禅三がもう終わりましたので皆さんを休ませた方がいいと思っています。もう平常の時間ですから、そんなに長い時間にわたって座禅をしなくてもいいのです。各自テントに戻って座禅を続けてもいいですよ。そして、寝たければ横になっても結構です。昼間は休みをとったり、座禅をしたり、それぞれ自分の好きなようにすれば結構です。ここの一日のスケジュールは、例えば早朝四時から七時にかけて、夕方六時より九時まで座禅をすることになっています。普通はこのスケジュールに沿って行います。夏や冬には多少スケジュールを変更することがあります。自由に、そして出来るだけたくさん座禅をして下さい。雑談をあまりしないようにして下さい。どうしても話をしたくなったときは上帝(最高の神)のことや有益なこと、過ごしやすい雰囲気を作るような肯定の振動力のあることについて話して下さい。それから世界の調和や皆さんや隣人の心霊の向上のためになるようなことを話して下さい。私たちはどんなことを話しても振動力を発します。そして、良いことを話しているのか、悪いことを話しているのかによってその振動力が私たち自身に影響を及ぼします。
多くの同修がまだここにいますね。しばらくここにいますか。家族は納得していますか。私はもうすでに言いましたね。皆さんは家庭、子供、仕事などのような義務、或いはその他の義務がなければここに残っても結構です。とりわけ、家庭、子供、仕事の………。もし、仕事がある場合、出掛ける前に必ず上司に申し出て、そして、ここにいつまで滞在するかを事前に話さなければいけません。そのようにしないといけませんよ。人の立場に立って考えて行動すること。自分勝手にしてはいけません。そうでないと、皆さん自身と私たち団体の名誉を傷付けることになってしまいますよ。
良いことをし、見返りを求めない
私たちはこの世界で良いことをしなければなりません。それは良い結果、良い報いを得るためではないのです。良いことをして良い報いを得るのは子供や修行を始めたばかりの人だけです。修行を始めたばかりの人はまだ褒美、功徳、罰などの称賛や叱責を必要とするからです。けれども、私たちは更に高い次元、高い意識段階に到達すると、もうそんなことなど気にとめなくなります。他人のためになり、そして私たちの良心において正しいこととわかれば、私たちは喜んでしますが、全く見返りを期待しません。
世界の歴史を見てもわかるように正義の人、善意の行為は必ずしもそれなりの良い報いを得るとは限りません。例えば、イエス・キリストのことです。彼は生涯良いことをするように努力して、本当に上帝(最高の神)の品格を持つすばらしいお手本でした。けれども、見返りとなるようなものは何もありませんでした。私が言いたいのは彼は生きている間に何の見返りも得られなかったということです。仏陀も同じようにこの世界や弟子のために多くのことをしましたが、たくさんの誹謗、非難、悪口、更に暗殺までされそうになったのです。もう一人の人物、ガンジー、彼は国民と国家のために努力し、インドの敬虔な信徒に平和をもたらしました。ところが、結局彼は何を得たのでしょうか。一発の銃弾でした。まだまだこのような人物があげられます。例えば、アメリカのケネディ、アブラハム・リンカーンなど。彼らは皆すばらしい人たちです。彼らは一生懸命世界のために正義を主張し、そして人類に平和をもたらそうとしました。ところが、世界のために良いことをしてきた報いは非常に悲劇的なものでした。宗教界だけでなく政界においても同じことが言えます。
例えば、フォルモサ(台湾)は五十年前には国連創始国の中の一つでしたが、今、一体何を得られたと言うのでしょうか。国連から除名されてしまいました。私の言っている意味がわかりますか。良いことをすれば良い報いが返ってくるとは限りません。ですから、皆さんは五戒を守り、菜食をすれば私があらゆる保護力を与え、何の障害もなくよりスムーズに生活ができ、あらゆる人たちが皆さんを愛し、敵、病、災難、不愉快なこと等が起こらないなどと期待しないで下さい。わかりますか。皆さんは戒律を守り、良いことをして下さい。なぜなら、そうすることが一人の人間として生きる唯一の方法だからです。価値ある人間としての生き方だからです。わかりますか。
