
私は誰?
Supreme Master Ching Hai
フォルモサ・屏東・三地門 (英語)
1992.12.26
みなさんは、マスターは何でも知っている、遍在していると言いますが、私は何も知りません! 内面のマスターが知っているのです。この「私」は知る必要がないのです。ですから私たち
は何もしなくても、しているのです。もし、私がすべてを知らなければならないとしたら、あまりに忙しすぎます。というのも、私は千と一つの仕事を同時にやらなければならないからです。みなさんは、いわゆる「自分」に報告しようとして、一度に1001もの仕事がどっと流れ込んでくるのを受け入れる能力が、頭脳にあると思いますか?
私には、既に「自分」というものはないの
です。私たちには「自分」がないのです。私たちは、単なる想念にすぎないのだと既にお話ししました。いわゆる「自分」というのは次々と出てくる想念であり、すべてゴミで、すべて習慣で、すべては記録された情報であるというにすぎません。実際には「自分」など存在しないのです。
「わたし」とは、覚者であり、観察者であり、私たちが集めたり反応したりするそのすべてを見ている者なのです。行為と反応の連鎖があり、それを知っている者が観察者なのです。行為や反応ではなく、観察者です。それこそが「わたしたち」であり、「わたし」なのです。けれど私たちは、いつも観察者をその出来事と取り違えてしまいます。私たちはそれほどまでも、出来事や自分たちの知っているあらゆる感覚に執着し、それを「わたしたち」だと思い込むのです。「わたし」は今怒っている、「わたし」は今幸せだ、「わたし」は今幸せではない。これは真実ではありません!
これは単なる反応にすぎません。怒っているのは本当の「自分」ではありません。「わたし」は怒りを観察しているのです。「わたし」は現在進行中のドラマを見ているのです。今はおかしいところだ、今、みじめなところだ、でもそれだけの事です。単なる舞台上で起きている行為とその反応にすぎません。
ですから、私たちが自分のために何かをする場合、私たちはそれをすごい事だとは思いません。
みなさんが自分の口に食べ物を入れたとします。何かごほうびを期待しますか? あるいはみなさんが自分の体を洗っている時、自分を素晴らしいと思いますか?(笑い)もし洗わなければ、がまんできないでしょう。もし食べなければ、体に力が
入らない感じがして動けなくなります。ですから、食べる事自体、ある種の自己報賞なのです。お風呂に入る事自体が自分に対するある種のごほうびなのです。同様に、マスターや人類、修行仲間、そして印心していない人々のためにするどんな仕事も、自分に対するごほうびなのです。
もちろん、マスターのために仕事をする時は、人類のためであると言えます。なぜなら、マスターは全人類だからです。彼は私的な存在ではありません。彼は公的な道具なのです。誰がどんな仕事をするために使ってもかまわないのです。みなさんはその事を既にご存じですね。どんなに下級な仕事であろうと、どんなに偉大な仕事であろうと、そんな事は関係ありません。みなさんはいつもマスターにさせていますし、マスターにそれをするように言い、だからこそマスターはするのです。みなさんが見ていようと、見ていまいと。マスターは、必ずしも自分がする仕事について、常にみなさんに報告しなければならないわけではありません。ですから、みなさんは時々、それを知るというわけです。智慧眼で見るのです。あるいは見ない場合もあります。おそらくみなさんの智慧眼は眠っているのでしょう。(笑い)
そうです、そういうわけなのです! そしてみなさんは言います。「マスターは私のために何もしてくれない。私は全く何も見ていません」と。自分が寝ている間に、お母さんが掃除や洗濯、食事の支度をしていても、みなさんは何も知らないでしょう?(答える:はい!)お母さんが家事をしないというわけではありません。みなさんが起きた時に家の中が整頓され、きれいになっていて、きちんとしている時、みなさんは誰かが何かをしてくれたと気がつくでしょう。そして、家の中に他に誰もいなければ、それはお母さんに決まっています!
至高のパワーが一切を処理する
ですから、マスターだけがすべてを行うのです。他に誰がいますか。みなさんのためにあらゆることをしてくれる至高のパワー以外に、誰がいるというのでしょう?
そして、みなさんは、自分がメディテーションをし、座り、菜食し、戒めを守っているなどと思っているのです。実は、やっているのは全部マスターなのです。マスターを探し求めているのは、マスターなのです。あなたではありません。探し求めているのは誰ですか?
次から次へと飛び跳ねるあらゆる想念ですか? マスターの智慧を探し求めている自分ですか? 違います! それは、自分自身を認識する時が来た事、自己のパワーの真価を求める時が来た事を
知っている「智慧」なのです。(拍手)みなさんは、私のインスピレーションを途切らせてしまいました!(笑い)大丈夫! 私にはもう一つありますから。ですから、もし私たちが、まだ自分たちが常に何かをしているとか、何かを探し求めていると思っているなら、それは間違いです。だから「私たち」は、マスターと交流できないのです。マスターとは、私たち自身なのです。

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