
三次元映画
フォルモサ・台北 温新
ある日、父に連れられて映画を見に行く夢を見ました。映画館に入る時、父は私には何も言わず、ただニッコリしていました。後でわかったのですが、そこは普通の映画館ではなく三次元映画の上映館で、例えば、妖精たちがスクリーンから飛び
出して、客席に向かって来るように感じられるのです。ですから、観客はいつも興奮と緊張の渦の中にいて、悲鳴が絶えませんでした。
ふと父の方をみると、どこへ行ってしまったのか、見当たりませんでした。しかし、私は全然心配しませんでした。どうせ映画が終われば、すぐにまた父と会えると思ったからです。ただ、隣に座っている男性のせいで、なかなか落ち着かなかったので、何列か前の一番左側に席を換えました。この時、スクリーンが三面式に変わって、左右に延びて来ました。左の端はちょうど私の席まで来ました。
それから、左側のスクリーンから足音が聞こえて近づいて来たので、観客は、今度は何がやって来るのだろうと息を殺して足音に集中していました。突然足音が止み、スクリーンから手が現れて、私をむんずとつかみました!
その瞬間、私は振り返って自分を見た記憶があります。「うん、今日はまあまあおしゃれして来たし、ヘアースタイルもかわいいから舞台に上がっても恥ずかしくないわ」と心の中で思いました。(おかしなことに、鏡を使わずに肉眼で自分を見た場合、首から下は見られても、頭は見えないはずなのに、なぜか席から離れる自分の全身をこの目ではっきりと見たのです。)
私は捕まえられてから一生懸命に抵抗しましたが、突然、自分の映像がスクリーンの中央にあって、観客が私に注目している事に気がつきました。それで、「こんなにみっともなくもがいていられないわ」と思い、表情を落ち着かせながら、相手を蹴ろうとしました。ところが、つかまれているので、足が自由になりません。とうとう、やっとの思いで力一杯蹴った途端、夢から覚めました。
目が覚めてみると、実際にベッドの上にあった箱を蹴っていました。夢の中だけではなく、現実の世界でも足が動いたのです。この夢はとてもおもしろく、この世界が、ちょうど巨大な立体映画館である事を連想させられました。その違いはただ、映画館では、自分が芝居を鑑賞しているとわかっていますが、いわゆる現実世界にいると、自分が一役者として演じている事さえ気がつかないという点です。それで苦痛や喜びなどに振りまわされて、芝居である事を忘れてしまいます。実は、一切が壮大な芝居にすぎないのです。芝居には欠かせない監督や脚本家もいます。前もってドラマのストーリーが決まっているにもかかわらず、演じる段になると役者はストーリーを忘れてしまって、それぞれの思いに任せて一生懸命に演じます。その中でそれぞれが学んでゆくのです。
私たちのこの体も、長時間身につけている舞台衣装なのです。ギリシャ語の「persona」は人を意味しますが、本来は仮面(マスク)を指します。この言葉には、私たちがこの肉体だけではないという古代の人々の智慧が潜んでいる事がわかります。
しかし、この点についての理解度には個人差があります。また、肉体に支配されるか、あるいは「真我」が支配しているか、それぞれの情況と支配される程度によって、自由さの度合いも違ってきます。ところが、巨大な立体映画であるこの世界は実に巧みに作られており、私たちは中に入ると完全に溶け込んでしまいます。けれども、私たちがこの世に来て役を演じる前に、神は一つの窓を設置してくださっているので、私たちはその窓から真実をのぞき見る事ができます。時間が来るとその窓は自然に開きます。しかし、それはこの世を離れる時やこの舞台衣装を脱ぐ時にしかわからないという事ではありません。同時に二つの世界、つまり真実の世界と幻想の世界に生きられるのです。私たちはこの二つの世界を、まるで夢を見たり、目が覚めたりするのと同じように、常に出たり入ったりできるのです。もし、大きな悟りを開いた聖人のように、常に同時に二つの世界にいて、
幻想の中にいながらいつも目覚めていられれば、どんなにか素晴らしいでしょう。

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