マスターの講義 青少年の修行生活
宇宙の大学校

スプリームマスター チンハイ
フォルモサ・西湖センター
1991.6.16(子どもたち対象の中国語の講義)ビデオテープ176
人間はこの世界で最も貴重で、最も智慧のある衆生です。ですから、みなさんはそのように幼い年令でありながら、学校へ行くことができ、先生が教えたことを理解するのです。そして、どんどん賢くなり、良い子になっていきます。もし、小鳥を学校に入れたら、何か学べますか。(子どもたちが答える:いいえ) けれども、私たち人間は、人としての風格あるふるまいをすべきです。そうでなければ、私たちは動物にも及びません。
私たち人間にも動物の性質はあります。例えば、闘牛とか、闘鶏といった闘争的なことを楽しむ時です。私たちがあまりにもたくさん眠っている時、どんなふうに見えますか。(子どもたち:ブタです) では、私たちがガツガツ食べていると、どんなふうに見えますか。(子どもたち:ブタです) またブタですか。(笑い) ブタはそんなにひどいですか。ブタにはこういった両方の性質があります。(笑い) 私が言っているのは、私たち人間もまた動物の性質を備えているということです。それは、私たちがひどいという意味ではありません。どうして、私たちはこういった動物の性質も備えているのでしょうか。それは、私たちにも動物のような体があるからです。動物にも目があり、鼻があり、耳があり、口があります。ある動物には手もあります。手がないものもいますが、翼があります。ですから、私たちは動物の性質から逃れることはできないのです。
けれども、人間には有利な点があります。私たちはこういう性質をコントロールできるのです。私たちの意志の力がどれくらい強いかによって、それを大きくしたり小さくしたりできるのです。例えば、時々、私たちは食べ過ぎると反省し、そして自分に言います。「ああ、そんなに食べてはいけない。ちょうどいいだけ食べなければ。そうしないと、すぐに眠くなってしまいます。眠くて学校で集中できなくなってしまうかもしれませんよ。先生が教えている時に、いびきをかいてしまいます」と。私たちは自分にこういうふうに警告できます。それで、私たちは食べるのを少なめにします。あるいは、学校に行く時間になっても朝食を食べていないと、私たちは自分に言い聞かせます。「もう学校へ行く時間だよ。そのほうがもっと重要なことだよ。時間がある時にまた食べられるのだから」。
けれども、ブタにはそういうことはできません。ブタが学校に行っていたら、満腹になるまで食べなければ、学校に出かけようとはしません。食物を横にどけても、ブタは食べ物に突進するでしょう。ですから、私たち人間にも動物の性質がありますが、それでも智慧と意志の力があるのです。それで、私たちは自分自身をコントロールし、自分自身の中にある他の聡明な資質を発展させていけるのです。動物はそうすることができません。どんな賢い動物であっても、人間のように学ぶことはできないのです。
人はみな、知性と才能の面からいっても異なっています。ある人は比較的聡明で、ある人は愚鈍です。それは、彼らの知識や生まれもっての才能が違うからです。ある人は比較的賢く生まれ、ある人はみんなに追いつくのにたくさん勉強しなければなりません。ある人は学校に行ってもなお愚かなままです。彼らは以前よりほんの少し賢くなることはできますが、その違いはほとんど気付かないくらいです。彼らは一生懸命勉強しないからです。
けれども、私たちは修行をしているので、すべてのことを非常に早く理解します。そういうことで、現在、ある学校では生徒にメディテーションを教えたりしているのです。けれどもそのメディテーションでは、それほど長く座ることはできません。というのは、彼らのほとんどは菜食者でないからです。もちろん、彼らは普通の法門を学んでいるだけですが、それでもたくさんの利益があります。彼らの知性はどんどん増加し、より賢くなるのです。
本来、私たち人間はとても高い境界(きょうがい)からやって来たのです。そこでは、私たちはすでに何でも知っていました。私たちの頭脳は、ありとあらゆる種類の資料でいっぱいになっています。そして、私たちは入力キーがどこにあって、それをどういうふうに操作するか知っていれば、その資料がどんどん出て来て使われるのです。私たちの頭脳はコンピューターのようなもので、宇宙からのありとあらゆる資料で満たされています。ただ、私たちは入力キーがどこにあり、それをどう操作するか知らないので、こういった資料のほとんどを役立てることができないのです。
