マスターの講義
試練を乗り越えてこそたくましく成長できる
スプリームマスター チンハイ フォルモサ・台北
1989.2.28(中国語) ビデオテープ NO.50
みなさん、少しは太りましたか。(聴衆「はい」)
そうですね。体の中が太って膨れ上っていますね。(笑い) 修行の状態が良ければ、私たちは「太る」ことができ、内面の光が大きくなります。これこそが「太る」ということです。肉体が太るのは役に立ちませんが、この光がますます強く明るくなると、それこそ本当の「太る」ということになります。私はみなさんの肉体を養うことはできませんが、この光は養えるのでみなさんをますます「太らせる」ことができます。(笑いと拍手)
しかし、私たちは高い境界(きょうがい)に行くと小さくなり、太ることもなく、何もなくなり、ただ明るい光になります。境界が高ければ高いほどより小さくなり、より清らかになります。小さいといっても小さいとは感じず、大きくなりたければすぐに大きくなれ、小さくなることもでき、消えたければ消えることもできます。
私たちが高い境界に行った時、そこのマスターに会いたくても、決してすぐに会えるわけではありません。彼と良い因縁があって初めて彼は形として現れ、私たちに見せることができます。さもなければ彼は形がなく、至る所に存在しています。マスターというのは、私たちがいったんその場所に入れば見られる粗い肉体ではないのです。そんなものではありません。彼が私たちに自分を見せたいと思えば、自己のパワーを集中させて少し厚くなります。光の厚みと密度を調節して、1つか2つの姿に変化して私たちに見せます。例えば光になろうと、透明な体になろうと、少なくとも透明に変化してようやく私たちは彼を見ることができるのです。そうでなければまったく何もないので、彼を見ることはできません。
愛があるほど、神に近づく
たとえそれほど高い境界でなくてもすでにこんなふうですから、真の最高の境界となるとさらに何もないのです。ただ平和で、愛のパワーに満ちています。私たちは彼を何と呼べばいいのかわからず、抱擁したくてもできず、ただ彼が私たちを抱擁し、私たちを大変愛しているのを感じます。私たちは、彼が誰なのか、どんな人なのかわかりませんが、誰もいないわけでも、何もないわけでもなく、ある種非常に慈悲深くて、私たちを愛してくれるパワーを感じます。それが神です。仏陀や造物主もこのようです。
この物質世界では、私たちもまた神です。私たちは自分の子どもを愛し、隣人を愛し、仲間を愛します。その時こそ、私たちは神の品性を表わしているのです。私たちは彼が与えてくれた内なる愛を発揮し、形として表わすのです。私たちはこの愛を発揮すればするほど、仏陀、神や造物主、道により近づけます。なぜなら、道、神、仏陀とは愛のパワーだからです。
ですから、昔のどんなマスターも、神や悟った者を代表してこの世を訪れた時は、慈悲深く愛があるようにと人々に教えてきました。それ以外の教えはありません。彼らは最も神の近くにいて、悟った者と最も親しいため、最もたくさんの愛を持っています。また、彼らが最高レベルの愛と最も近いため、私たちはとても愛されていると感じるのです。どんな人が彼の所を訪れても、彼は面倒を見ます。たとえ今、千人、百万人の人が訪れたとしても、人々はみな、まるで彼が自分だけのもののように感じます。こういった体験はありますか。(聴衆「はい、あります」拍手) 造物主も大体こんな様子です。
"休息"とはよりたくましく成長するためのもの
ですからごらんなさい。この宇宙の面倒を見ている人はいないし、何かのシステムや組織も見当たらないようでも、神はどんなものもおろそかにしないのです。一匹の昆虫、一本の草、一つの果実、一輪の花でさえ見落すことなく、周到に面倒を見ています。時季が来れば花が咲き、時間になれば太陽が昇り、春が来たら暖かくなり、冬になると寒くなります。寒い時というのは神や造物主が私たちを無視しているわけではなくて、その時は休息が必要だということです。私たちが夜睡眠をとるのと同様に、宇宙にも休息が必要なのです。
ですから、冬になると私たちは疲れやすくなり、栄養剤が必要となります。栄養のあるものをたくさん食べてこそ体力がつくのです。冬には葉はすべて落ち、枯れているようでつまらなく感じますが、そうだからこそ新しい葉が生えて来るのです。万物の生から死に至る過程にはすべて意義があります。私がテントを張っている場所は、今は緑がいっぱいになってとてもきれいです。 みなさんが柿をとりに行った時は、木がまだ緑になっていなかったのを覚えていますか。今ではすっかり緑色に変わり、きれいになりました。こういった具合です。時には冬になる事も大切で、木々を枯らす事によって、古い活力のない葉は自然に落ちます。それから樹木はしばらく修養し、3カ月ほど震えて(笑い)、「ダダダ…」と振動して、続いて芽を出し、やがて実がなるのです。
