話の宝箱

小さなマーチンの物語

チリ・サンティアゴ コリナ・ガリゴス・ゼンテノ (スペイン語)

ある晩、私は裏庭からの悲鳴に目を覚ましました。窓から確認したところ、その声は花壇の見えにくい所から聞こえているようでした。翌日、菩提樹の下に古着と本が入った箱が放置されていて、驚いたことに、その中に一匹の大きい黒猫と生まれたばかりの子猫たちを見つけました。心配と驚きで、私はこの突然の「ギフト」をどう処理しようかと考えました。その時思いついたのは早く猫を連れて帰り、母猫に水と食べ物をやって、それから子猫が乳離れするのを待って、母猫と一緒に送り出すことでした。

数日後、なぜだかわかりませんが、母猫はそっと子猫を一匹、一匹生まれた所に移しました。そして、おそらく忘れられたのでしょう。一匹の子猫が取り残されました。私たちは困ったけれど、その猫を客として受け入れました。でも、みなどうやって世話をすればいいのかわかりません。私の二十歳の娘、カロライナは子猫に「マーチン」と名付けて、自分の息子のように世話をしました。

最初の何日か、私たちはなんとかスプーンで食事を与えていましたが、その後カロライナの目薬の瓶を哺乳瓶の代わりに使いました。私の息子、レオナルドはよろこんで自分のスリッパの箱を提供してゆりかごの代わりに使わせました。数日後マーチンがその箱を引っ掻いて中から出るまでのことでしたが。カロライナが「私の息子」と呼ぶとマーチンもわかっているようで、感謝でもしているかのように「ニャーニャー」と返事をしたり、彼女のジャケットの襟に上ったり下りたりして、満足そうに髪の毛で休みました。時々「彼のお母さん」は彼を高く抱き上げると、マーチンも両手をのばして彼女の目を見つめ「ニャーニャー」 と彼女の優しい言葉に返事をしていました。

私の夫は不平の多い人ですが、マーチンにはとても優しく、特に「マツシナ」にいじめられないように守ってあげていました。「マツシナ」はもともとうちにいる白茶色の猫です。彼はマーチンの事を全然相手にしていません。自分の場所をマーチンに取られたことを認めているからです。私のもう一人の十八歳の気が短い息子カーロスは予想外にも自分からマーチンに食事をさせると言い出して、さらにギターもマーチンに貸しています。マーチンはそれを快適なゆりかごのように使っています。

三月のある土曜日、私が印心後初めて共修会に参加した時です。何回か目を開けてマスターの写真を見た時、マーチンの映像も同時に私の頭の中に浮んで来ました。共修後、私はすぐ家に帰りましたが、マーチンはいつもと違いとても静かで弱っていました。日曜日、私は娘の泣き声に起こされました。彼女は私の部屋に来て私をきつく抱きしめ、涙を流しながら「マーチンはもういってしまったの」 と言いました。私たちはマーチンをお茶箱に入れ、さらに白いハンカチで彼の小さな体を包みました。その日私は家中のマーチンが使った瓶やスプーンなど、娘が見ると悲しむ物をかたづけて、無意識にマーチンをマスターの写真の横に置きました。

翌日、私は末っ子にマーチンを最初に見つけた菩提樹の下に埋めるように頼みました。今、私は秋の枯れた落ち葉が覆うマーチンの安息の場所を見ると、いつも彼と一緒に過ごした楽しい時間を思い出します。マスター、あなたは本当に想像しきれないほどの期待以上の課題をくれました。マーチンの短い命によって知らないうちに、甘くて暖かい慈悲の心の種を我が家に播いてくれたのです。私たちにとってこのことは本当の生命体験でした。ありがとうマーチン、あなたはいつまでも私たちの心の中に残っています。

智慧の真珠

自己の先入観と概念からの解脱

スプリームマスター チンハイ 

フォルモサ・高雄国際空港 1993.1.3 (中国語)

ある弟子が禅師に尋ねました。「禅師、修行とはどういう意味ですか。悟りを開くとはどういう意味ですか」。その時、禅師はちょうど木を植えている最中でした。彼は「修行とは、この木をここから比較的合う場所に移植して、毎日水や肥料などを与えるようなものだ。その後、しだいに大きく成長する。修行もそのようなものだ」と言いました。

同様に、私たちは通常集中力を外面に向け、誤ったところに向けているので、悩みや苦痛が生じるのです。マスターが私たちに教えているのは、集中力を役立つところへ向ければ、私たちの魂を助け、内面のパワーを養うことができるということです。そして、私たちは本来の場所に戻り、最終的に私たちはこの肉体ではなく、あのようなくだらない無常な考えではないことを理解するのです。私たちは本来智慧であり、愛の力であり、とても自在なのです。

ですから、実際に学ぶべきことは何もなく、すべきことも何もありません。それらのすでに学んだものを捨て、やりたいことをしなければ何の問題もありません。そうです。多くのつまらないことや、学んできた良くないことが、頭を満たしていて私たちを束縛するのです。私たちは人はこうでなければならない、仏陀はこうでなければならない、マスターはこうでなければならないと思い込まされて、ずっと自分を先入観に縛りつけるのです。ですから、解脱をすることができません。もし、そういうものを全部捨てればもう半分は解脱しています。さらに、仏陀になるためにしようと思うことも捨てれば、完全に問題はなくなります。

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