マスターの話す物語
私たちの過ちを埋め合わせる
スプリームマスター チンハイ フォルモサ・西湖センター
1992.1.1(中国語)ビデオテープ203
かつて、マハトマ・ガンジーがインドで断食をしていた時、一人のヒンドゥー教徒が彼の所にやって来て言いました。「私は間違いなく地獄へ行きます。誰一人私を救える人はいません。けれど、私はやはりそれでもあなたに何か食べ物を供養したいと思います。あなたは私たちのために断食をしてくださっているからです。私はあなたに飢え死にしてほしくないのです。地獄に行くのに、さらにもう一つの罪を背負いたくないからです」。そして、その人はガンジーにパンを一個差し出し、それを食べるように頼み、「どうかそれを召し上がってください。あなたがこれを食べ終わったら、私は地獄に行く用意をします」と言いました。
ガンジーはその男の人に、どうして地獄に行くと思うのかと尋ねると、彼はこう答えました。「私はヒンドゥー教徒で、私の子供はイスラム教徒とヒンドゥー教徒の間に起きた戦争で、イスラム教徒に殺されてしまいました。それで、私は復讐のために、残酷にもイスラム教徒の子供を殺してしまったのですが、後になって、とても深い罪の意識を感じるようになりました」。それでガンジーはこう言いました。「私はあなたを地獄に行くことから救う一つの方法を知っています。両親を失ったイスラム教徒の子供か、誰であれ両親のいない子供を捜して家に連れて帰り、育てて教育を与えてあげなさい。やがて、その子はイスラム教徒として成長し、そうすれば、あなたは地獄に行かなくてすみますよ」
肯定的な方法で罪悪感を溶かす
私はガンジーの提案がすぐさまその人のカルマを消せるとは思いませんし、そのような方法で、本当にその男を地獄から救えるかどうかも私たちにはわかりません。けれども、これはなかなか良い考えです。少なくとも、生きている間は、彼の罪悪感は軽減されるでしょう。それ以上に、子供を育てていく間に、彼は父と子の幸福な絆を体験するかもしれません。それは彼に慰めと、子供の成長と学習の過程を見守る人としての価値ある感情を与えるでしょう。また、父母のいない孤児を養育することで、彼はより自分への自信を深め、満足を得るでしょう。そういう訳で、これは彼の罪悪感を埋め合わせる救済方法なのです。
もし、その男の人がずっとこの罪悪感に関して不平を言い続けたとしても、それは何の助けにもなりませんし、誰を助けられるというのでしょう。かえって助けられなくするばかりです。どれほど厳しく毎日自分を責めようが関係ありません。私たちは何か悪いことをしてしまったことに気付いた時は、犯してしまった罪を薄めるような幸福な気分を経験しない限り、あるいは、あたかもその罪がなかったかのように罪を軽減しない限り、心の中の罪悪感を消すことはできません。私たちが何かを成就し、幸福を感じた時、その達成感が私たちの罪悪感を溶かすことができるのです。
例えば、広範囲にわたって地面に雪が降り積もっていても、日差しがとても強ければ雪は解けてしまいます。私は以前、日本でこういう経験をしました。ある時は三日も四日も雪が降ることがあります。とても寒く、雪はとても深く積もるのです。けれども、いったん太陽が顔を出すと、数時間で雪は消えてしまいます。そこは数日間ずっと雪が降り続いていたので、本来真っ白な雪で覆いつくされていた所なのですが、いったん太陽が顔を出せば、雪はみな徐々に溶け、消えてしまうのです。
この解けていく雪のように、私たちも罪を溶かしていくべきです。そうしない限り、私たちが自分自身の罪の意識の中に耽っていたとしても、意味がないだけではなく、私たち自身も憂鬱になり、たいへんなストレスを感じるのです。さらに、それは私たちの周囲の人へもストレスを与えることになります。私たちが闇の中に沈んでいると、人とコミュニケーションを取ることができず、人が何を言おうと無関心になってしまいます。人が何か面白いことを言った時でさえ、私たちはただちょっとほほ笑むのが精一杯で、その後再び否定的な感覚の中に自分を埋没させ、心を開かず、自分を幸福にすることができません。というのは、その喜びは、私たちの罪悪感に対して何もできないからです。それで、私たちは間違ってしてしまったことに対して、何か埋め合わせをすることでしか、本当の幸福を感じられないのです。このように、すべての結果には必ず原因があるのです。
