皆さん闘鶏を御存知でしょう? 中国にある皇帝がいました。闘鶏が好きでした。つまり二羽の鶏を戦わせるのですね。皆がそれに賭けるのです。現在でもまだ行われています。
ある皇帝は闘鶏が好きで、最も優秀な訓練士を召し抱えて鶏を与え、最も素晴らしい競技をするように、世話を命じました。その鶏が次の競技で英雄即ちチャンピオンになるように訓練するようにです。
そこで訓練士は鶏の飼育を始めました。それから一ヵ月たち、皇帝は尋ねました。「準備は出来たか。鶏はもう大丈夫か」「いえいえまだです」「なぜだ」「鶏は当分駄目です」「鶏に何かあったのか」「そうですね。他の鶏を見ると、遠くにいる鶏にさえ、凄みをきかせようとして興奮し始めます。翼は広げるわ。そのうは膨らませるわ。そんな調子です。恐ろしいし、鼻持ちなりませんよ」
そこで皇帝は告げました。「よろしい。引き続き飼育して訓練しなさい」また数か月がたち、皇帝は尋ねました。「もう準備は出来たかね」
「いえいえ駄目です。良くはなっていますが、まだ周りの鶏を見るたびに、とても興奮します。ですからまだ駄目です」さらに飼育を続け、何か月もたってしまいました。皇帝はうんざりして、この役に立たない鶏のことをすっかり忘れてしまいました。するとある日、鶏の訓練士がやって来て、皇帝に報告しました。「いよいよ準備が整いました」
そこで皇帝は言いました。「なぜだ。なぜだ。どうして準備が出来たことが分かるのか」
訓練士は答えました。「他の鶏は皆遠くから見ただけでも、何もしなくても怖がります。お分かりでしょうか。遠くからでも他の鶏はすでに恐ろしさを感じはじめます。そして彼は何もしません。ただ歩き回り、そして他の鶏は逃げ出すのです。ですからそれが準備が出来たということなのです」もはや闘鶏用の鶏のようには見えません。一羽の鶏に過ぎませんが、周りは恐れます。今や本当の力を得たのです。
ですから、全パワーが完全なものになったとき、それを外に出さないのです。決して外に表さないのです。人がそれを知ることさえ出来ません。それがなぜ多くの経典の中で「完全な悟りを開いたとき、まさに平常心を得る。平常心こそ道である」と言っている理由なのです。経典ではそのように言っています。
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