私たち修行者は正しいキーを見つけ出すべきです。そうすれば、私たちはすべてのことを理解し、何でもすることができます。普通の人より何でもうまくできるようになるのです。ですから、私たちが修行をすると、内在の智慧が自動的に調整し、私たちが何か必要な時はいつでも内在のマスターが私たちのために正しいキーを押してくれ、私たちに必要なものを提供してくれるのです。これは何も神秘的なことではありません。私たちが求めたことがかなったのなら、それは私たちがもともと持っていたものだからです。私たちが正しいキーを押せば出てくるのです。ですから、それは何も神秘的なことではありません。
私たちはその方法を学んでいないので、時々、どうやって正しいキーを選んでいいかわからないことがあります。それで、私たちは神に祈り、助けを求めるのです。それで、神は理解し、私たちに代わって正しいキーを選び、奇跡が起こるのです。私たちのすべての望みはかなえられます。というのは、私たちは正しいキーを見つけたからです。私たちがよく修行した後では、何も神に祈る必要がなくなります。私たちは正しいキーの見つけ方がわかっているので、私たちが望むすべてのものを手に入れられるようになるのです。
私たちはメディテーションをし、菜食を守り、慈善活動を実践し、戒律を守ります。こういうことはみな修行の一部です。私たちが修行すればするほど、私たちはますます自分自身の問題の処理方法がわかるようになり、内在の資料の使い方がわかるようになります。さまざまな状況で何を使ったらいいか、もっとわかるようになります。ですから、みなさんはヒマラヤで偉大な修行者が何かに変身したり、奇跡を行なったりというような、不思議な話をたくさん聞いたことがあるでしょう。彼らはこういうことができるのです。これは彼らが修行をしているからであって、彼らに超能力があるからではありません。私たち一人ひとりにこういったパワーがあるのです。イエスにできたことは何であれ、私たちにもできるのです。方法さえわかれば、何でもできるのです。
学校で学ぶことも同じです。学校に行き始める前、みなさんは「あいうえお」さえ読めませんでしたが、今は読めます。なぜでしょう。何も不思議なことではありません。みなさんは学んだからです。たとえ「あいうえお」が簡単でも、それを学んだことのない人にとっては、読むことはできないのです。
修行者はさらに別の学校へ行きます。大学よりも高いレベルの学校です。この世界の学問はせいぜい大学止まりです。中学校は小学校より、大学は高校より高いレベルですが、そこがこの世界の学問の終点です。私たちがもっと偉大な物事を知りたいなら、宇宙や他の神秘的なことを知りたいなら、修行をしなければなりません。
大学を卒業した後、自分の智慧をさらに強化したいと思うなら、仏陀や神の学校に行かなければなりません。それは、ただ別の種類の学校です。けれども、この種の学校は一般の学校とは異なります。組織だった勉強がないのです。筆記テストもなければ、授業料もありません。生徒は毎日学校へ行く必要もありません。それで、人々はそれがいわゆる学校であるとは思わないのです。もちろん、私たちは通常の学校のようにすることもできますが、私はこういう種類の学校に行ける人々というのは、すでに成熟していると思うのです。彼らは申し分なく良いので、「子どもたち」を常にコントロールし、訓練するような方法は必要ないのです。ですから、この種の学校は比較的自由なのです。
自由であっても、この種の学校では生徒は常にとても努力しなければなりません。少なくとも一日に二時間半のメディテーションをしなければなりませんし、戒律を厳守しなければなりません。こういう点からいえば、通常の学校よりも厳格です。そして、紙に書かれたものではありませんが、やはりテストがあります。両親に聞いてごらんなさい。彼らはたくさんのテストを受けています。時には、そのテストに合格しなければ、彼らのレベルは落ちてしまうこともありますが、再びテストを受けることができるので、何も問題はありません。テストを受ける締め切りはないのです。いつ、何回テストを受けようが関係ありません。みなさんに忍耐と誠心誠意がある限り、テストを受け続けることができます。この学校では、また一種の知識を超えた知識を学ぶのです。
