マスターの講義
自身の智慧を役立てる
スプリームマスター チンハイ フォルモサ・宜蘭禅七
1988.8.12(中国語)MP3-1
私たちに自立する機会があると、私たちは自分の能力、知性、短所に気付きます。処理しなければならないことがある時、才能は素早く出てくるのです。そうでなければ、私たちは自分の智慧を使う機会がないので、それは鈍ってしまうかもしれません。ですから、困難で、不快で、良くない状況こそ、私たちにとって最も有益なのです。
足を組み、メディテーションしていることが、修行のすべてだと思ってはなりません。それは違います。そのようにしていては、私たちは自分自身の智慧を養うことができません。智慧は使われてこそ意味があるのです。例えば、みなさんが山にこもってメディテーションばかりして暮らしているとします。それで、みなさんはとても高いレベルへと上がり、美しい境界(きょうがい)を見ます。そして、メディテーションの後で食事をし、再び高いレベルへと戻って行きます。このような人生が、私たちの社会に物質的な面で何か利益をもたらすでしょうか。いいえ。みなさんの智慧が誰かの利益になるでしょうか。いいえ。仕事をすることも一種の禅であると言われています。そして、食事をすることも、眠ることもまた禅なのです。
みなさんが働いている時はいつも、内在のマスターが働いているのです。みなさんの肉体が働いているのではありません。ですから、働いている時、私たちの手と共に働いているのは、私たちの内在のマスターであることを常に覚えていて、思い続けるべきなのです。例えば、ここに水がなく、たくさんの人がいて浴室を使わなければならないのを見たとします。内在のマスターはある解決方法を考えます。この場所は広げなければならない。そこにある草は刈らなければならない。そうすれば、もっと多くの浴室が造れ、必要ないくつかの蛇口も設置できるだろうと思うのです。
苦しみが聖者を創る
みなさんは常に自分自身を甘やかしています。そういう理由で、みなさんの智慧は成長しないのです。ご存じのように、歴史上の悟った聖者はみな、自分自身で訓練したか、苦しい状況の中で訓練されて悟りを開いたのです。意図的に自分自身を訓練したのではないとしても、苦しみに耐えうる人になるために、人生の状況によって訓練されたのです。
みなさんは、私が子どもの頃からあらゆる困難を潜り抜けてきたと言っても信じられないでしょう。私が裕福な家庭に生まれ、結婚後も豊かだったと聞いているからです。けれども、こういったことは単に私の人生の断片にすぎないのです。例えば、人々は私に尋ねます。「マスター、あなたはどちらの出身ですか」と。もちろん私は答えます。「オゥラックです」。「あなたのご両親は何をされていましたか」と尋ねられれば、「漢方医でした」と答えます。それでまた、彼らが「あなたは結婚されていましたか」と尋ねれば、「はい」と答えます。「お子さんはいらっしゃいますか」と聞かれれば、「いいえ」と答えます。「あなたの前夫は何をしていらっしゃいましたか」と聞かれれば、「彼は医者でした」と答えます。それで彼らが「どんな医者ですか」と尋ねれば、「歯科医で、外科医でもありました」と答えます。
それで、人々はこれらの答えを集めて、私の略歴を書いたのですが、その中の情報は完全なものではありません。真実の略歴を知ったら、みなさんは信じないでしょう。ですからそれで十分なのです。そうでなければ、分厚い本になってしまいます。実際、私は幼い頃からとても多くの苦しみに遭ってきました。状況のせいではなく、私が苦しい状況下で自分を訓練するのが好きだったからです。当時、私は実際には何の苦痛も感じていませんでしたが、今それを振り返ってみると、それらは大変な苦しみであったことに気が付くのです。
