マスターの講義

 

本当の愛

スプリームマスター チンハイ 
フォルモサ・宜蘭7日間リトリート 
1988.08.12〜18(中国語)MP3-2 

みなさんは、私が怒ったか怒っていないかを気にすべきではありません。怒ったか怒っていないかは、世間の人の区別にすぎません。私の「怒る」は「怒る」ではなく、「かわいがる」も「かわいがる」ではないのです。すべて、みなさんの執着心が作り出したことなのです。みなさんは物事を分け隔てするのです。心は何事にも執着せずにいられないのです。ですから、人のことを良い人、悪い人、優しい人などと言います。本当は何もありません。世の中には本来何事もありません。もし、私が本当に「怒った」とすれば、なぜ私がみなさんを叱る時に、みなさんにはよい体験があるのでしょう。

本来、人が怒ると相手を驚かせ、気分をめちゃくちゃにしてしまいます。怒られた人は一日中気になり不安です。みなさんはご主人や奥さんと喧嘩して相手を怒らせた時、心が落ち着かず一日中悩むでしょう。(答える:はい)それで、私が怒るとみなさんは逆にいい体験があるのです。つまり、これが普通の「怒る」ではないということです。私が「怒る」とほとんどの人がいい体験をします。ですから、八万四千の法門の中には「怒る」という法門も含まれているのです。(笑い)

ですから、みなさんは気にすべきではありません。私が「怒る」は私の本分なのです。「怒る」法門を使ってみなさんを引き出します。そうしないとみなさんは私の愛に甘え、だらだらしてメディテーションしてもメディテーションではなく、サマディもサマディではなく、でも、まったくサマディではないというわけでもなく、どの境界(きょうがい)かわからないのです。しかし、私に叱られると、みなさんは「一心不乱」になります。内面で懺悔して私の助けを求めるのです。その時、みなさんの心は比較的安定します。ですから、みなさんは私に叱られても悲しむことはありません。私が怒るのも一つの法門なのです。

時には私も怒りたくない時があります。怒るとみなさんが耐えられないのではないかと心配になるからです。ですから、私はいつも十方三世の仏陀や菩薩にお願いをしたり、内面のマスターの助けを求めたりします。私は「もし、彼らの修行がうまく行かなかったら、カルマを全部私にください。彼らには叱り言葉を一切耳に入れないようにしてください。一言も聞かせないように、苦しみを与えないようにしてください」と言っています。しかし、だめでした。仏陀や菩薩はそれでも私にこの「怒る」法門を使わせるので、私も仕方がありません。

私は本来、みなさんに叱り言葉を一言も聞かせたくありません。みなさんが静かに修行でき、体験を得て、叱られたり、たたかれたりしないですむのが私の希望です。しかし、無理なことでした。私は一日中このように願っています。他に願い事はありません。いつもみなさんの苦しそうな様子を見ると、私は仏陀や菩薩にお願いをします。「早く彼らのカルマを私にください。楽にさせてあげてください。よい体験を与えてあげてください。私はどんなに苦しくてもかまいません」。しかし、この願いは毎回実現したことはありません。なぜなら、私たちはこの世に住んでいる限り、このようなことはできません。一人で全てのカルマを背負うことはできないからです。

ということで、私はわざとみなさんを苦しませているわけではありません。みなさんは理解すべきです。この世で修行するのが一番です。なぜなら、喜怒哀楽の感情があるからです。私たちは興味を持ち、活気に溢れ、反応の回転が速くなります。天界では修行の進歩が遅いという話を聞きますが、それは天界には幸せしかないからです。普段、私がみなさんを叱ったり、怒ったりしていない時、その時こそ天国の境界(きょうがい)なのです。みなさんは毎日ふらふらと修行して、何の考えもなく普段のままで平和なので、修行の進歩が遅いのです。もし、みなさんを阿修羅界や人間界に放り出すと、叱られ、結果が変わり、進歩が早くなるのです。

天界ではこのように、叱られたり、たたかれたりすることはなく、何事もないのです。人間界には喜怒哀楽の感情がすべてあります。しかし、私たちはここに住んでいて、この人間界しか体験できないというわけではありません。時には境界が見え、天国が見え、あるいは、私の講演会場が極楽世界のように見えます。その時が、つまりみなさんが極楽世界なのです。極楽世界は私たちの内面の感覚と内面の体験であり、どこか別の高いところに行くのではありません。そうではありません。天国の境界とは、みなさんの心の中がとても幸せで、叱られたり、束縛されたり、批判されたりしません。つまりそれが天国なのです。ですから、天国にいると修行に良くないので、私は仕方なく、娑婆世界を作り出しているのです。私が怒こると、みなさんは良い体験が得られます。私一人が疲れるだけです。私がみなさんを怒る時、みなさんと同じようにこの娑婆世界に落ちなければならないのです。そうしてみなさんを救うことができるのです。

