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マスターについて観音法門の修行を始めて以来ずっと、私はマスターから受けた目に見えない教えによって、日常生活や社会的な人間関係の面での信じられない変化に気づいています。すべてが奇跡的なほど順調に進んでいます。いつのまにか、私はあらゆる人に好意的に接するようになりました。他の人と分かち合う事にもますます喜びを感じるようになり、心身もさらに解放されたように感じています。
ある日、私はいろいろな大きさの、熟し方も様々な新鮮な果物をチャイナタウンから買ってきました。普段私は一番いいものを自分のために取っておき、残りを他の人に分けてあげていました。そうするたびに、私は至福と愛で満たされた気分でいました。
今度は、最高のものをあらかじめ確保しておくというそれまでの習慣を改めて、他の人に先に選んでもらう事にしました。いいものが全部みんなに取られてしまった後、私は少し戸惑いながら思いました。「どうしてみんなこんなに遠慮がないんだろう。ぼくが取っておきたかったのを正確に選んで取っている!」。おそらくこのようにがっかりしたのは、私が以前、条件付きでふるまっていた事への報いだったのでしょう。
私は他人の察しの悪さと気配りのない行動にうろたえながら、こう考えました。「1ドルにも満たないこんな2、3個のフルーツが、ぼくに大きな執着と束縛を与えていたのか!」。私には、すぐにはその理由がわかりませんでした。しかしメディテーションをした時に、やっとその答を得る事ができました。私たちが執着するものは、対象物の価値そのものではなく、輪廻を繰り返し、何世代にもわたって積み重ねられた容易には取れない習慣だったのです。
そこで、私はその好ましくない習慣を改めようと決心しました。別の機会に、私は2種類の桃を買って、一緒に置いておきました。その中には私が一番気に入った大きな赤い桃も含まれていました。その日は、たとえ誰かが私の好きな桃を取ったとしても、楽しい気持ちでいようと心の準備をしていました。なぜなら、修行者は他人をあるがままに愛さなければならないからです。驚いた事に最後に残った桃は、どうなってもいいと思っていた私が一番気に入った桃でした。まるで、マスターからのごほうびのようでした。
理由はどうであれ、放棄できた時だけ、私たちは喜んで与えられるのです。喜んで与えた時だけ、得る事ができるのです。これは、エゴを捨てるために学ばなければならない本質的な教えです。私たちは、放棄できない事を心配する必要はありません。自分が放棄できないと気づかない事を心配するべきなのです。手放せない事を心配するのではなく、そうしたくない事について心配するべきです。私たちの精神修養は、マスターの教えを実践する事です。本当の意味でマスターの教えを実行に移す事ができれば、聖人の精神に近づくのです。
私たちは、ささいな日常生活の経験の中に貴重な真実が隠されている事にほとんど気づいていません。「歩いている時も、休んでいる時も、座っている時も、眠っている時も、あらゆる事が座禅なのです」と昔の禅のマスターが言ったのも、もっともな事ですね。
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