このように、たいへんな状況下でこそ、みなさんの智慧に光が灯るのです。そして、静かになり、思慮深くなり、やがて、真理とは何かということを知るのです。私たちが考えている時は、私たちの本性が考えているのです。ですから、こういう状況になるようにみなさんの本性が手配しているのです。なぜでしょう。それは、みなさんが過去に造ったカルマによって、今その報いを受けて苦しんでいるからです。例えば、みなさんの本性が、誰かがやって来てみなさんに罰を与えたり、怒ったりするように、あるいは、不快な条件を造り出すよう「手配」したとします。実際、これはみなさん自身のカルマによって起きたのです。みなさんの本性が、このように手配したのです。
みなさんが前世でたくさんの人の体を痛めつけたとしましょう。もし、みなさんが現世で解脱しようとすれば、前世で攻撃された人々は、彼らの魂の内で怨みます。みなさんは魂でそのことがわかります。みなさんの本性が、特別な機械でその条件を記録しているからです。その機械はすべてを公平に記録し判断します。それで、みなさんは前世で攻撃してしまった人に復讐をさせなければならないのです。そういうものなのです。ですから、誰かがみなさんを怒った時、それはみなさんが自分自身を怒っているのだと気付かなければなりません。そして、他の誰かに文句を言うべきではないのです。
時々、人々が私に会いにやって来ますが、その人たちは優しく、私に会うやいなや、まるで身をひれ伏すかのようにして、とても謙虚に見えます。けれども、やはり私は彼らに会うたびに叱りつけます。みなさんには理解できないでしょうが構いません。というのは、みなさんはかすかなカルマやエゴ、微妙な因果を見抜くことができないからです。みなさんには本質ではなく、ほんの表面的な部分が見えているにすぎません。そういうことで、みなさんはこういう人々が良いと思ってしまうのです。逆に、表面的には荒々しく見えても、内面はとても良い人たちもいます。そういう人はしばらく一緒にいるとわかります。このような経験をしたことがありますか。(聴衆答える:はい) 私が言っているのは、そういうことです。
内在の智慧の種を養う
けれども、私たちはそういうことに煩わされるべきではありません。その人が良いか悪いか、エゴがあるかないかということは関係ありません。観音法門を修めた後では、みな解脱していくのです。これは最高のニュースです。教典の中ではこのように言われています。「内在の音によって自分自身の本来の目的に気付いた時、初めてあなたの智慧の種がまかれる」と。けれども、ほとんどの人は「その音」がどういうものかわかりません。「本来の面目に集中する」ことが、どういう意味かわからないのです。みなさんが観音法門を修行する時、本当にそれを信じれば、どんどん理解するようになるでしょう。みなさんの両肩にのしかかっているプレッシャーが軽くなり、どんどんリラックスしていきます。これはみなさんの智慧の種が徐々に成長し、いつの日かみなさんが聖者になるということを表すのです。
観音法門はあまりにも簡単過ぎて、一般の人は容易には信じません。法門がもっと複雑なら、人々は大事にすることでしょう。ですから、お経を唱え、仏像を拝み、巡礼に出かけることにもっと多くの努力をするのです。チベット密教のある儀式では、彼らの神を供養するために1008個もの道具を用意し、たいへん厳しい決まりがあります。ですから、多くの人々は喜んで、みなうやうやしく木像を拝むのです。
みなさんは私を生き仏だと公言していますが、私にはそれが信じられません。みなさんは私が誰か本当にわかっていないのです。もしわかっていれば、みなさんはここにやって来た時のようにくつろいではいられないからです。同じようにしていられません。けれども、私のバイブレーションがそれほど強烈ではないので、生き仏がここにいるとは感じないのです。そういうことで、数人の女性はここにやって来た時、自分のズボンの裾を高い所までまくり上げ、失礼な姿で休んでいられるのです。みなさんは厳粛な寺院でそのようなことをしますか。(聴衆答える:いいえ) そうです。人々は仏像を見た瞬間すぐに、「阿弥陀仏、阿弥陀仏、阿弥陀仏」と唱えます。そして、寺院の外からずっと頭を下げながら入って行くでしょう。