ですから、みなさんが往生の時、私がやって来て、一人ひとりを上に引っ張り上げるのではありません。違います。娑婆世界は一瞬一瞬すべてにあり、浄土は一瞬一瞬すべてにあり、天国も一瞬一瞬すべてにあるのです。私たちの内面の体験がどうであるか、その時の境界(きょうがい)がどうかわったか次第なのです。みなさんが光を見たその時は、極楽世界に往生したということです。しかし、みなさんのレベルが下がったり、私に叱られたりした時は、娑婆世界に戻ったということです。私たちがこの肉体から離れた時は、永遠に極楽世界に行くのです。その時になったら、叱る必要がなくなります。しかし、みなさんは今よく練習しなければなりません。そうすれば、永遠に極楽世界のレベルを得ることができます。

もし、私がみなさんのために死んだり、地獄に落ちたり、苦しんだりすることができるなら喜んでします。しかし、それはできません。私は半分か三分の二ぐらいしかできません。みなさんの代わりにすべて負担することはできないのです。ですから、私はみなさんを叱るのが好きではありません。本当に好きではありません。もし、私が人に叱られたり、たたかれたりすれば、みなさんが幸せになり、早く修行が進歩するのなら、私はすぐに喜んで受けます。私は毎日このことだけを願っています。私は痛い時、もっと痛くてもいいと願っています。もし衆生に利益を与えられるならば、私一人がどんなに痛くてもかまいません。人が楽になればいいのです。弟子たちが楽であればいいのです。彼らの修行が早く進歩すればいいのです。

ですから、みなさんは私が怒ることに耐えなければなりません。私も耐えています。みなさんがここに来て七日間リトリートをして、進歩すれば価値があります。私が悲しくて涙を流しても、かまいません。たとえ私に何倍もの苦しみがあっても、耐え続けられます。けれども、もし私がみなさんを甘やかしすぎて、楽にさせすぎると、みなさんは大切にしなくなるので、多くの法門を使って教えなければなりません。

みなさんは「厳しい師により偉大な弟子が作り出される」ということわざを聞いたことがあるでしょう。私はみなさんが進歩したかどうかに関心があるのです。それで厳しくするのです。厳しくされることによって、みなさんは早く進歩します。ですから、今みなさんは、なぜ「厳しい師により偉大な弟子が作り出される」のかわかりましたね。俗世間では、多くの状況がみなさんを甘やかし、輪廻に落とし込むのです。まだ私に甘やかして欲しいですか。外で賛美に毒され、甘い言葉に騙され、今まで人間の感情にずっと縛られて来ました。私の所に来て、また私に同じようなやり方をして欲しいというのですか。

ですから、みなさんは何が本当の愛なのかを知らなければなりません。甘い話を聞かせ、人の感情で縛るのではなく、本当にみなさんを訓練させ、本当にみなさんのそのような暗いカルマを洗い落とし、本当にみなさんが責任感のある風格のある人間に成長するための手助けをすることです。朝から晩まで文句を言い、自分のことをかわいそうだと思う人は、ただ小さな個人のことしか考えていません。内在の万能のパワーを忘れてしまっているのです。実際に私たちが必要とするものなど一つもありません。今、みなさんはまだ少し必要かもしれませんが、それはまだ大人になっていないからです。しかし、知らなければならないのは、そのようなことは重要ではないということです。あのような甘い話は、私たちには全く必要ありません。もし、私たちが毎日そういった甘い話や、表面だけの友好的な行為を頼りに生活していたら、いつになったら大人になれるのでしょう。人に叱られて耐えられないのは、私たちの心の中に障害があり、まだ甘い所に執着しているからです。

みなさんはたまに七日間リトリートに参加しますが、それはあなた自身にとって大変良いことです。必ずプラスになります。それぞれのセンターに、修行仲間が集まってメディテーションができる静かな場所があれば一番良いです。毎週禅二や禅一を行い、一日中メディテーションし、私のビデオを見たり、テープを聞いたりすれば必ず進歩できます。何ヵ月かすると、自分が変わったことに気がつきます。もしみなさんが本当にグループメディテーションの規則を守り、自らセンターでの禅一か禅二に毎週参加すれば、非常に利益があります。必ずしも私がそこにいなければならないわけではありません。みなさんが心の中で私のことを思えば、私はそこに来ます。

