マスターの話す物語
最高の祈り
スプリームマスター チンハイ
カンボジア・プノンペン 国際7日間リトリート
1996.5.11(英語)ビデオテープNo. 545
今日はみなさんに物語を読むことにしましょう。人々が祈りについてどう考えるか教えてくれる話です。みなさんの中には自分の祈りが最高だと考えている人がいるようですから。さて、みなさんはどうやって神に祈るか知っていますか。おそらく、みなさんの方が私よりよく知っているかもしれませんね。いいでしょう。みなさんがこのお話に出てくる人々より、よく知っているかどうか見てみましょう。
昔、ある所に村がありました。この地球上か、もしかしたら他の惑星かもしれませんが、その村には一人の聖人がいました。この村では何か問題や、困難とか災難が起こったり、何かうまくいかないことがあるたび、人々はこの聖人を訪ねて行き、助けてくれるよう頼みました。神に祈ってくれるよう、自分たちのためにメディテーションをしてくれるよう、何が間違っているか見てくれるように頼んだのです。すると、この聖人は非常に特別な森に入って行って隠遁し、とてもとても特別な場所に座ってメディテーションをしたのです。そして、とても特別な祈りを捧げました。彼が祈ると、神はどういうわけか、いつも彼の祈りを聞いてくれました。それで、村人たちはいつも必要な助けを受けていたのです。
ところが、ある日、誰でもいつかはそうなるように彼は死にました。それで、村人たちはどうしたらいいかわからなくなりました。彼らの問題はなくならなかったからです。聖人は死んでも問題はまだ存在していました。毎日新しい問題が現れて来るのです。おもしろいことに、人がどんなふうに死んでも、問題は決してなくならないのです。それで、村人たちは長い間考えた末、自分たちの問題をその聖人の後継者に処理してもらおうと決めました。
人々はこの後継者がそれほど神聖ではないことを知っていましたが、今は彼の他に誰も良い人がいなかったので、彼の所に行き、自分たちの問題を訴え、助けを請いました。そこで、このそれほど神聖でない人も、また森の中に入って行き、同じ場所に座って非常に特別な祈りを唱えました。彼は自分の師がかつて何と唱えていたかは知りませんでしたが、何か特別なこと、例えば「ああ、神さま。私が聖人ではないことはご存じですね」などと唱えました。少なくとも彼はとても正直ですね。「だからといって、あなたは村人たちの要求を拒否したりはしないでしょう。だったら、どうか私の祈りを聞いて助けてください」
それを聞いて神は思いました。「確かに理にかなっている。いいだろう。この男は聖人ではないが、だからといって、それは村人たちには関係ないことだ」と。そこで、神は男の願いを聞き、今まで同様、人々を助けました。
そういうことで、人々はこのそれほど神聖でない人の所に通い続け、神に祈ってもらったり、自分たちの問題を解決してもらったりしました。と、ここまでは良かったのですが、その後どうなったかわかりますか。このそれほど神聖でない人も死んでしまったのです。ああ、何ということでしょう。問題は永遠に尽きず、解決の糸口はありません。村人たちはまた困惑してしまいました。どうすればいいでしょうか。そこで、人々はまた別の人を見つけようとしました。それほど神聖な人でなくても、他のマスターの後継者でなくてもいいから、より特別で、他の誰よりも優しい感じがして、たぶん熱心に祈ってくれる人が良かったのです。
それで、彼らは群集の中から一人を選び出し、その人に言いました。「さあ、あなたの仕事です。私たちのために祈るのです。私たちにはこれこれしかじかの問題があります。さあ仕事をしなければなりません」。けれども、たまたまこの人は前任の二人について何も知らなかったし、その森がどこにあるかさえ知りませんでした。森のことは知っていましたが、特別な場所がどこにあるか知らなかったのです。その上、彼自身はどんな特別な祈りも知りませんでした。それで、彼はどうしたらいいかわからなかったので、ただ近くの森へ行き、そのあたりの特別な場所ではない所に座りました。というのは、前任の二人はいつも非常に特別な場所に行ったからです。彼らにとって、そこはとても神聖な場所だったのです。ですから、彼らが祈るたびに、その願いは聞き届けられたのです。後継者も同じでした。少なくとも、彼は特別な祈りも、彼の師がいつも座っていた森の中の場所も知っていたのです。
けれども、今この男はそんなことなど何も知りませんでした。それで彼はどうしたのでしょう。ただひざまずくか、座って、神に向かって「ああ、神さま。特別な祈りの方式を通して、あなたの耳に届くのなら、私は無力です。でも、どうぞ特別な方式や祈りにこだわらないで、ただ私の言葉をお聞きください。村人たちはたくさんの問題を抱えています。なぜ彼らをお助けにならないのですか」と言いました。それだけ言うと、彼はただ立ち上がり、家に帰って寝てしまいました。その結果、神は以前と全く同じように願いを聞き届けました。他には誰も神に祈りませんでしたし、祈ったのはこの男たった一人だけだったからです。それで神は言いました。「いいだろう。助けよう」。こうして、神は以前と全く同じように村人たちを助けました。
