|
修行の概念は論理的に
昔ある修行者が路上で座っていると、たくさんの人が走って来て言いました。「早く逃げて!
狂った象が私たちを追って来ている。みんな殺されてしまうからあなたも早く逃げて!」。その修行者は答えました「私は神様を信じています。象の中にも神様がいます。だから私は怖くありません」。まもなく象が走って来て彼は殺されてしまいました。
彼は象の中にいる神を信じたのに、どうして教えてくれた人の中の神様を信じなかったのでしょうか?
なぜ正常な神を信じず、逆に狂った神を信じたのでしょう? ですからこの場合は論理的とは言えません。
インドに別の話があります。ある時、インドの各地でとても危険な伝染病がはやっていました。しかし、ある地方にはまだ来ていませんでした。政府はその地の人々に予防接種を義務づけましたが、一部の人たちは反抗しました。彼らは予防接種がどんなものかを知らなかったので強く反抗しました。その後、政府と慈善団体と医師は、夜中にその人々の家に入り込み、押さえつけて無理やり注射をする事にしました。それは、もし一人でも伝染病にかかればその都市が全滅してしまう事もあるからです。みなさんもよくご存知ですね。たった一人でも予防接種をしない人がいれば予防するのは難しいのです。それで彼らはそうする事に決めたのです。
ある夜、医師と看護婦のグループは一軒の家に入りこみ、家族全員を押さえつけて注射をしました。彼らは当然強く抵抗しましたが、医師は自分の務めを果たさなければならないので、注射をしてからやっと彼らを放しました。その後、主人が立ち上がって話しました。「私たちの信仰している宗教から言えば、予防接種は受けなくてもいいのです。だから私たちはできる限り抵抗したのに、あなた方が力ずくで強行したので、どうしようもありませんでしたよ。でも済んだ事です。今はあなた方は私の客です。ところが、家には何もなくて、あなた方に差し上げられるのはきゅうり一本だけです」。
これはインドの風習で、人が他人の家を訪れた場合、その人は神であり、家人に神のように扱われるのです。ある物を何でも差し出して食べさせたり飲ませたりします。それでこの主人は、水と唯一あったきゅうりを出したのです。彼の信仰している宗教によれば、神が誰かを病気にしようと思えばその人は病気になり、彼らは神の意志に逆らうべきではないので、注射に対して強く抵抗したのだと医師たちに話しました。その医師たちはこれを聞いて、この主人はとても信仰心が強いのだと感じ、自分たちを恥じました。
けれども私はこの主人の信仰は一方通行のように思います。彼には神が何を言っているのか聞こえていないのです。勝手に神がこう言ったと思い込んでいます。神が誰かを病気にさせたいならその人は病気になると思っています。しかし、神はこの医師たちを送ってきたのです。これは、神が彼らに注射を受けさせようとしている事をはっきりと表しています。どうして神の言う事を聞かないで抵抗したのでしょう?
もし神が本当に彼に「あなたは注射を受けてはいけない。私はあなたを病気にはさせないし、私が誰かを病気にさせると言えばその人は病気になります!」と言ったのならまだわかります。ところが神は医師たちを送ったのです。それは神に別の考えがある事の表れです。例えば、神は病気になりたくない人に注射を受けさせるように手はずを整える事などです。
ですから私たちのような修行者は、固執したり頑固にならず、状況に応じて対処しなければなりません。もし私たちが病気になったらメディテーションと心からの祈り以外に、薬があればそれを飲み、薬がない時は当然祈ります。その後は神がどのようにするかを見るのです。神が医師を家に来るように手配しても、要らないと言いますか?
この医師は神が送った者ではないとどうしてわかるでしょう? すべては神の手配であると自分で言ったのでしょう? 医師が来たのは神の手配の表れなのに、どうして抵抗したり固執したりしてトラブルを起こすのでしょう?
同様に、たくさんの似かよった物語があります。この世界はこんなふうなのです。多くの人が自分を信心深いと思っています。しかし、言うのは簡単ですが、いざ不都合な事があれば騒ぎます。この家族のように、もし、今注射をしなければやがて病気になり、死ぬ前にとても苦しみ、その時きっと騒ぐ事でしょう。そして、神様はどうして助けてくれないのだとか、面倒を見てくれないとか、どうして病気にさせたのかなどと文句を言うでしょう。私たち修行者は敏捷に対応しなければなりません。不精や強情のために「私は神を信じています!」とだけ言って済ませてはいけません。もしそうならば、食事をする必要も、服を着る必要もないでしょう!
ただ神を信じていればいいのです。人はあなたの裸を見たりしません。ただ神を信じてさえいればお腹も空かないはずです。これはあまり論理的ではありません!
私たちの口は便利すぎて、都合のいいように好きに言えます。つまり私たちが何かをしたくない時、「私たちは神を信じています!」と言い、そして何でも神のせいにして、何でも責任逃れのために神を利用するのです。ですから修行者は気をつけなければならないのです。
|