称賛と非難を超越する
正々堂々たる君子(論語の中の言葉)になるということは普通の人間生活を超越して、聖人になって全宇宙に利益を与えることです。これこそ人生の唯一の目的です。もし、皆さんが優しさや親切心だけを修行していると否定(マイナス)のパワーが攻撃を仕掛けてきて、皆さんを本来の目的からはずれさせ、違った方向へと脱線させます。ですから、私たちは大きな決断力と多くの原則で自分をコントロールし、いつも正しい道を歩み、後から後悔のないよう、そして良い結果が何一つなくても不平を言わないように自分たちの歩む道、生活をチェックしなければなりません。私自身いつも正しい結果、正当な結果を得る訳ではありません。一つの賞、一言の褒め言葉を得るのに百の中傷がその報いとして返ってくるのです。私の言うことがわかりますか。皆さんが知らないだけで、そういう事がない訳ではないのです。私は気にしないだけでそういうことがない訳ではないのです。私たちはそういう称賛、非難の言葉を重要視しないので影響されません。私はいつも褒められ、仕事が順調にでき、いつも皆さんの協力が得られる訳ではありません。弟子に対しても同じです。明師の仕事は決して簡単なことで
はありません。実はそれは犠牲と内面の大きな苦痛があるのです。多くの人はこのことを知りません。けれども、たとえ障害がどんなに多くても、人々の感謝が少なくても、それでも私たちは良いことをし続けます。そのためには自分自身を改善し続けます。それは正しいからです。もうわかっているでしょう。(皆拍手)それはこの世界の挑戦ですから、私たちはいつも上帝(最高の神)の道、良心の戒律を守るのです。それで私たちは全ての相違、称賛、非難を超越し、高貴な人になるのです。
高貴な人になること唯一の道
高貴な人になることは非常に難しいことですが、達成しがたくても、それは唯一の道なのです。私たちはいつも比較的低い等級、低いレベルの思想、暴力的な生き方、非常に無明な品格に陥りたいと思いますか。(皆答える「当然そうするべきではありません」)その通りです。皆さんは正しいです。ですから、これこそ私たちの唯一の選択です。たとえどんなに困難であっても真っすぐ前進しましょう。いくら高くて、遠くても飛び上がりましょう。内面以外何ものも残らないくらいに、そして内面の天国以外何事も認識しなくなるまでに、私たちは何度も何度も努力しなければなりません。
さて天国とは何でしょう。それは金、銀、ダイヤモンド、あらゆる宝石で輝いている宮殿のことではありません。それは純粋、慈愛、慈悲、心の平和のことです。それが天国です。もし、私たちが内面にこのような天国があれば、どこに行っても天国の中にいる感じがします。ですから、私たちがまだ生きている間に超世界の生活を切望したり、地球上の兄弟姉妹を助ける機会を避ける必要はありません。もし、私たちが内面にこのような天国を得ているなら、たとえ生きていても死んでいてもそれは私たち自身のもので、誰もそれを奪っていくことは出来ません。けれども、もし私たちがその内在の天国を得ていないなら、たとえ天国に行っても天国の外側を取り巻く所でさえ、私たちの暗黒の魂を中に入れてはくれません。私たちはなお恨み、嫉妬し、否定的で悪い思想を抱いているので、私たち自身にとって天国は他の場所と同じで、単なる宇宙の一か所にすぎないのです。なぜなら、私たちがまだ変わっていないからです。
内面に平和を持てば、至る所が天国なる
ですから、私たち自身が変われば周辺の状況も変化してきます。もし、私たちが内面に天国を持ち、平和であれば至る所が天国であり、至る所が平和です。それは良い人間として生きる目的です。良いことをし、良い人間になるように努力しましょう。それは唯一の選択だからです。私たちが永遠に地獄に行きたくなければ。さあ、もしそうなったら知りませんよ。地獄に落ちるのは非常に簡単なことです。何も努力する必要がありません。それは最も簡単な道で最も混んでいる道でもあります。ですから、私は天国に昇って行った方がいいと思います。混んでいませんし、もっと静かで、空間が多くて、広いのです。人々は皆地獄に行きます。それなのにどうして私たちは天国に行かないのですか。大都会と同じように混雑しているのに、どうして私たちはそこに行きたがるのでしょう。もし、私たちが平和、静けさ、安らぎが欲しければ田舎に行けばいいのです。そこには空間があり、広く、土地も安いのです。そして私たちは緑に囲まれ、心身共に良いことです。