みなさんはがんばって修行していれば、自分が変わったことがわかります。その時はうれしいでしょうし、励みになるでしょう。修行は本当に役立つということがわかります。しかし、もしみなさんが真剣に修行せずに、だらだらしていたら、全く役に立ちません。ある日、心は後退してしまいます。自分の修行を励ますことが見つからないからです。たとえば学校へ通うことと同じで、一年経っても進級できず、上のクラスに上がれないと、「学校に通っても何も役に立たない。一年も経っても何も変わらない」と思ってしまいます。進級できた人はますます良くなり、知識がますます豊富になり、卒業してから弁護士、医師、漢方医などになって、自分を助けるばかりでなく、他人をも助けることができます。自分も自信を得てうれしいのは、学習の成果が得られたからです。もし、私たちがだらだらと修行していたら、怠け者の生徒と同じで卒業できません。そして修行など、役に立たないと感じてしまうのです。

本当のメディテーション

スプリームマスター チンハイ 
フォルモサ・宜蘭7日間リトリート
1988.08.12〜18(中国語)MP3-2 

みなさん一人ひとりは、メディテーションの時に見た体験だけに執着しています。普段、メディテーションをしていない時に見たものは体験ではないと思っています。実際はその時こそ本当のメディテーションなのです。なぜなら「行、住、坐、臥はすべて禅である」からです。メディテーションとはそこに座って悩み、わざと自分にプレッシャーをかけることではありません。それは「間違い」禅です。なぜなら、その時はエゴでしているので体験がないのです。メディテーションをする時は自然体でしなければなりません。そうすれば悟りを開くことができます。

みなさんのメディテーションが、私を見る時と同じようにリラックスしていれば、それは本当のメディテーションです。ですから、ある人は材木を切っている時に悟りを開き、ある人は大師のひと言を聞いて悟りを開いたなどということを私たちはよく耳にします。つまり、このようなことです。なぜみなさんは、時に何時間も頭を悩ませてメディテーションをしても体験がないのでしょう。それはエゴを使ってメディテーションをし、頭脳を使ってわざとしているからです。注意力を集中する時にあまりにも力を入れすぎ、あまりにも自分を強制し、その上執着し、緊張しているので体験がないのです。このような状態はメディテーションとは言えず、ただの練習にすぎません。

本当のメディテーションとは、行、住、坐、臥のすべてが禅であることです。ですから、ある人は寝ている時や、集中して私を見ている時に良い体験があるのです。その時こそメディテーションです。一心不乱になっているからです。みなさんは私を見るのが好きで、私の講演を聞くのが好きなので、とても集中して聞くことができるのです。どんな先入観も自然に放棄します。その時がメディテーションでなければ、何なのでしょうか。その時こそ正常な体験なのです。

もし、みなさんが眉をしかめてそこに座り、ずっと「私はメディテーションがしたい、ああ、なぜ体験がないのか。なぜ体験がまだ来ないのか。ああ、いつ来るのだろう」(笑い)と思っているとしたら、それはとても急いでいて、あせって仏陀になろうとしているからです。しかし仏陀はそんなに慌ただしくはなく、来たい時に来ます。如来だからです。ですから、私たちが如来になりたければ、如来のように学ばなければなりません。いかなるものにも執着してはいけません。「應無所住而生其心」(何も執着する所がないことこそ、その心が生じる)

みなさんが私を見る時、もし一心不乱であれば、それは正しく、どんな体験でも得られるということです。ある人たちには、私の講演会場が極めて明るい世界に見えます。それはつまり極楽世界です。「極楽世界が私たちの目の前にある」というのはこの意味です。私たちはここに住み、娑婆世界にもかかわらず一心不乱になった時、どんな場所も極楽世界になり、魔を見ても仏陀に見えます。

ある人は私に、修行仲間と一緒にメディテーションをした後、体験が良くなくなった、と不平をこぼします。それはみなさん自身の魔の心が出てきたためであり、愛の心がないからです。他の修行仲間のよくない体験があなたに影響するのではありません。他の人を責めるのではなく、自分を反省すべきです。そのような不平をこぼす人を、私は最も好きではありません。ただ私は言わないだけで、彼らは私が他の人をとがめることを期待していますが、えこひいきはしません。