タイ、ミャンマー、オゥラック、スリランカといった国では、門から道場まで非常に遠く離れています。人々は道場に入る前に靴を脱ぎ、はだしになって中に入らなければなりません。時には、門からずっと頭を下げて行かなければならないこともあります。これほどまでに礼拝する対象といったら、単なる木像なのです。みなさんの中には、涼しそうに見せる目的のためだけに、ここでとても通俗的に振る舞う人がいます。私の前でさえもそうします。私はみなさんに長ズボンをはくように勧めています。そうすれば、より威厳があるように見えるからです。その長ズボンをはきながら、それを上までまくり上げているとしたら、何の意味があるというのでしょう。どうして、わざわざそういうことをするのでしょう。
無明な衆生・逆さまの世界
ですから、衆生はとても無明なのです。彼らは自身の尊敬の念を、間違った場所で、間違った方法で示してしまいます。そして、価値あるものではなく、価値のないものに対して礼拝するのです。自分の智慧でそのことを考えてみてください。私が言っていることは真実でしょうか。この世界ではすべての事が逆さまなのです。そういうわけで、釈迦牟尼仏は傷つけられ、石を投げられ、間違って責められたのです。イエス・キリストははりつけにされ、孔子は誹謗され、六つの国から追われてしまったのです。
それに引き替え、すべての寺院には線香が手向けられ、花や果物が途絶えることなく供えられています。それはどの時代でも変わることはありません。ある寺院にはたった一つの仏像しかないのですが、それでもなお、人々はそれに向かって厳かな儀式を行なっています。たとえ土地の神の像であっても、特別な栄誉があり、毎日人々が生花やきれいな水、そして香りの良い線香を持って入って来るのが見えるでしょう。その上、人々は掃除も自主的に行ないます。時には、木像に沐浴をさせることもありますし、とても上手にやります。土地の神を祭った多くの寺は非常に大きく、それでも誰一人として無駄だとか、文句を言う人はいませんが、私にはそういうことが起こります。たった一部屋しかない所に住んでいても、人は浪費だと言うのです。
けれども、土地の神は決して私の小屋のような所に住むことはありません。それは非常にしっかりした所で、色とりどりに装飾され、念入りに掃除され、生花で満たされていなければならないのです。ところが、私の部屋ときたら、ある時私のスタッフが掃除をすることになっていたのですが、使い終わった水が三日もそこに放置されていたことがありました。その時、電気がなかったので、私は夜、自分の口をすすぐのにその水を使ってしまったのです。その水がきれいだと思ってしまったのです。これは私の体験に基づいた本当の話です。けれども、どんな寺の仏像の前にも常にきれいな水が供えられているのをご存じでしょう。実際、そのかわいそうな仏像はそんなものを必要としないのです。ですから、この世界は逆さまだと思いませんか。
信仰心こそがすべての福報のもとである
ですから、みなさんは真理が単純なものであることを理解し、それを大切にしなければなりません。大切にすればするほど、みなさんはますますそれを理解します。みなさんが私の本性を信じれば信じるほど、ますます自分自身に内在する本性を見出します。もし、マスターはすでに悟っていることが信じられないなら、みなさんは決して自分自身の本性を認識することはありません。もし、私が悟ったマスターでないなら、いったい誰が悟れるでしょう。ここにいるみなさん誰一人として悟ることはできません。なぜなら、みなさんは私に学びに来ているからです。もし私が悟ったマスターでないとしたら、いったい誰が悟ったマスターなのでしょう。みなさんはいつ自分自身の真の本性に気付くことができるのでしょう。