ですから、私は一種の学校と言ったのです。私は違った知識を教えます。それは大学よりもハイレベルです。世俗的な学問とは比べようがありません。あまりもたくさんの不思議なことがあるので、世俗の知識を通して説明することはできないからです。大学にも大学の良い点があります。とてもたくさんの教科が教えられています。けれども、私たちはここですべてを教えます。それは言葉を使わずに、内面で教えられるのです。ですから、私たちの学校は学校を超越した学校なのです。
今、みなさんはまだ小学生だったり、中学生だったりするので、一生懸命勉強しなければなりません。宿題も注意してやらなければなりません。けれども、富や名声を得るために勉強してはいけません。社長になったり、大きな会社を経営したり、大統領になりたいために勉強してはならないのです。自分の責任の一部としてやらなければなりません。両親や先生を喜ばせ、社会の一員としての義務を果たすためにやらなければなりません。学業を終えれば、私たちはどこであれ、神が手配した所に行きます。そして、何であれ、神が手配したことをするのです。なぜなら、私たちは神が一切の面倒を見てくれることを知っているからです。
幼い頃から良い本を読み、健全な道徳心を培う
私がみなさんぐらいの年令の学生だった頃、本を読むのが大好きでした。私たちは学校の本だけではなく、読む価値のある他の良い本も読むべきです。道徳的な教典とか、人生哲学の本などですが、とても素晴らしくおもしろいものです。たくさん本を読めば、私たちは外で悪い行いをすることはありませんし、何もすることがない時間が多すぎることもありません。それで、私たちの頭脳が誤った方向に導かれることはないのです。みなさんはまだ幼いので構いません。大きくなったらもっとたくさんの本を読み、もっと研究をしてください。この世界にはたくさんの種類の本があります。科学の本もあれば、医学書も、神学の本などもあります。私たちにとって役に立つ本なら、何でも読んで研究することができるのです。
幼いうちから良い人になるように学べば、私たちは成長してから他の人に迷惑をかけたりはしません。ですから、私たちは子供の頃から基本的な道徳を学ぶべきなのです。何か理解できないことがあれば、まず両親に聞いてみてください。私は、みなさんの両親はとても素晴らしいと思います。彼らは修行をしていて、良い道徳心と常識が備わっています。彼らはみなさんより年上で、みなさんより長く私のもとで学んでいます。みなさんが理解できないことは、まず彼らに聞いてみてください。大きくなる前に聞いてください。大きくなってからでは遅すぎます。
年をとってから、私のところに学びにやってくる修行仲間がいます。私は彼らに教えると疲れてしまいます。オゥラックには「竹は柔らかいうちに曲げよ。成長した後では曲げることはできない」ということわざがあります。同様に、私の両親も幼い頃から私を厳しくしつけました。時々、私はそれが嫌になることもありました。それで、私はこう言ったものです。「私はまだ子供なのに、どうしてこんなに厳しくするの」と。けれども、大きくなってからは、私は両親に深く感謝をしました。それは、私が何でもきちんと正しくできるのは、両親の厳しいしつけのおかげだったからです。私が何か間違ったことをしたなら、それは私自身の過ちなのです。
みなさんはまだまだ幼いですが、あっという間に成長するでしょう。私は自分がつい昨日までみなさんと同じだったように思っていましたが、あっという間にこんなふうになってしまいました。(マスター笑う) いくらか余計に白髪が交じるようになってしまいました。本当に「光陰矢のごとし」です。みなさんがまだ学生のうちは、比較的たくさん時間がありますから、その時間を読書に当ててください。それも良い本を見つけて読まなければなりません。そうでないと、大きくなってからではその時間がありません。本を読む時間がないというのは本当かどうか、両親に聞いてごらんなさい。彼らは本を読んでいても、本に夢中になることができません。彼らは常にあれこれのことを処理しているからです。家計のやりくりや、日々の問題で忙しいのです。ですから、彼らは読書に専念できないのです。