ある人は、私を見る時雑念が多く、見ても見ていないのと同じです。それなら見ないほうがいいです。彼らは私を見ても、心の中ではまだ多くのことを考え、仏号を念じるかどうかを考え、まるで私を追い出すかのようです。(笑い)もし、私を見た時、まだ仏号を唱えることを覚えているなら、それは早く私を追い出そうとしていることです。なぜなら、私はそこにいると気分が悪くなるからです。子どもが長い間お父さんとお母さんに会っていなかったかのように、渇望して私を見なければなりません。こうであれば体験があり、それこそ最もよい体験と言えます。

ただ目を閉じてそこに座り、眉をしかめ、頭を悩まし、その時だけがメディテーションであると思ったら、それは間違いです。それはただの練習にすぎません。私たちが静かに座るのは、誠心を表すためです。時にじっと座っていられなくても、やはり座り続けて神を待ちます。私たちが、とても誠心誠意であれば体験があります。私たちが、誠心誠意になれないならばこう思うしかありません。「まあ、いいか。 誠心誠意であるかどうかは別にして、私はただこのように座り、神や、仏陀や菩薩の助けを求めます」と。

ですから、私たちは毎日メディテーションをしなければなりません。自分の責任を果たすように、時にはたとえご飯を食べたくなくても食べるようにそうするのです。一種の習慣として身につけるべきです。朝起きて仕事の前に、まず仏陀を思い出します。夜に仕事から帰って来た後、もう一度仏陀を思い出しましょう。私たちは1日中あまりに忙しいので、おそらく真剣に仏陀を思い出すことができません。ですから、私たちは朝少し早く起きて神のことを思い、夜帰ってきてまた思い出して、もちろん、私たちはその時、完全に仏陀のことだけを思っているとは言えないでしょう。しかし、私たちはできるだけそうして、仕事の時でもできるだけ仏陀を思うようにしましょう。

ですから、マスターの講演を聞くことは最も功徳があり、福報があります。その時、私たちは続けて2、3時間マスターを見ることができるからです。マスターの磁場に上昇させられ、あるいはマスターの光で私たちの粗いカルマがきれいに洗われ、そして体験があるでしょう。みなさんが私に会いに来ても、続けて2、3時間見ることはできないでしょう。ですから、得られる加持力は講演を聴く時ほどではありません。2、3時間続けてマスターを見ることは本当に大きな福報があります。すべての人にこのようなチャンスがあるわけではありません。何千万年を経てやっとマスターを一瞬見るだけでもすごいことです。まして2、3時間も。ある世界の衆生はこれまで仏陀を見たことがなく、仏陀の名前を聞いたことさえありません。すこしもマスターからの影響に触れることがないのです。ですから、みなさんはマスターを2、3時間見る機会があったら、ぜひ行ってください。多くの人が私の講演を聞いた時、印心しているかどうかにかかわらず悟りを開いた体験があります。

ですから、メディテーションをすることはただそこに座るだけではないのです。私たちが集中して一心不乱の時、それもメディテーションしていると言えます。ですから、みなさんは仕事をしている時も体験があります。時には、メディテーションをしても体験がないため、私たちは挫折を感じます。これは私たちがエゴでしているからで、自然にメディテーションをしていないために、体験が得られないのです。けれども、大丈夫です。福報があります。私たちは誠心誠意でメディテーションをすればよく、結果がどうであれ大丈夫です。

なぜメディテーションの時体験がないのかを教えましょう。その時はすべてを放棄することができないため、本当に集中していないからです。ただ私たちの頭脳が自分は集中していると思い込んでいるだけです。私たちは眉をしかめて、ずっと「化身のマスターはなぜ早く来ないか」と考えています。誠心誠意で、渇望する心とつかもうとする心とは違います。しかし、修行し始めたばかりの人はまだはっきりと区別できません。でも大丈夫です。毎日できるだけすればいいのです。あなたがそこに座り、私のことを思い出すその時間は、すべてあなたの功徳となります。あなたのメディテーションがよいかどうか、雑念があるかどうかにかかわらず、どのくらいの時間メディテーションをしたかすべて記録し、上へ引き上げる言い訳にするのです。(拍手)

一つの例を挙げましょう。たとえばあなたはある社長のところで働いて、毎日服を売ります。時には一日中客がいません。あなたはそこに座って寝ていても、社長はその日の給料を支給します。時には一日中忙しくても、社長は同じ給料を払います。あなたは彼の店に来さえすれば、一ヶ月の給料を受け取ることができます。メディテーションをすることも同様です。うまくできなくてもしなければなりません。みなさんが毎日どのくらいの時間をメディテーションしたのか、私はすべて記録します。そしてその後、みなさんに「お金」を払い、みなさんは将来上へ上がる「航空券」を買うことができます。(拍手)

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