マスターの言葉

渇望する心が神の王国への鍵である

スプリームマスター チンハイ イギリス・ロンドンおける共修会
1998.3.10(英語)ビデオテープ631

印心を受けた者にとって重要なのは、肉体でも、外面でもなく、魂が渇望することだと私は言いました。ある人は常に五つの聖名を唱えているかもしれませんが、マスターが教えているような良いことはしません。彼らはそれほど神を尊敬していなければ、求めてもいないのです。けれども、とても純粋で無垢な人、例えば、農夫のような人ですが、故意に神を忘れたり、五つの聖名を忘れたりしないような人は、いつでも心からマスターを渇望しています。たとえ唱えるのを忘れたとしても、マスターのことはずっと覚えていて、マスターをずっと求めているのです。

ですから、単に五つの聖名がみなさんに神の王国をもたらすのではないのです。その鍵は魂にあります。その人が本当に望んでいるなら、マスターはどんなことでもできます。たとえ印心を受けていなくても、マスターは彼らを連れて行けます。彼らには印心は必要ありません。方便法の人も天国に行くことができます。たとえマスターに一回しか会ったことがなくても、死の瞬間、心の中で誠心誠意祈れば、マスターはその人の所へやって来ます。

けれども、ある修行仲間は頑固です。印心を受けさえすれば、彼らの望むどんなことでもできると思っています。彼らは自分の課題を学ばなければならないのです。もし、彼らが輪廻の世界に戻りたいなら、それは彼ら自身の選択ですから、マスターは介入しません。ただ助けるだけです。これは異なる宗派の多くの印心した修行者にある問題です。たぶん私たちの団体も例外ではありません。彼らはマスターのパワーに頼りきっていて、印心がすべてを与えてくれると思っています。それで、彼らは出かけて行って間違ったことをするのです。インドや他の場所の、いわゆる宗教団体の多くは、人々に間違ったことをするので、みな彼らのことを恐れています。彼らは、マスターから印心を受けさえすれば、彼らの望むどんなことでもでき、永遠に輪廻することがないと思っているからです。それは間違った概念です。

けれども、心の中で修行を渇望している人も少しはいます。彼らは今の状況や、自分の力の範囲で最善を尽くそうとします。それは、彼らが神やマスターに応じて、ベストを尽くさなければならないということではなく、自らの能力や強さに応じてベストを尽くすということです。たとえ機会を与えられても、一生懸命やろうとしない人というのは、彼らがこの世を望んでいて、神を望んでいないということです。それなら、彼らは自分の行きたい所に戻るべきです。

一人で修行をするのはとても難しいので、私たちには共修が必要なのです。ある人が印心以後メディテーションをせず、五つの聖名も唱えず、菜食もしないとしたなら、彼は自分自身の道を続けて行くのです。彼に準備ができた時はいつでも、マスターはもう一度戻ってくるでしょう。けれども、死の瞬間、それでもまだ準備ができていなくて、マスターを呼ばず、気にせず、世俗に戻りたいと思うなら、彼は戻って来ることができます。彼次第なのです。

時々、人々は外面的にはあまり良くメディテーションをしないことがありますが、心の中ではとても渇望しています。ですから、その人が心の中で望んでいるかどうかということも重要なのです。けれども、これは微妙なことで、常に言葉で説明できる訳ではありません。みなさんはそれを自分の心からのものであることを知らなければなりません。例えば、あなたがある女性を愛していたとします。あなたはただ彼女を愛しています。あなたは心の中ではそのことがわかっています。そして、彼女はあなたが愛している唯一の女性です。あなたはそのことを誰かに説明したり証明したりすることはできませんが、心の中では彼女が唯一の女性であるということがわかっています。美しい女性があなたの周りに何人いようと関係がありません。ただその人だけを愛しているのです。

それは霊修の約束事においても同じことが言えます。私が何と言おうが、みなさんが何と言おうが関係ありません。みなさんは、心の中で神を望んでいるか、いないかわかっています。そして、それこそ重要なことなのです。どんなに長い時間座っているとか、どれほど共修に参加しているということが重要なのではありません。共修というのはただみなさんを助けているだけです。みなさんが本当に神を望んでいるなら、共修はみなさんをもっと助け、信心を強くし、より良く座らせてくれるのです。

ですから、たくさん共修会に行っているからといって、みなさんが神を望んでいるという意味にはなりません。必ずしもそうではないのです。みなさんは内面を見つめる代わりに、隣の女性が見たいのかもしれません。それは愛のようなものです。みなさんにそれがあるか、それがないかということです。誰一人、みなさんに他の女性を愛すよう強制できる人はいません。その女性がどれほど美しかろうが、知的でお金持ちであろうが関係ありません。みなさんはあの女性を愛しているのです。それだけです。みなさんはそのことがわかっています。それが決定的なことなのです。(拍手)

それはとても簡単なことです。私は、印心が物理的に、それだけでみなさんに神をもたらすというような間違った概念を与えたくないのです。それはたぶん冒涜になり、みなさんにそうするように強制することになると思うからです。みなさんが後で気を変えたいと思ったとしても、私はみなさんを神の王国に行かせるよう強制することはできません。みなさんがここに来て、ここに留まるのも、すべてみなさんの自由意志によります。そして、人生の最後の瞬間、みなさんが本来いた所に戻るのも、すべてみなさんの自由意志によります。最後の瞬間、もしみなさんが心変わりをしてこう言ったとします。「いいえ、マスター。ほっといてください。さようなら。私は隣の女性に会いに戻りたいのです」と。そうやって、みなさんは行ってしまうのです。私たちはみな神です。このことは覚えておいてください。

みなさんがまだ持っていないものや、まだ望んでいないものを与えられる人はいません。もし、みなさんが望めば、印心はみなさん自身の神のパワーを目覚めさせるのです。そう望まないなら、以前のようにそれをほっておいて、無知な人生を続けることができます。問題はありません。印心、共修、菜食、そしてまた戒律も助けになります。でも、そういったものは究極ではありません。決定的なものではないのです。究極のものに向かう手段にすぎません。みなさんの心が他のすべてを超えて、それを望まなければなりません。そうすれば、こういうものはすべてみなさんの助けになるのです。

もしみなさんが神を望まないなら、千年も菜食し、二千年もメディテーションをし、三千回も印心を受けることができますが、みなさんはどこにも存在せず、何の利益も得られません。こういったことは、人々がどこそこへ行って礼拝するような、単に外面的な儀式にすぎません。彼らは理解していません。本当の承諾をしていないのです。反対に、それほど良くメディテーションをしているように見えない人々もいます。彼らは五つの聖名さえ正しく唱えることができませんが、心の中では神を渇望しています。神はそれを知っていますし、彼らも自分たちが神を望んでいることを知っています。簡単です。(拍手)

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