同様に、もし私たちが天国への道を選ぶのなら、それは賢明だと思います。でもかなりの努力が必要でしょう。(拍手)今、たくさん努力しなければなりません。けれども、もし皆さんが後からとか、来世になってから努力したいと思うなら、それこそ難しくなりますよ。ゴミや悪い品格、習慣が身についてしまって、ますます浄化しにくくなります。ひょっとすると私たちは、今、既に一千回目の輪廻にあたるのかもしれません。再び戻って来るとすれば一千一回目になってしまいます。その上もう一度この世に来るなら一千二回目になってしまいます。そして、輪廻を繰り返すごとに更に多くのゴミ、多くの悪い習慣を積み重ねてしまいます。そして、それらの悪い習慣を取り除くことがさらに難しくなります。そうでしょう。ですから、いくら難しくても今、このときに努力して下さい。
深く根付いた習慣と執着を取り去る
皆さんは自分たちのことを既にとても清廉で、純粋だと思っているかもしれませんが、私はここで一つ忠告しておきます。皆さん気を付けて下さい。自分たちがベジタリアンで、戒律を守っているから純粋だと思ってはいけません。まだまだです。そんなに簡単なことではありません。今度自分を観察してみてごらんなさい。一瞬一瞬を観察してごらんなさい。一日を使って自己観察してみて下さい。自分自身が異なる状況にいかに反応するかを注意深くチェックしてみて下さい。そうすれば私の言う意味がわかると思います。
ある人たちが私の所に出家させてほしいと相談に来ます。私はその人たちにその必要はないと言います。私はまだ出家するレベルに達していない等と言いたくないし、ただそのような必要がないと言うに止まっているのです。なぜなら、その人たち(男の人の場合)が私と一緒に話をしているとしましょう。その少年が私と話をしていて、女の人が私の部屋、或いは私が居る場所にやって来る声が聞こえると、彼は自分の髪を直しますね。そのことは彼自身も気付いていません。私にはわかっています。私の言う意味がおわかりでしょうか。或いは一人の少女が私と話をしているところに一人か二人の少年がこちらへ来ようとする声だけが聞こえ、その人たちが誰であっても、彼女はすぐに自分の服を直し、髪をなでたりします。(皆笑う)風が吹いたのでそうするのとは違います。私のオフィスには風が吹いていませんから。私たち自身が気付いていないことはまだたくさんあります。とても奥深く根付いた細かい習慣が身に付いていることを私たちは知らないのです。私の言っている意味がおわかりでしょうか。また、それ以外にたくさん、例えば、愛、慈悲、そして苦しんでいる人々に対する敏感さを持っ
ていないのです。例えば、ときどき私はここのいわゆる出家者たちと映画を見ます。映画の内容には色々なものがあります。戦争に関するものもありますし、霊的なものもあります。ある時はこの世界における戦争、死、苦しみ等といったものに深く考えさせられます。それらのような映画を見て、私は泣き、時には非常なショックと深い感動を覚えます。けれども、一部の出家者は単に笑っただけです。彼らの修行レベルは私より高くて感情的にならないのかもしれません。私は阿修羅の感情があるのか、或いは何か他の感情があるのかもしれません(皆笑う)。
私はそれが映画に過ぎないのを知っています。でも、私には映画に思えません。私はその映画の背後で彼らが伝えようとしているこの世界の苦しみが見えます。私の言っている意味がおわかりでしょうか。私はその映画に映し出された死んだ人のために涙を流すのではありません。それは映画だとわかっていますから。その俳優が死んだり、手足を失ったりしたのを見て泣くのでもありません。私はこの世界の苦しみを彼らが映像の中で演じ、それが本当に真にそうであるということに感動しているのです。