今、みなさんが良い子でなかったら、大きくなってから誰が助けられるでしょうか。悪い子は悪い大人になるのです。彼らは家族や社会を不安にし、国に混乱を招きます。ですから、社会が健やかで安定するかどうかは、未来を担う柱であるみなさんにかかっているのです。みなさんはよく学んで、今のうちから良い行儀作法を培っておかなければなりません。
みなさんは孟子のお母さんが住まいを三回も変えたという話を覚えていますか。(子どもたち:はい) 幼少期にきちんと勉強するということがそれほど重要でなければ、孟子のお母さんは引っ越しにそれほどの苦労をしなかったことでしょう。今、みなさんはこれほど素晴らしい両親がいて、素晴らしい学習環境にあるのですから、本当にきちんと勉強しなければならないのです。知っている限り、良い本を読んでください。何も知らなかったら、両親に聞いてください。みなさんのために良い本を見つけてくれるように頼みましょう。空いた時間があっても、遊びすぎてはいけません。十分楽しめばそれでいいのです。健康のために少し運動もしましょう。それで十分です。何か意味のある道徳的な本を読むことです。みなさんは幼い頃から基本的な道徳を学ぶべきです。大きくなってからでは遅すぎるからです。
私は幼い頃、道徳的な本が大好きでした。どんな状況に置かれても、人のものを盗んではいけないとか、人の財産を盗ってはならないと教えてくれるような本です。成長してから、私は放浪している時期がありました。けれども、私はたとえお金が一銭もなくても、決して盗もうとはしませんでした。私がオウラックにいる頃、友人が私を彼の家に住まわせてくれました。けれども、彼は私にお金がないことを知りませんでしたし、私も彼にそのことを言いませんでした。ある日、私はとてもお腹がすいていましたが、お金がなかったのです。それは戦争の時でしたので、私は家からお金を送ってもらうことができなかったのです。非常にせっぱつまった状況に置かれてしまいました。私の友人はテーブルに家族みんなの食べ物を並べました。おいしそうで、いい匂いがしていました。何日もお腹をすかせたままで、しかも、家族は家にいなかったのですが、私はそれを食べませんでした。私は彼らにこの状況を話しませんでした。私は仕事を探すか、何か別の解決方法を見つけようとしました。幼い時からそういうふうに訓練されてきたので、私はそうしたのです。
私の友人の家族は私をとても信頼してくれていました。私を一人家に残して外出したりしましたが、私は彼らの財産や食べ物を盗んだりしませんでした。というのは、私は幼い頃からそう学んでいたからです。私の両親は、その状況がもち上がるまで、私に教えるのを待ったりはしませんでした。それでは手遅れになったかもしれないからです。ちょうど、みなさんが中国語を学ぶのと同じで、小さい時から学び始めるのがいいのです。そうすれば、後で流暢に話せるようになるからです。だんだんと、あらゆる言葉の使い方を学び、そうすれば自然に上手に話せるようになるのです。
またある時、私はパリに住んでいたことがありましたが、あまりたくさんのお金は持っていませんでした。留学生だったからです。最初、私はある場所に住んでいましたが、何かの理由で別の場所に引っ越さなければならなくなり、引っ越し費用が必要になりました。けれども、その時それほど多くのお金がありませんでした。パリの物価は何でも高く、家賃も台北よりもずっと高いのです。ですから、留学生ですぐに引っ越すようにせまられている私にとって、それがどれほど大変だったか想像できるでしょう。
ある日の夕方、私は住み込みの仕事を探していました。そうすることで勉強を継続できるからです。私にとって夜学び、昼間働くというのは何でもないことでした。私は仕事を探しに行きましたが、見つけることができませんでした。家に帰る途中、私は公園を通りかかりました。すると、一人の男の人が私のことを娼婦だと思い、私にたくさんのお金を見せて、家に連れて行きたいと言ってきました。もちろん、私は「嫌です」と断りました。初め、彼は200USドルを見せましたが、それは400ドルにまで吊り上げました。私はまた、「嫌です」と言いました。すると、彼は600ドルにまで吊り上げました。それで、私は彼に警告しました。「もう一言でも言おうものなら、私は警察を呼びますよ」と。その男の人は恐くなり、やっと私がその種の女性ではないことに気が付き、逃げて行ったのです。当時600ドルというのは大金でした。
