお教えしました。けれども、もしみなさんが仏になれなくても私のせいではありません。というのは念仏だけでは仏になれないからです。なぜでしょうか。その理由は、これが「差別的」な法門だからです。「仏」がいて「私」がいる、私が念仏し、仏を崇拝するのであって、自分は仏ではないからです。
「私は仏」になりたいのなら、別の法門があります。この法門は法門ではありません。一種の法脈であり、無形のパワーです。私たちは一人のマスターのレベルを得た人から伝えてもらわなければなりません。あるいはそのマスターの弟子を通して伝えてもらうこともできます。私たちは必ずマスターに従って勉強しなければならないのではなく、その人の弟子から学んでもよいのです。もしその弟子が彼のマスターから派遣されて私たちに伝えるならば、それでもよいのです。それはその人のマスターの内面で、弟子がその法脈を伝えることを許しているからです。ですから成功するのです。これは信じるべきです。
ミラレパが彼のマスターについて学んだとき、彼のマスターはミラレパを七年間罰しました。彼が以前、黒い神通力を使ったときのカルマを洗浄するためです。七年後、ようやく彼に伝法しました。けれども七年の間ミラレパは非常に焦っていました。彼のマスターを何度もだましてこの法門を盗もうとしましたが、毎回失敗しました。
ある日、ミラレパ尊者は彼のマスターの妻とひとつの計画を立てました。その妻は夫を真似て一通の手紙を書き、夫が寝ている間に印鑑を盗んで押しました。ミラレパはこの手紙を持って遠くに住む彼のマスターの弟子の一人を訪ねました。
その弟子は彼のマスターの法脈を伝えることを許されていたのです。ミラレパはそこで彼をだましてこう言いました。「マスターはあなたが私に伝法することを指示しました」。その高弟は本当のことと信じました。そこで、ミラレパにそこに座るように言い、伝法しました。ところが結局伝法はできませんでした。マスターをだますなんて、できますか。ミラレパはマスターをだませると思ったのですが、マスターの智慧をだますことはできません。ですから、やはり戻って来て苦労して、謙虚に彼のマスターに願うしかありませんでした。
この法脈は私たちから人に伝えることもできますし、断ち切ってしまうこともできます。なぜなら、伝法はマスターが伝えるものであって、その人物からではないからです。たとえば、私がみなさんに法を伝えるのもそれは内在のマスターのパワーからであり、Ching Hai のこの凡人の肉体から伝えるのではありません。マスターとは明師のことです。それは内面のマスターなのです。私たちの内面の智慧が熟し、開悟の成果を受け入れる準備ができたとき、そこに外面からのパワーを合わせてその人は悟りを開くのです。
たとえて言うと、鶏の卵は本来ひなになるものですが、めんどりの体温で毎日温めてこそ、やっと卵はかえることができるのです。同様に、私たちの内面には仏果があり、智慧があります。けれども、もし外在のマスターが私たちを手助けしてオープンさせなければ、私たちに使うことはできないのです。これが創造の自然の法律です。たとえば、卵はめんどりと温かい体温があれば生まれます。めんどりの体温がなくて偽の体温を使っても生まれますが、自分の力だけで生まれることはできません。同じように、私たちみんなに仏性があり、仏菩薩はどこで祈ってもどこにでも現われるといわれており、それは、神のパワーがあらゆるところに存在しているという意味ですが、もし私たちがこの世の中にいる神の代表者に出会わなければ、神のパワーを手に入れることはできないということなのです。
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