私たちは悔い改め、謙虚になることが重要ですが、もっと重要なことは、自分自身を愛することです。自分自身を愛せない人が、どうして他の誰かを愛せるでしょうか。自分自身を愛するということは、自分勝手であるという意味ではありません。自分のためにすべてを奪い取るということではないのです。あるいは、どんな状況でも、他の人の感情や便宜を考えることなく、自分自身のことばかり考えているのでもありません。それに、他の人を幸せにするために何もしないということでもありません。また、私たちが不幸せな時、ただ自分自身の幸福を気にかけ、他人を非難することでもないのです。そういうことは、自分自身を愛することではなく、独裁的で、自己中心的な振る舞いです。それは同じことではありません。
自分自身を愛するというのは、私たちの霊的なレベルが高くないと、禅定力がなく、メディテーションをしてもうまく集中することができないことを理解することでもあります。たぶん、私たちは過去世で、悟ったマスターの導きがなく、比較的無明だったために、他の人よりも多くのカルマを作ってしまったのかもしれません。それで、現世では私たちは上手く修行することができなかったり、進歩がゆっくりだったりするのでしょう。そういうことで、私たちはもっと私たち自身を愛さなければならないのです。私たちはそのような人を見かけると、気の毒に思います、それならば、私たちは自分自身を憐れむべきではないですか。したがって、私たちはできる限りうまくやってみるべきですし、可能な限り自分自身を向上させてみるべきです。「私は深く後悔しています。わかるでしょ」「私は懺悔したのです。それで十分じゃないですか」などと言わずに。それは正しいことではありません。真の懺悔は自分自身に教え、自分自身を救い、自分自身を励ますことです。将来もっと良いことをするよう自分自身に喚起することです。自分自身や他人にとって良いことを、知っている限りすべて書き出し、それをできるだけうまくやるべきです。その一方で、私たちは自分の悪い習慣を、それが完全になくなるまで一つ一つ変えていくべきなのです。
ですから両方の面が必要です。日々自分の罪のことばかり考えて、闇の中に沈み込み、肯定的な解決方法を何も取らないでいてはいけません。それは何の役にも立たず、私たちにとって何も良いことはありません。私たちは解決策をもたらす方法を考えるべきです。そうすれば、良いことをした時、私たちは慰めを感じ、勇気づけられ、徐々に自分の罪を忘れることができるのです。こうすることによって、私たちの悪い習慣は自然に変わっていき、私たちは自分を許せるようになるのです。
そうしない限り、私たちは自分を許すことができません。他の人が私たちを許してくれないのではなく、自分自身の罪悪感によって、死ぬほどのプレッシャーを感じるのです。こうして地獄が作り出されるのです。悪いことをしてしまった人は、解決策を見つけることができないので、自分自身を許せないのです。神や他の誰かが私たちに罰を与えるのではありません。私たちはすべての衆生のマスターなのですから、自分以外に罰を与えられる人はいません。私たちは自分自身に教えるためだけに、そのようなレベルに落ちていくことを許すのです。
悪いことをした人は、学び、自らの悪い行いを埋め合わせるために地獄に行くと言われていますが、それよりもっと前向きな良い方法があります。例えば、私たちが以前誰かのお金を盗んだとしたら、今、私たちはただ盗むのをやめるだけではなく、与えることもしなければなりません。私たちは慈善活動をし、困っている人を助けるべきです。私たちは消極的で、否定的でいてはいけません。その代わりに、私たちは積極的で、肯定的になるべきです。私たちがただ否定的な行為をやめるだけなら、それは依然として非常に消極的なことです。私たちは過去の過ちを埋め合わせるために、良い事をしなければなりません。それは積極的で、肯定的なことです。このようにして、私たちはカルマを洗い流すことができるのです。