なぜ私はお金のためでも、自分の尊厳や道徳心を忘れなかったのでしょう。それは、私が幼い頃からたくさんの本を読んでいたからです。どんな状況でも、世俗的な名誉や富に対して抵抗するのが習慣になっていたからです。私は小さい頃から道徳的な本を読むのが好きでした。例えば、「荘子」、老子の「道徳経」や仏教教典、他には「封神傍」「春秋」「三国志」「東周列国誌」「萬花楼」、そして「程咬金」(中国の昔話にでてくるユーモラスで高潔な登場人物)なども、道徳的な教えを含んでいる本です。こういった本では、必ず善人が最後に良い結果を得られるのです。そして、彼らが災難に見舞われた時には、いつもたちまち正義の味方が現れ、助けたり保護したりしてくれるのです。悪人は遅かれ早かれ発見され、最後には処罰されます。こういった物語を通して、私たちは教育され、道徳感がしっかりと養われるのです。
幼い頃に基本的な道徳をしっかりと培えば、私たちはどんな状況に遭遇しても決して動揺することはないでしょう。そうでないと、私たちは初めての状況に出会った時、テストに失敗してしまうのです。他の人を傷つけたり、策略を謀って富と名声を手に入れようとしたりしてしまうでしょう。たとえ自分の体を売ったり、自分自身の尊厳を傷つけたりしても、気にならないようになってしまうのです。
ですから、みなさんは幼少期から自分の道徳面を顧みる習慣をつけるべきだと思います。ただ教科書を読み、外国語や数学を勉強するだけでは十分ではありません。それらはほんの少しの知識を与えてくれ、商売の仕方を教えてくれ、良い仕事の探し方を教えてくれますが、私たちの道徳的な考えを養ってくれたり、私たちの魂や名誉を守ってくれたりすることはできません。ですから、学校で道徳的なことを教えていないなら、みなさんは自分で訓練しなければなりません。良い本も読まなければなりません。空いた時間がある時、無意味な遊びに耽っていてはなりません。ゲームをしてもいいですが、しすぎはだめです。そうでないと、貴重な時間をたくさん失ってしまうことになるのです。
みなさんぐらいの年令の時に学んだものは、何でも覚えていて、何でも吸収します。ですから、みなさんがどういうことを吸収したかがとても重要なのです。非道徳的な本や暴力的な映画は遠ざけてください。見るのなら、良い映画や本を選ぶことが大事です。そうすればみなさんは良い精神を吸収し、健全な道徳心を養うことができます。みなさんは幼い頃からこういう習慣を養わなければなりません。そして、非道徳的な出版物や映画は拒否すべきです。両親がそれを禁じたり、それに意義を唱えたりするのを待つ必要はありません。みなさんは自分自身に責任を持つべきです。たとえまだ幼くても、みなさんは人間です。みなさんには私と同じように、目も、鼻も、耳もあります。ですから、私が幼い時に良い本を読むことができたのなら、みなさんにもできるのです。
今から、みなさんは自分自身を訓練し始め、将来の生活の準備をしなければなりません。そうでないと、大きくなってからではその時間がなくなります。その時には、みなさんはボーイフレンドやガールフレンドが欲しくなるかもしれませんし、自分の恋愛問題で悩んでいるかもしれません。それに、結婚した後では、家庭の責任で頭を抱えているかもしれません。仕事を見つけた後では、お金を稼ぐことに専念しているかもしれません。それで、どうやって自分自身を訓練する時間を見つけられるでしょう。ですから、今が自分自身を訓練する最高の時なのです。今、みなさんにはそれほど責任がないからです。両親がみなさんの面倒をとても良くみてくれています。みなさんの着る服を買い、食べる料理を作ってくれます。それでみなさんは何の心配もないのです。
ですから、みなさんは今から健全な道徳心を養い始めましょう。そうすれば、みなさんは大きくなってから良い市民に、良い夫や妻に、さらにすべての点で良くなるのです。「自分自身を修養し、家族をしつけ、国を治め、そうすれば世界に平和がもたらされる」のです。こういうことはみな若い頃から訓練していくべきです。そうでなければ、いつ修行するのですか。いつ家族をしつけるのですか。いつ国を治める方法を学び、世界に平和が訪れるのですか。私たちは祖先の人たちと同じように、古代のマスターから継承された良い教典を学ぶべきです。良い道徳や戒律を学ぶべきです。そして、子どもの頃から自分自身を訓練すべきなのです。