マスターと弟子

フォルモサ・西湖 長住者
マスターの傍らで働き始めた頃の日々は、いつもたくさんの仕事とプレッシャーの多いマスターを見ていたことを思い出します。私たちそばにいる弟子たちも、常に精神を集中して共に仕事をしなければなりませんでした。数人がローテーションを組んで、ようやくマスターの膨大な仕事量に対応できたのです。
マスターのそばにいる時、私はとても集中して落ち着きます。マスター本人がいつもこうなのです。彼女の磁場は人をリラックスさせ、平静に、平和に感じさせ、意識は自然に智慧眼に集中します。どんな事もみなすぐに理解でき、しかも素早くできます。ところがいったんマスターのそばを離れると、この能力と感覚は段々と消えて行き、以前のような、だらけて注意力散漫になる癖がまた現れます。私はこういった体験をした後、心の内で、自分が努力すべき目標とは何かをはっきりと理解しました。
修行の世界は「耕した分だけ、その収穫を得る」のであり、「まぐれ」という言葉は、私たちの修行の辞書には存在しません。ある時、こういうことがありました。マスターは私を教育し、さらに真面目に修行することの重要性と、棚からぼた餅と言ったような気持ちを抱いてはならないことをはっきり理解させるため、彼女の住む木造の小屋に私を呼び出しました。ちょうど食事中だったマスターに招かれ、私は一緒に座って食事をしました。私たちは食べながらおしゃべりをし、ある修行仲間のことに話が及びました。この男性はかつて私たちに、自分は本当に「嫉妬」する性質から脱して、嫉妬がもたらす恨みや怒りなどの良くない感情も共に消え去ったと言いました。それはどんなに気分のよい事でしょうか。私は当時これを聞いてとても羨ましく思ったものです。私は小さな頃から嫉妬しやすく、それに束縛されまいと思いながらも抜け出せずにいたので、その人がこの束縛から解放されたのを見て、彼に感服すると同時に、意気消沈してしまいました。
しかし、マスターは私の話を聞いて、あまり同意できないという顔をしたので、私は驚きと戸惑いの面持ちになりました。マスターは「彼は一人の敵を負かしたと考えましたが、すぐに立ち上がって喜んでいいのでしょうか。結局はすぐにまた別の弾に撃たれて死んでしまいます」と言いました。マスターが言わんとしているのは、その修行仲間は自分の小さな成功に得意になりすぎて、注意力散漫になる。それが、自分をすぐさま別の良くない性質の中に陥れることになり、しかもその認識もない、ということです。その時、私は一瞬ポカンとしましたが、すぐにはっと気がつきました。たとえ苦労し、努力してそれまでの自分を乗り越えたとしても、やはり慎重でなければなりません。いつでも深い淵を覗き込むような、薄い氷の上を歩くようなもので、少しでも得意になったり、気を抜いたりすることはできないのです。
マスターのこの例えを聞いた後、私たちがこの世界で修行することは、本当にまるで戦場の最前線に身を置いているようなもので、内面の保護と精進は、自分に対する厳しい要求にかかっているのだと、私は思いました。その時、私の考え方の最大の間違いは、意識を集中させるとは、体、あるいは精神も引き締めなければならないと思っていたことです。引き締めることは、もちろん自分に疲労を感じさせます。ですから、心の中で疑問に思わずにはいられませんでした。「私たちがこんなふうに慎重に注意深くすることは、一体いつまで続くのか。いつになったらリラックスできるのだろうか」。そしてマスターに尋ねました。「この『戦争』はいつになったら終わるのでしょうか」マスターはうなずいて答えました。「終わりますよ。往生するその日になったら、終わります」。
マスターの回答は、彼女が常に自分に対してどのように要求しているかということも私に思い起こさせました。ある時、マスターがみんなと会った日の夜、私に聞きました。「昼間、私はある人にこう答えましたが、これは厳しすぎますか」。その時、私は心の中で不思議に感じました。「マスターは何をするにしても完璧なのに、どうしてさらに弟子の意見を聞く必要があるのだろう」。マスターが物事をすべてこんなにも完璧にできるのは、一つには、とても厳しく自分を律し、常に自分の行いを反省しているからです。マスターはよく私たちに、何事も熟考を重ね、話す言葉は口に出す前に7回舌を巻くほどによく考え、また、ただ事前に深く考慮するだけでなく、事後もやはり自己検討しなければならないと注意します。すべてこういったことを、マスターは確実にやり遂げます。マスターとの短い二言三言の対話が、これまで長年にわたって私に深く影響し、今日でもやはり限りない利益を受けているのです。