水をやりすぎると、かえって咲かない花もあります。砂漠の植物で、例えばサボテンですが、部屋の中に置いてあまりにも丁寧に世話をすると、かえって死んでしまいます。それよりも乾燥させてカラカラにし、生気がなくなるくらいにすると、ようやくきれいな花を咲かせます。
修行の道での試金石
同じ道理で、私たち修行者も毎日順調と言うわけではありません。時には思い通りだと思っても、必ずしも本当に思い通りというわけではありません。その時こそ、私たちの修行面や智慧にとっては良いのです。また、私たちの体に良いことでも、必ずしもある面で私たちを成長させるとは言えないのです。その時、私たちは自分を甘やかしたり怠けさせたりして、食べて遊んでばかりの世界におぼれて貴重な時間を浪費してしまうかもしれないのです。ただ自分の頭脳の言うことだけを聞いて、自分の精神の面倒を見ようとしません。私たちは試練に出合った時、それがマスターや修行仲間からのものであろうと、外的な状況によるものであろうと、すべて試練なのです。その時私たちは順調ではなく、我慢して我慢してやっとの事で生き抜き、それを乗り越えてこそ早く成長することができるのです。
ですから、私たちは修行でつまずいて商売や生活がうまくいかない場合でも、実はそれこそ一番順調なのです。自分にとって最も良い状況なのです。なぜなら、その後私たちの霊性が発達し、発芽し、花を咲かせるからです。出産の時と同じで、最も苦しい時に子どもが出て来るものなのです。そうでしょう。(女性が答える「はい」) ですから、良い物を手に入れたければ必ず少々の犠牲が必要なのです。時には少し苦労をして、少し独り立ちしてこそ突破することができるのです。簡単に手に入る物などありません。
みなさんは、私にはこんなに多くの弟子がいると思うでしょうが、すぐに得られたわけではありません。私も大変な思いをしてあちこちでマスターを探し、ずいぶん長い間、非常にたくさんの試練を受けました。私から少し怒鳴られるとみなさんは辛いと感じるでしょうが、実際どうって事はありません。私が受けた試練はみなさんの何千億倍にもなります。ですから、みなさんの試練などたいしたことではないのです。私から叱られたり、私や修行仲間から試練を受けたりすると辛いと感じますが、外部の人からの試練だと何も反抗しませんね。例えば社長から叱られても仕方がないと思い、お金を稼げなくなるので怒ることもできません。あるいは外で商売をしていて、不満を持った客が失礼な話し方をしても、みなさんはそれに耐えるでしょう。ところが私に言われると耐えられないのです。私からはお金がもらえないからです。(笑い)
少し比べてみるべきです。そうすれば試練を乗り越えられるでしょう。誰かが私たちを叱ったり誹謗したりすれば、菩薩が私たちを叱っているのだと思い、神が試練を与えてくれているのだと考えれば何の問題もありません。そうでなければ私たちは成長できないのです。
鍛えに鍛えて鋼鉄となる
みなさんの着ている服、かけているメガネ、あるいはその他すべての物は、何度も磨かれ、多くの苦労、変化を経てやっと完成された物です。たとえば服一枚でも本来はこんな状態でなくて、元々は外に植わっていた綿の木に咲いた花で、自然の中で太陽に微笑みかけていました。それが摘み取られてろ過され、外の殻を剥がされ、機械や人の手で平らに圧縮され、伸ばしたり縮めたり、水で煮たりの過程を経てから機械で加工され、最後に太陽の下で竹ざおに干されます。多くの苦労を払い、数々の辛い道のりを経てきたのです。もし綿が話せたら、きっと毎日どれだけ辛い修行を積んできたかを泣きながら訴えるでしょう。
私がそれほど多くの講義をしたり道理を話したりしなくても、みなさんは自分の服を見ればわかるでしょう。例えば自分のメガネを見て、どこから来たのかを考えてみてください。どれほどの高温で加熱すれば、ようやくレンズになるのか。ガラスの原料は非常に高い温度の加熱処理によってやっと液体になり、それから型に流し込んで冷やしてから様々なレンズができ上がるのです。この間、大変つらい作業を経ます。まるで無理強いです。その上きれいに磨かなければならず、みなさんの目に合った度数に調整されて、ようやくかけられるメガネに変身するのです。まあ、衆生の苦労は本当に計り知れないものです。
小さな物でさえこれほどの苦労をしなければならないのに、ましてや私たちが悟った者になるなんてなおさらのことです。冗談がすぎます。わずかな苦労も乗り越えられないなんて。私が一言、二言叱っただけで怒るなんて。私たちは忍耐を学ぶべきです。もし修行仲間、家族、マスター、先生、友達が私たちを叱った時にさえ耐えられないのなら、後に何千万もの衆生を救う時、どうやって我慢するのでしょうか。彼らはみんな性格が違い、凶悪な人もいます。その時になって初めて自分の忍耐力のなさに気づき、自分の先生から教えられた時にしっかり身に付けなかったことを後悔するでしょう。