今やこの男は突然非常に特別な人になり、このように自分の特別な仕事を毎日続けました。ところが、ある日、この男もまたみんなと同様に、聖ペテロに会いに行ってしまいました。つまり、この男も死んでしまったのです。さあ大変です。この村人たちは何てついていないのでしょう。次から次へと死んでしまいました。けれども、村は相変わらず存在し、問題もそのままです。おそらく、村人の子どもたちが受け継いで、自分たちの習慣を続けていたのでしょう。そこで、彼らは再び自分たちのために祈る仕事をしてくれる人を探しました。おかしいですね。なぜ彼らは自分で直接祈らないで、誰かを見つけなければならないと考えるのでしょう。これは習慣です。私たちは何かに頼り、一度うまくいくとそれに執着しますが、再びそうはいきません。それでも、人々はまたもやそれに執着し、手放さないのです。
ですから、この男が死んだ後、村人たちは大変困りました。聖人とか、祈りに熱心な人というたぐいに当てはまる人は誰もいませんでした。この村には徳の高い人はいなかったのです。村人たちは困り果てました。彼らは誰かに頼む以外に神と接触する方法を知らなかったのです。問題はどんどん増える一方で、何の助けもありません。みんなで集まり、智慧を絞って考えて、誰かを一人選ぶことにしました。そして、たまたまある実業家を選びました。そんな具合でした。
この男はとても裕福でした。ですから、それほど忙しく働く必要がなかったので、自分たちのために祈る時間の余裕があるだろうというのが、村人たちの考えでした。そうでしょう。お金があるというのは何もないよりましです。徳はないけれど、お金は持っているというのも悪くはないでしょう。そのようにして、彼は渋々聖職者になりました。
さて、今度は彼に神と接触して村人たちのために祈る仕事を任せたわけですが、実業家は祈りについて何か知っていたのでしょうか。彼が知っていることといったら、銀行、お金、計算書、税金とか、そのようなことばかりでした。けれども、みんながあまり熱心に頼むので、彼はとうとう引き受けたのです。彼は常に神よりお金に興味があったので、彼にとって神や祈りなど全くくだらないものだと思っていました。彼はその場所で、神に直接話しかけました。家でただ計算機の前に座って、天を見上げるか、たぶん自分のコンピューターを見つめて、「さあ、あなたがどんなたぐいの神であろうとも、この世界のあらゆる問題を解決するくらい完璧で有能なわけでしょう。それはあなたが引き起こしたんだから」(さまざまな問題は神が自分で引き起こしたという意味)「それを解決できるのに、ただ手をこまねいて何もせずにいるんだったら、あなたはいったいどんな神さまなんですか。それに、何でもするという自分の本分を拒否していますね。いったい何のために待っているのですか。私たちがひざまずき、こうしてくださいと請うのを待っているんですか。それっていったいどんな神さまなんですか。ただ自分の仕事をしてください、いいですね」と言いました。こんなことを言われて、神は当惑してしまいましたが、それでも、この祈りをお聞きになり、とにかく人々を助けました。ですから、このように、人には人それぞれの祈り方があるわけです。
さあ、みなさんは自分のためにどの祈りを選びますか。 私は気にしません。私は、神が人からこうしなさいと言われなければならないとは思いませんが、時々神はそのようにします。あるいは、たぶん、神は私たちが神にして欲しいと思うことをしてくれるからでしょう。最初の聖人にとって、神は気難しく、とても神聖な存在で、純粋であると期待していたので、自分も非常に純粋で、聖者でなくてはなりませんでした。それで、神に祈るためにとても特別な隔離された場所に行く必要があったのです。そうすることで、神は私たちの神聖さや、純粋さ、時間や努力、神に対する尊敬といったものに感動したのでしょう。だからこそ、神は私たちの祈りに応えてくれたのです。
けれども、二番目の男は違うことを望んでいました。彼は聖人ではありませんでしたから、自分が聖人かそうでないかということは気にせずに、人々を助けてくださいと神に望んだのです。ですから、神は彼の望みも叶えたのです。その男が神にこのように望んだからです。それで、神はこの男が例の特別な場所に行くのを待ちました。この男自身は神聖ではなかったけれど、少なくとも、彼は前任の聖人のことや、聖人がいつも非常に特別な場所に行き、特別な祈りを捧げていたことを知っていました。それで、少なくともこの男は、神からの答えは聖なる場所、人里離れた特別な場所と何らかの関係があると考えたわけです。それで彼はその知識や信念に執着したのです。そういうわけですから、彼が家で祈ったとしたら、たぶんうまくいかなかったでしょう。彼の心がそうなるように期待していたからです。自分が十分に神聖でなくても、少なくても、あの特別な場所を通して聖人と接触できるはずだと期待したからです。それで、神はその男がこういった条件を満たすのを待ってから、加護を与えたのです。
