マスターの講義

道(タオ)が第一で、 世俗は二番目である

フォルモサ・西湖 国際禅七
1988.9.24〜27(中国語)

この世界にはとてもたくさんの美しいものがあるので、私たちにとって、ここを離れるのは簡単なことではありません。多くの人々がこの世界を離れたいと心から望みますが、そのたくさんの美しいものに一目でとりこになってしまい、離れられません。もし、私たちがもっと美しい境界(きょうがい)を見たことがなければ、当然、私たちはこの世界が最も美しいと思ってしまいます。ですから、ここを離れるのは容易ではないのです。

でも、いいでしょう。私たちは観音法門を修行していますから、いつか、どの境界が本当に美しいかわかるでしょう。たぶん、私たちにはまだそれがわからないかもしれませんが、中にはわかっている修行仲間もいます。彼らの描写を聞くと、それだけで私たちを霊的修行に駆り立てる直感的なパワーが感じられ、私たちも彼らのようになりたいと思うのです。

ある人が私に次のような手紙を書いてきました。「マスター、この加持力をどうか取り上げていただけませんか。禅七の後、私はあまりにも大きな加持力を感じて、この世界と調和できなくなるように思えるのです」。(笑い) 言葉にもできないほど、ばかげていると思いませんか。(聴衆答える:はい) ある人々はマスターにもう少し加持力が欲しいと祈り、またある人は加持力があまりにも強すぎるので、それを取り消してほしいと私に望むのです。どうして私が加持力を取り消したりできるでしょう。

この加持力というのは、コントロールできるものではありません。私がここでボタンを押したら、みなさんがその加持力を得るわけではありません。そういうものではありません。みなさんは私に、それを取り上げてほしいと思いますが、私はそうしません。(マスターと聴衆笑う) それが与えられた時には、与えられてしまったのです。取り上げるようなものでありません。牛が草を反すうするように、いったん飲み込んだものを、またかみ直すのとは違います。

加持力はとても貴重なものです。ほとんどの人はそれを伝える事ができません。それは全世界と引き替えにしても得られるものではありません。それなのに、みなさんはここで、それを取り上げて欲しいと私に要求するのです。もし、私が本当に取り上げてしまえば、みなさんは何も得られないままメディテーションすることになり、今以上に苦しむことになります。というのは、みなさんには以前、世俗にしがみ付いたり、執着したりしないで上昇するという体験がなかったからです。今みなさんは体験し、それがどれほど素晴らしいか気付きました。もし、私が本当にそれを取り上げてしまえば、みなさんは修行を始める前よりも、もっとつらく感じるでしょう。以前、みなさんは何が幸せなのか知らなかったので、生活していられたのです。今、みなさんは幸福な状況を知ってしまったので、いったんそれを取り上げられてしまえば、もう生きていけなくなるのです。

以前、膨大な加持力を受け取ったインド人の女性について、みなさんにお話ししたことがあります。彼女は禅七から戻ったばかりだったのかもしれません。彼女はその後毎日、ずっと陶酔状態でした。彼女は毎回チャパティーを作るたびに、意識を失ってしまうのです。彼女の魂が飛び出してしまって、後に体だけが残るのです。粉があちこちに飛び散り、彼女の体は粉にまみれて真っ白になってしまいます。物があちこちに散乱し、鍋が前、はしが後ろという状態です。みなさんはこのような状況がわかりますか。誰にもわからないかもしれませんね。

そして、そこへお腹を空かせた夫が家に帰ってきて、自分の妻がそこに横たわっているのを見るのです。チャパティーはありません。バターがこちら側に残り、ミルクがあちら側にこぼれています。毎日そういうことが起こりました。彼は自分の妻がなまけもので、寝過ぎているのだと思ってしまったのです。それで、彼は彼女をぶったので、妻は彼女のマスターのところへ行って泣いて訴えました。「マスター、どうか加持力を取り上げて下さい」。ちょうど私たちの愚かな修行仲間のようです。彼女はマスターに何回か頼みました。「私の夫が毎日私をぶつのです。私はもう耐えられません。私の体中のあざを見て下さい」。

