スポットライト

悟りを開いた観察者
本当の「わたし」は常に自由である
私は誰?


悟りを開いた観察者

Supreme Master Ching Hai
アメリカ・ハワイ
1993.10. 22 (英語)

 私たちは輪廻しません。私たちの習慣や、集めてきた情報の一部が輪廻するのです。ですから、この私たちの一部である、いわゆる知能、もしくはおそらく第六感が、あらゆる種類のカルマの情報を集めるのです。そしてそれが再び循環されるのです。今、アメリカでリサイクルが奨励されているコカコーラボトルの類と同じようなものです。原理が同じなのです。私たちの「ボトル」は再生利用されます。それらは毎回使用され、そしてそれらは、まだこの世の別の物質とつながっており、それを私たちは輪廻と呼びます。それはまさに、ある種のリサイクルなのです。コカコーラの中身自体は輪廻せずに、ボトルだけがします。ところが、人々はそれを認識できたり、できなかったりするのです。中身の本質がまだそこに存在しているため、それをリサイクルされたものと考えるわけです。

 この「ボトル」に詰められた中身は、輪廻しません。これは私たちの真我であり、私たちの魂です。毎回、私たちは新しい物で実験をしたくて、自分自身を新たに再生された物質や実験材料に詰め込むのです。そうです。けれども、それでまた私たちは、自分自身をこのような物質や情報と同一視してしまうのです。そして私たちは、自分が輪廻すると言うのです。しかし、それは本当ではありません。私たちは決して死にませんし、決して生まれることもないのです。私たちはずっと存在してきたのです。私たちは、この宇宙における万物の創造と破壊の目撃者なのです。常に証人なのです。けれども、私たちはよく、自分が観察している対象や環境を自分自身であると思い込んでしまうのです。それで、私たちは苦しんだり喜んだりするのです。

 ちょうど、私たちがテレビを見ている時に、たかが映画である事を忘れて泣いたり笑ったりするようなものです。私たちはこの人の味方で、あいつは殺したい。どちらも私たちとは何の関係もありませんし、彼らの誰も、私たちの敵でも味方でもありません。しかも誰も実在していないのです。 それなのに、私たちはその人を憎みます。「ああ、あの髭のやつ、あいつは悪いやつだ、殺せ殺 せ!」。みなさんはスクリーンの前に座って「殺せ! 早くあいつを殺すんだ!」とか、「逃げろ、逃げろ! あいつに殺されるぞ! 早く逃げろ! こっちだ、こっちだ!」と言うのです。まるで、テレビやスクリーンの中の登場人物が実際に私たちの言う事を聞いたり、聞こえているかのようですが、そうではありません。彼らは監督に従ってすべき事をするのであって、私たちに従うわけではありません。ですから、映画の結末の多くは、私たちの好みに合わず、私たちはそれを変えたいと思います。でも、何の必要で? もし、私たちがそれを変えたら、それはその映画ではなくなってしまいます。ですから、その映画はそのままであるべきなのです。実は、私たちは自分自身を何度も欺いているのです、しかも私たちは、そのことを毎日実証できます。輪廻や幻想やこの世の事について話す必要はありません。私たちは証明できます。

 みなさんに、私自身のばかげた体験についてお話ししましょう。昨日かおととい、私がハワイに着いたばかりの時の事です。スタッフが、私や私のそばで働かねばならない大勢のスタッフのためにアパートを借りました。お客さまもいらっしゃるので10日間借りた場所で、それほど高くはありませんが、とても広くて海岸に近いのです。私はみなさんをそこに招こうと考えていましたが、どうやってみなさんを収容できるかは見当がつきません。広いと言えば広いのですが、たいした事はないんです! 10人なら十分ですが、千人では無理です。さてそこで、私たちの世界の相対性という事について考えてみましょう。時として私たちは、「わぁ、素晴らしい!」と言います。けれども、他のものと比べると、さほど素晴らしくもありません。私たちは他の情況と比べるまではいつも幻 想の中にいます。そして、後になってやっと自分の間違いに気づくのです。多くの修行と同じです。人は修行し、菜食をし、メディテーションをします。彼らは大変素晴らしいのですが、どんな点においてでしょう? 私たちの観音法門修行者と対比させてみると、例えて言えば、彼らは生煮え、生焼けのクッキーのようなものです! ですから、私たちには、真理や神の万能のパワーの限りのなさに比べたら、この世の良いものや、素晴らしいものには限界があるという事がわかります。