そして、三番目の男は何一つ知りませんでした。それで、彼は自分で特別な森の中の、特別な場所を見つけに行ったり、特別な祈りを捧げられなかったのです。彼の頭の中にはそのような考えはなかったからです。それで、彼はただ自分が考えたことを実行しました。彼は「どうか人々をお助けください」と神に祈りました。心から率直に誠実に祈ったので、神はこの祈りにも応えたのです。応えないわけがあるでしょうか。神は祈りに応える以外のことはしません。そう思いませんか。そんな小さなことすら助けないなら、それはいったいどんな神なのでしょう。
結局、この三人の人たちは非常に誠実で謙虚でしたので、彼らが死んだ後、村人たちが次を探そうにも、彼らほど神聖で謙虚な人はいなかったのです。ですから、彼らは自分たちのために祈る時間があるだろうと思う誰かに頼るしかなかったのです。それで、今回実業家を選んだというわけです。実業家はとても現実的なので、彼らの頭にはお金と仕事のことしかないのです。それで彼らが何かの仕事をしなければならないと、ビジネスのようにただそれを行うのです。物事をどう処理すればいいか知っていれば、そうするだけです。なぜ人々が請うのを待つのでしょうか。
私は常々同じことを言っています。時々、私は「いいでしょう、そうしなさい。でも、祈らなくても、それならそれで大丈夫」と言います。みなさんはどうすればいいか知っているからです。みなさんには私の祈りは必要ありません。心のままに行動すべきです。私たちにはこの三人の祈りの真似はできません。そして「ああ、マスターチンハイはこのお話を私たちに読んでくれて、この方法は大丈夫だと言った」などと言うこともできません。それは、たとえ私がこんな風に祈りなさいと言っても、みなさんは同じようにできないからです。みなさんは私がするように祈れません。私と全く同じ考え方はできないからです。そして、みなさんが祈る時、その態度は私とは違います。私はこういうふうに祈りますが、みなさんはこんなふうに祈ります。ですから、どんな祈りでもいいのです。何の問題もありません。そして、これは私の考えですが、神やマスターのパワーは、私たちが祈らなくてはならなくなる前に働くのです。特に、緊急の場合はなおさらです。私たちはただ、それぞれの状況の中でベストを尽くすだけです。そうすれば、神やマスターのパワーが状況に合わせて助けてくれるでしょう。けれども、自分の最善を尽くすのです。そうしなくてはなりません。
さて、この村人たちはこの実業家より劣っていたわけでもないのに、どうして自分で祈らなかったのでしょう。どうして彼らはこんな媒介者に頼らなければならなかったのでしょう。それは執着であり、習慣であり、偏見に捕われた考えのせいです。そういうわけで、多くの人々は問題にぶつかると、牧師や僧侶の所へ行くのです。私には牧師や僧侶が他の人々とどう違うのかわかりません。
例えば、仏教の伝統では、大乗仏教の僧侶は少なくとも菜食をし、結婚しません。それで、たぶん普通の人は頭でこう考えるのです。「ああ、そうだ。彼はとても神聖な人だ。菜食主義で、結婚をしない。とても純粋なんだ」。いいでしょう。こうして、おそらく人々は言い訳をするのです。それで、彼らは問題が起こるといつでもこう思います。「あの人は純粋だから、素晴らしい掛け橋となって神と連絡をとってもらえる」と。そのぐらいは許容範囲かもしれませんが、他の宗教や宗派の慣習では牧師や僧侶でも結婚します。彼らは肉を食べ、お酒を飲みます。とても自由です。彼らはみなさんが家ですることは何でもします。みなさんが毎日食べる物は何でも食べます。その上、彼らは本を通して祈ります。みなさん自身も読み、それを通じて祈る本です。それなら、みなさんとその牧師にどんな違いがあるというのでしょう。彼の所へ行く必要があるでしょうか。あるいは、僧侶の所へ行って、みなさんのために祈ってくださいと言う必要がありますか。考えてみてください。わかるでしょう。何の違いもなければ、あったとしてもたいしたことではありません。違いといえば、彼はとても美しいお寺に住み、一方、みなさんはとてもみすぼらしい家かそのような所に住んでいるということくらいです。住んでいる所、たぶんお寺に住んでいるという違いだけで、住んでいる人々の違いはわかりません。ですから、ある人々は何とバカらしい生活を送っているかわかりますね。
この地球の多くの人々は、世々代々、どれほどたくさんの無意味な習慣を続け、相変わらず信じていることでしょう。そして、人々は決してそれをやめようともしないし、それが何と無意味なことだとさえ考えようとしないのです。そういうことで、私はみなさんに直接的な方法、つまり自分自身で祈る方法を教えているのです。私が方法を知っていたら、みなさんに教え、みなさんは自分で祈ることができます。どうして、私が何か特別なことを自分だけに秘めていなければならないのでしょう。そんなことをしたら、みなさんは私が特別な人だと思わなくてはなりません。特別な人などいないのです。みなさんは自分自身を信じるべきです。そして、みなさん自身の常識や信心、そして、神はどうあるべきか、神はみなさんにどう応えるべきか、また、神はいかにご自身の仕事をすべきかというみなさん自身の考えに従って、すべてのことをしなければならないのです。それが最良の方法だと私は思います。
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