するとマスターは言いました。「あなたはこれに耐えなければならない。加持力というのはとても貴重なのだ。あなたはいつでもサマディに入れるではないか。そんなに多くの人が得られることではないのだ」。彼女の内在の音はとても力強いので、その音がやって来るたびに、彼女の魂はいつでも引っ張り出されてしまい、体を後に残して出て行ってしまうのです。私たちの体は、ちょうど洋服のようなもので、魂が出て行ってしまうと、服を脱いだように体が残ってしまうのです。けれども、彼女は言いました。「でも、私は耐えられません。家庭に平和はありません。毎日、夫は帰って来ると私をぶつのです。どうかお願いします。必ず加持力を取り上げてください」。マスターは言いました。「いいでしょう。そうしましょう」。

彼女のマスターが加持力を取り上げると、もっと耐えがたい状況になってしまいました。その女性はやって来てまた泣きました。「マスター、今はもっとひどくなりました。前の方が良かったです。たとえ夫がぶった時でも、私は時々サマディの体験を楽しめました。今、夫はぶったりしませんが、私はもう内在の音を聞けなくなってしまいました。何もありません。何も聞こえないのです」。ご存じのとおり、弟子とはみなこういうものです。マスターに問題を持ち込むのが好きなのです。それで、彼女のマスターは答えました。「出て行け。これ以上、私を煩わせるのではない。今日あなたはそれを望み、明日になると望まない。このようではいけない。そんな冗談めいたものではないのだ」。その女性は立ち去り、そして、ひどく苦しみ続けました。もちろん、彼女のマスターは、彼女が死ぬ時はなおも彼女の面倒を見ますが、その日から、彼女の生活はすべて無意味になってしまったのです。何の体験もありません。何もありません。それは、彼女が自分の修行より、世俗の方がより重要だと思ってしまったためです。

ですから、私たちはこのように、修行するにあたって、やめたり、変えたりを繰り返すことはできません。この世界は無常で、喜怒哀楽はすべて、はかないものだと認識しなければなりません。私たちはこのように無常なもののために、永遠の宝物を失ってはならないのです。私たちは加持力を受け取り、メディテーションでサマディーに入り、そして智慧を持つのです。こういうものは、最も貴重なものなのです。この世のどんなものにも代えられません。

古代、多くの修行者たちは脅かされていました。歴史を見ると、霊修行者はあまり安全ではなかったということがわかります。イエス・キリストが生存中、彼の弟子は脅かされ、罰せられていました。例えば、人々は石を投げたり、ぶったり、殺したりと、イエス・キリストについて秘伝の法門を修行している人を野蛮な方法で罰したのです。けれども、彼らは不屈の精神で、自らの修行を断固として貫きました。真理のためなら喜んで死んだのです。今日のインドでも同じです。多くの修行者たちが他から誤解を受け、圧力をかけられ、脅かされ、苦しめられ、罰せられていますが、彼らはそれでもなお修行を続けています。

そんなに遠い昔のことではありませんが、シーク教もやはりある政府や国王によって制圧を受け、多くの人々が殺されましたが、彼らは揺れ惑うことなく修行を続けました。日本の日蓮宗のあるマスターも脅かされ、制圧され、公に説法をしていると追放されました。彼の弟子たちの中には、やはり権力者に殺されるものもいましたが、他の人たちは断固として修行を続けました。

ここフォルモサの政府は非常に優しいです。人々に信教の自由を認めています。そしてさらに良いことには、彼らは法によって守られています。けれども、みなさんは、私もまた時々災難に見舞われていることに気付いているでしょう。みなさんが知っていることは、公にされている事の非常にわずかな部分でしかありません。みなさんが知らないこと、私がみなさんに話していないことがたくさんあります。私が言いたいのは、仮に、私たちに世俗的な問題や悩み事があったとしてもなお、修行上の幸運と福報を、生活の世俗的な快適さと引き換えにすべきではないということです。なぜなら、これらは本当に価値のあるものだからです。