真の「遺産」
それでミラレパは今なおその名を馳せているのです。彼は自分の師に7年ついて毎日鍛えられ、文句の一つも言いませんでした。毎日師に法を伝授してほしいと懇願し、師がそれ以上彼に試練を与えなくなることを恐れてどんな不平も言いませんでした。ですから師が彼を蹴ろうが、殴ろうが、叱ろうが、誤解しようが、彼は何も言いませんでした。こうあってこそ真の良い弟子であり、長く名を留めることができるのです。これこそが本当の「子々孫々に伝える」ということです。私たちは今でもミラレパの名を知っており、彼のように忍耐強くなりたいと思い、彼を「超越した人」と呼んでいます。本当にその通りです。
ミラレパのみならず多くの世間一般の人、例えば過去や現在の政治家や英雄でも、有名になる前は様々な試練を受けています。例として、イギリスの国王は即位するまでに必ず軍事学校に入れられて訓練させられます。(注:イギリス王室の伝統であり、王位継承者は必ず軍事学校で訓練を受けて卒業する)その学校では、誰であろうと関係なく同じように叩かれたり叱られたり、どんな汚い仕事も辛い作業もさせられます。例えば外で雪が降っていると、服を脱いで外に出るよう命令されます。その時は命令に逆らえず、「私はイギリス国王の息子だ」と言っても「関係ない。君の母親からもっと君を教育するようにと頼まれている」と言われるでしょう。
イギリスの王子であろうと官僚の息子であろうと、彼らはわざわざ子どもを軍事学校に送り、そこで訓練を受けさせます。なぜなら家庭では、両親は容易に子どもを指導できないからです。みなさんもご存じでしょう。ですから、外に送り出して他人に訓練させたほうが都合が良いのです。こういった軍事学校では非常に訓練が厳しく、厳格で、容赦しないようです。そうでなかったら、彼らは辛い事や苦労を経験する機会もないため、将来国王になった時に、甘やかされた、酒や遊びにふける国王となってしまうでしょう。そうなれば国にとっても国民にとっても良くないし、ほかの国に対して援助することも、耐えることもないでしょう。
修行者は勇敢に試練を受けるべき
ですから、私たちのような修行者はいつも「なぜこんなに辛いの」と思わないことです。苦行をした人たちの本を毎日読んで、自分を朗らかで、より我慢強く、より謙虚に、他の人が成し遂げたことをしたかどうか自分をチェックしなければなりません。私たちは自分をもっと訓練し、もっと学ぶべきです。人から叱られた時はすぐに聖名を唱えて相手に感謝します。(笑い)そうですよ。これからそうすべきです。するとすぐに状況の変化に気づくでしょう。不思議だな、どうして急に相手が自分を崇拝し始めたのだろうと思うでしょう。そういうことです。
私たちは自分を訓練しなければなりません。あまり甘やかしすぎてはいけません。なぜなら、いつ仏陀や菩薩が私たちを選ぶかわからないからです。仏陀や菩薩になり、マスターになって、生きとし生けるものに利益をもたらすというのは、選挙と同じではありません。宣伝して人々を騙し、そして人々が私たちを選ぶのではなく、またたくさんの人が宣伝をして、私たちが有名になって人々が選ばれるということではありません。仏陀や菩薩は広告などを利用しません。上から望遠鏡で下をのぞいて「おお、あの人は悪くない。あの人はとても良い、とても良い」といった感じで選びます。もしかすると1人、あるいは2、3人を救うようにとみなさんを選ぶかもしれません。そうなれば福徳が十分たまって上へ行く「航空券」が買えますよ。(笑い) 神がみなさんを数百人、数千人、数万人を救うようにと選ぶ場合もあります。そうなった場合の任務は重大です。1人を救う事さえ難しいのに、その1人には五世代も含まれているのです。たまった利息がたくさんあってしかも高いのです。
ですから、みなさんは不愉快な状況に遭った時は、自分は試練を越えなければいけない、 大人にならなければいけない、ということを覚えていてください。「お腹」を開けて気脈が通ればそこが通ります。通るべき場所を通さなければなりません。つまり度量を大きくするのです。この世は、はかない夢にすぎないのですから何も比べるものなどありません。名利を競い合うことも、無実の罪を証明している場合でもありません。しばらくすればみんなあの世に行かなければならないのです。国王であろうと、ゴミ収集者であろうと、誰もここに永遠にとどまるわけにはいきません。ですから、思いのままにならない状況に出合っても、生きていかなければなりません。自分に試練を与え、我慢すればするほど我慢しているという気持ちはなくなります。そうすれば自分のレベルが上がったことがわかります。特に境界(きょうがい)を見たり、神の声を聴いたりしなければレベルを量れないということではないのです。(拍手)