ある一部の出家者が映画の中の別のシーンを見て笑っているのを見ましたが、私は笑えないのです。私は笑いじょうごです。皆さんも知っているでしょう。私は笑えない訳ではありませんが、このような情況の場合、私は笑えなくなってしまうのです。そのとき、私はその出家者を非常に無神経に感じます。非常に無神経です。
ですから、これが細かい習慣、細かい執着なのです。それは私たちが何世代にもわたって積み重ねてきたもので、私たち自身も認識していないことです。
自分に正直になる
ですから、皆さんはその受け継ぎたくない、深く根付いている習慣をしっかりチェックして下さい。それらの悪い習慣を持ったままでいいと感じるならそれでもいいですよ。それらは皆さんのゴミで私の物ではありません。私が言いたいのはもし私たちが自分たちの内面に対してとても正直で自己変革をし、また、自分たちの純粋さと幸福のためにも他の人の苦しみと喜びを感じる敏感さを養いたいのなら、私たちはいつも警戒しなければなりません。いつもいつも注意を払って下さい。一日、二日、三日と一生いうように終わってしまい、わがままで悪い習慣の中にいて、高い次元への意識段階に到達できず、精神的な生活というものの深い意味を理解することも出来ません。わかりますか。というわけで私たちは他の人のこと、上帝(最高の神)のこと、そして法門のこと、明師のことや何事に対しても非難しています。それは何にもならないことです。言っておきますが、それは正しくないことです。正しくないのです。
皆さんがもしそうしたいのなら私を非難することも、法門を非難することも出来ます。けれども、それは少しも皆さんに役に立つことはありませんし、皆さんの進歩を促すこともありません。自分に正直なのは最も良いことです。そして常に自分の中に深く根付いている習慣に注意し、また、それが与えた不快感について注意を払わなければなりません。いくつかの例を皆さんにお話しました。まだたくさんありますが、今は思い出せません。もちろん私は皆さんに全部のゴミを渡すつもりはありません。皆さんは既に十分な知性と知恵を持っていると信じているからこそ、これらの例をあげて指摘したのです。私が言わなかった習慣や深く根付いたカルマを自分自身で見つけるのに十分だと思います。この次は自分自身でそれらが見え、或いは感じとり、或いはそれらを観察してわかることでしょう。そして、皆さんが気付かないうちに成長し、或いは静かに皆さんの生活の中に入り込んだとき、皆さんは認識出来るでしょう。まだたくさんのことがありますが、思い出せないので全てを伝えることは出来ません。でも、小さなことなら皆さんもたくさん知っているでしょう。
はい。今日から皆さんは九時頃寝てもいいですよ。テントの中で座禅を続けても構いません。朝三時頃起きて七時ぐらいまで座禅すること。昼間は休んだり、仕事を手伝ったり、或いは清掃などをして下さい。仕事をしている時も注意力を集中して下さい。雑談や関係ない話をしないこと。もちろん、誰一人叱ったりしません。でも、ここに来た以上このゆったりとした時間と環境と雰囲気から自分の修養を得るべきです。おわかりですか。
歩き、寝、話し、座り、横になる時、あらゆる時に知恵眼の中心に集中するように努めて下さい。そうすれば、皆さんの修行が早く進歩することができます。そのとき、皆さん自身も感じることができるでしょう。そして、進歩すればするほど励みになり、更に修行に精進します。この法門と出会っているにもかかわらずそれを使っていないのは惜しいことです。
ここは皆さんの座禅修行のためにとても伝導力の良い所で、あまり邪魔するような人はいません。そうではないですか。ですから、ここから得てみて下さい。ここにいる間に得て下さい。私の言いたいことはこれだけです。おやすみなさい。(拍手)ありがとう。
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