私たちは、修行中に起こるどんな困難や問題にも耐えなければなりません。どんな逆境も、私たちの信心と勇気を推し量るためのテストとして見なすべきです。私たちはある状況が起こった時に、引き下がったり、信仰心を揺るがせたり、泣いたり、不平を言うべきではありません。勇気もなく、子どものように行動するなら、それはいったいどんな修行者なのでしょう。

修行をする時、私たちは他の人に目を向け続ける代わりに、自分自身をチェックすべきです。自分たちにどれだけの勇気があるか、どれほど信心が強いかに注意を払うべきです。私たちは他の人がどれほど良く修行しているとか、あまり良く修行していないかなどと見るべきではありません。自分自身を見つめるだけで十分です。私たちは毎日、自分たちの勇気、偉大な人間としての振る舞い、そして修行(タオ)における私たちの信心を、小さくしたり、揺るがせたり、壊したりしないように心を砕くべきなのです。これが私たちの責任です。

もし、どんな修行仲間でも真理(タオ)を一番に置き、この世を二番目に据えたなら、その人の修行の進歩が早かろうが、遅かろうが、また、どれほどの体験があろうが、なかろうが関係なく、その人は間違いなく解脱するでしょう。これが推し量る最良の方法です。世界というのは、私たちを縛り付けるためだけに存在しているのです。この世界のあらゆる喜怒哀楽は、私たちの信仰心と勇気、そして偉大な人間としての態度、そしてタオに対する私たちの信仰心をテストするためにあるのです。

もし、誰でも気軽に修行ができ、それでも聖人、仏陀になれるとしたら、それはなんて安っぽいのでしょう。そして聖人、仏陀が、ただの凡夫と同じならどうでしょうか。もし、すべての人が、どんなことにも耐えず、何もせず、どんなテストにも合格せずに、聖人、仏陀になれるなら、聖人、仏陀に良い点などあるでしょうか。人間と天人にたたえられるような価値があるでしょうか。「天人の導師」、あるいは「四生の慈父」となる価値があるでしょうか。

ですから、もしみなさんが聖人、仏陀、菩薩になりたいなら、どんな好ましくない条件であっても、それは私たちをテストするために存在するということを、はっきりと理解しなければなりません。私たちは勇敢に生きていかなければならないのです。たとえ、それがとてもつらいものであっても、物事は二日もすれば好転するでしょう。どんなに暗く、どんなに長い夜であっても翌朝までしか続きません。夜は永遠に続くことはないのです。私たちの苦しみもまた同じです。どんなにつらい状況も永遠に続いたりしないということを、私たちは子どもの頃から学んできたはずです。最もつらい状況であっても、それほど長く続いたりはしません。幸福な状況はさらに短いのです。ですから、この世界は私たちがしがみ付くものなど何一つ提供してはくれません。私たちが執着したりするようなものは、何一つ提供してはくれないのです。

たった一つだけ、永遠のものがあります。それは私たちの「内在の音」です。それは常に存在し、毎日私たちの面倒を見てくれます。しばらくすれば、私たちは上昇し、そして永遠の場所に住むことができます。そこは夜も昼もなく、春夏秋冬もありません。そして、この世界のような苦痛もないのです。けれども、私がこういうことを言うと、ある人は「毎日が同じなら、とても単調でつまらないのではないか」と思うかもしれませんが、そうではありません。それは、私たちの頭脳が依然として世俗の凡夫のレベルなので、そこがどんな境界なのか想像できないのです。そういうことで、阿弥陀経を読んだ後、何人かの人々が私に尋ねるのです。「誰がそんな境界に住みたいと思うのですか」。それで私はこう答えました。「その境界はあなたが想像しているほど、退屈ではありませんよ」。

私たちは個人的に体験して始めて浄土というものを知り、そこに住みたいと思うようになるのです。そうでなければ、他の人がそれについて語っていることを聞くだけでは、私たちには理解できません。釈迦牟尼仏が在世中、皇后だった弟子がいました。彼女は皇后として、世界で最も美しいもの、最も幸福な状況をすでに享受していましたが、浄土を訪れると、彼女はそこにずっといたいと渇望するようになりました。彼女は釈迦牟尼仏に尋ねました。「私が死んだら、あそこに住めるのですか」。彼女が見た場所というのは、それほど美しかったのです。

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