マジック ・ミラー

 さて、私のばかげた話に戻りましょう。私は部屋に入りました。ステキです。どこにも大きな鏡が備えてあり、自分がどんなにきれいか見る事ができます。(聴衆はマスターのおしゃれをするジェスチャーを見て笑う)そしてベッドルームには、大きな鏡がありました。私は、それが鏡だとわかっていました。誰にだってそれが鏡だという事はすぐにわかります。これについては何もばかげた事はありません。バスルームには、窓が二つありました。その二つの窓を通して海が見えます。そして、鏡を覗くと窓が四つ見えました。それで私は、「どうして海があそこにあるのかしら?」と考え続けました。私は、自分のいる所が水際で、海に囲まれているのだと思いました。それで、その窓から海が見えるのだと、その窓を通して海が見えるのだと思いました。そして、二日間自分自身をかついでいたのです。信じられますか? ある日偶然本物の窓から外を見るまで、その向こうには海などないという事がわかるまでです。そして私は、「どうして?」と言い、鏡のある壁をもう一度見直し、「あら、海だわ!」と言いました。それでも、私は理解できませんでした。

 ですから、賢人は愚かに見えると言うのです。実は、後で私は思い出しました。「ああ、そうだわ、これは鏡なんだわ!」。でも、なかなか気づけなかったのです。みなさんには信じられないでしょう。と言うのも、私はこの種の景色に慣れていなかったのです。二つの窓が四つになるなんて、見た事がなかったんです。それに、海は壁の中に写っていたのです。でもそれは本物そっくりで、私は窓から見た海の美しさに魅了され、鏡の事を忘れていたのです。本当にそうだったんです。けれど、私ははっと驚きました。「なんて事でしょう!あなたはスプリームマスターなのに。ま、いいでしょう、でもあなたは、本物の窓と、鏡に映った窓の違いがわからなかったのね」そして、私は自分を笑ったのです。それがわかった時は、とても愉快でした。

 けれども、それが鏡に映った窓であると気づかなかった事は意外でした。本当に、何日も驚いていました。どうして私はこんなにも騙されやすいのでしょう? 私は海が大好きだというだけで、海にすっかり気をとられていたのです。そして、「あ あ! 窓から海が見える、すてきだわ。窓が四つあって、まわりがみんな海なんだわ」と思いまし た。私は、海のそばにいるのが嬉しくて、それが幻影である事も忘れていました。気がつかなかったのではなく、海に固執しただけなのです。

 同様に、私たちの日常生活も、たいていの人は自分の最も大切な願望の対象に固執します。そして、幻想である事を忘れ、マジック・ミラーを忘れるのです。気づかないのではありません。準備が整ったら、人は気づくのです。マスターが来るか、あるいは、彼ら自身が目覚めるのです。実のところ、マスターが来る時とは、彼ら自身が目覚めているという事です。そうでなかったら、誰が彼らに、それが自分の内にある事を教えるのでしょうか? ちょうど私がした体験のようなものです。私には目があり、鏡がそこにあったのですから、いつでも発見できたはずですが、あまりにも海の光景に固執しすぎ、楽しんでしまったのです。それはもう本物そっくりで、私はそれを四つの窓だと思い込んでしまいました。私は真実を話しているのです。みなさんをからかっているのではありませんよ。この講演を楽しく運ぶために作り話を言っているのではなくて、本当の話です。私はこんなに愚かなのです。信じられますか? そして、今みなさんは私についてきています!(笑い) だから、みなさんは鏡についてどこへ行くのか気をつけてください。


実像とその映像

 私たちは、これまで自分たちの幻想に固執していました。あるいは今でも、時として。ですから、幻想−-虚像や影−-と実像の間にある真相を発見できないのです。それで、私たちは、上がったり下がったりして遊び、それを楽しんでいるのです。そしてある時、自分で気づいて言います、「どうしたのかしら?」。それはそこにはないから、存在しないのです。つまり、それはそこには実在した事すらないのです。

 同様に、私たちの生活は私たちにとってあまりにも現実的であるため、それが幻想であり、もう一つの真実の生活があって、この影の生活には真の目的が存在するという事を、理解する事も信じる事もできないのです。しかし、私たちは眼をつぶり、あらゆる感覚器官を閉じ、真実の主体を真剣に探せば気がつくのです。「ああ、素晴らしい世界がある、これこそ本物だ」。そこはとても気持ちがよい所で、現実感があり、ここよりずっと素晴らしいのです。それが、本物の窓から見ている時です。本物の風が私の顔を撫でますし、戸外では木々がそよいでいます。しかし、鏡の中はちょっと違います。私は四つの窓は違う事を発見しました。それは、鏡の中には木がなく、鏡の外には木があるからです。それで、私はわかったのです。「あ! これは映像の違いにすぎないのだ。つまり角度が違っているのだ」。それで、鏡に映った景色は一部が欠けているのです。

 ですから、私たちの真の生活においても、同じ事が言えます。見る角度が違っているため、決して完全なものではありません。それで私たちは満足できないというわけです。みなさんには、それはどこか偽物くさいと感じられるでしょう。そして、遅かれ早かれ本物が欲しくなります。そして、本物は私たちを目覚めさせるのです。その時私たちはわかります。私たちはそこにいる。それこそが私たちが誤りを犯す原因であり、これまで失敗してきた原因なのだ、と。