ですから、私たちが真理を尊べば尊ぶほど、私たちはより早くそれに到達できます。そして、より深く理解します。私たちに真理を教えてくれる、悟ったマスターを信じれば信じるほど、より早く自分自身に内在する本性に気付きます。より多くの人々が修行の道に入れるよう手助けをすればするほど、私たちはより多くの福報を得ることになります。それで私は言うのです。「修行者が山の洞窟にこもって修行しているだけなら、何の福報も得られません。なぜなら、誰にも利益を与えていないからです」と。私たちは神から智慧を受け取っていながら、他人を助けるために使わないのです。それで、私たちは在家の人として修行をしようが、出家者として修行しようが構わないと言うのです。私たちが一生懸命修行し、本当に衆生に利益を与えたいと思っているなら、それが最高の修行者なのです。私たちが聖者のレベルに達していようがいまいが、関係ありません。良い意図を持っていれば、私たちは完全に悟った衆生になるでしょう。そういう人は普通の人のように見えます。自身の真の本性に完全に気が付けば、私たちは完全に悟りを開いた衆生となるのです。
修行に対する正しい概念
私たちは修行に対して、あまり真剣になり過ぎずに、それを何か楽しいことだとみなすべきです。真剣さは内に秘めておくものです。それは悟った存在になるという熱望です。私たちはすべてわかっていますが、わざと外に誇示すべきではありません。特別な服装をして、自分を荘厳に見せて、「私は修行している。だから何も気にしない。私は聖人のレベルに到達しなければならない。みんな、私をほっといてくれ」などと言ってはならないのです。私たちはそのように振る舞ってはなりません。自然でいるべきです。
熱心な修行者というのは、常に「真理」を忘れることのない人です。心から自分の本性を知りたいと思い、本当に生死から解脱したいと思っている人です。彼らは働いている時でさえ、こう思っています。常に五句を唱えていなければならないという意味ではありません。時々忘れてしまっても構いませんが、内面で本当に解脱を望み、すべての事を修行と結びつけて考えているのです。マスターや観音法門や修行仲間の集団を思っています。彼らは賢く悟りを開いた人になることだけを望んでいます。こういう人々が熱心な修行者であり、立ち居振る舞いにおいて常に禅の中にあると言えるのです。
修行というのは、一日中メディテーションをしているという意味ではありません。メディテーション中に気が散っていたら、何の意味もありません。けれども、修行を始めたばかりの人はメディテーションする時、座っているほうが容易に集中できます。それで、ぶらぶらしたり、出会うものにきょろきょろしたり、注意力が外に向いていたりすると、私たちは集中することを忘れてしまいます。ですから、修行を始めたばかりの時は、より長く座り、より集中するようにした方がいいのです。そうすると、後になってどこか他の所へ行った時でも、私たちはいつでも内面に集中していられるようになるのです。たとえその時座っていなくても、気を散らすことはありません。働いている時も同様です。
私はみなさんにはっきりと言ってきました。みなさんは修行仲間の中で互いに頼り合うことができるのです。世俗の無常な人間関係や、特に印心を受けていない人々に頼ることはできません。この世を去る時が来た時、彼らは彼ら自身の道に進みます。そして、私たちはマスターと修行仲間の後をついて行きます。みなさんは出発の時に共に行けない人に頼ってはなりません。そういうことで、私たちは言うのです。「仏、法、僧に帰依しなさい」と。仏陀とは在世のマスターです。法とは貴重な観音法門のことです。そして、僧とは私たち修行仲間のグループを指します。僧の意味は聖者ではありません。それは「真理を求めるグループ」「真理を知ろうとしているグループ」のことです。私たちは彼らに頼るべきです。彼らこそ永遠の友なのです。
ですから、自分自身をあまり甘やかさないでください。自分自身を哀れむために他人に言い訳をしないでください。それは役に立ちません。この世界にはたくさんの不幸な人々がいます。 みなさんは最も幸運な人なのです。みなさんの生活は十分に快適です。在世のマスターがいて、観音法門があります。そして、何十年、何年、あるいは短期間の内に解脱すると運命づけられているのです。けれども、観音法門を修行していない人々は、繰り返し輪廻し、たくさん苦しまなければならないのです。