マスターの開示
栄光の神への道
Supreme Master Ching Hai フォルモサ西湖道場において 1996年3月3日(原語は中国語)

王朝の宣皇帝には梁鴦という調教師がいました。彼は野獣を飼い馴らすのがとても上手でした。凶暴なトラやライオン、狼など大きな動物や、もっぱら魚を捕るペリカン、猛獣、蛇なども彼の前ではおとなしくなります。梁鴦が餌を与える時は、どの動物もおとなしくなり、彼に危害を加えることもなく、また危害を加えようとも思わないのです。動物は非常に梁鴦に協力的で、穏やかに付き合っていました。動物たちは皆穏やかで、自分たちの主人をとても愛していました。彼らはすぐに繁殖し、時期が来るとすぐに繁殖して、益々数が増えました。

梁鴦には動物を管理する非常に優れた秘訣がありました。おとなしい動物と凶暴な動物が一緒に住んでいても互いに噛み合ったり、傷つけるようなことはありません。周の宣王はとても彼が気に入っていました。そして彼が死ぬと調教の秘法がなくなることを恐れて、毛丘園という人に、彼について動物を管理する秘訣を習うように言いました。この人は高官でしかも王が派遣した人です。彼は梁鴦に動物の管理方法を尋ねると、梁鴦はひれ伏して「私のこの仕事はとても卑しいものです。あなた様が心配なさるに値することではありません」と言いました。毛丘園は自分は国王から派遣されて習いに来たのだと話すと梁鴦は詳しく彼に説明しました。

調教の秘訣

梁鴦は言いました。「私が調教の秘訣を隠していると国王が思われると困りますのであなた様に話すのですが、実は私の仕事はとても卑しくありふれたもので、特にお話する程のものではありません。ただトラや他のどんな動物を飼うときも、動物の気持ちに従えば動物は喜ぶし、動物の気持ちに逆らえば怒るということを知らなければなりません。動物も全ての衆生と同じように血気もあれば短気もあります。その動物に従えばいいのですが逆らうと怒ります。怒るのは必ず訳があるはずで、私たちは動物がどうして怒るのか、どうして喜ぶのかを探さなければなりません。動物に合わせることができたら私たちに逆らわないで協力してくれます。もし動物がいきなり怒ったり暴れたら、それは私たちが何か彼らの個性や習慣や彼らの身の安全を犯したからなのです。例えば私は今一匹のトラを飼っていますが、あえてトラに生きた動物を餌として食べさせません。生きた動物を餌として与えると、それを追いかけて捕まえ、引きちぎって食べるでしょう。そうなると凶暴な本性が再び現れてきます。ですから私は生きた動物を餌として与えません。たとえ死んでいる動物でも、まるごと与えることを避けます 。さもないと彼は必ず自分の手の爪や牙でその動物を裂いて食べるでしょう。こうなるとまた彼の動物的本能や悪い性質を呼び覚ますことになります。ですから私はあえてそのようなものを与えません。」梁鴦は動物の死体を小さく切り刻んでチョコレートのようにして与えます。 

私たち人間も同じです。本当に菜食ができない場合、家で鶏肉を何切れかに切り分けて食べます。でも、やはり食べないほうがいいです。外で買い物をする時によく見ますが、お肉を何切れかに切って売ったり、時には苦くて辛い調味料をかけて、まるでビスケットに見えるようにきれいに色づけして売ったりしています。だから大多数の人はそれを食べても罪悪感を感じません。食べる時も気持ちが悪くならないのです。しかし、もし自分で動物を殺すのなら、動物が羽をばたつかせ、鳴き声をあげて苦しんでいるのを見たら、それを食べる時非常に嫌な気分になるでしょう。なぜなら私たち人間の意識は動物より高く、善悪を判断することができるからです。生きるために必死になって他の生き物と戦う必要はありません。動物と大きな違いがあります。私たちは考えることができ、より聡明です。いろいろな方法で私たちの生活を素敵に、素晴らしく、快適なものにすることができます。しかし動物は置かれた状況に迫られ、野生動物の縄張りの中で食べるか食べられるかの危機にさらされ、食べなければ飢えるという状況なのです。人間のように勤めたり、仕事を探したり、食事に豆腐を選ぶというよう なことはできません。

本当は神は私たちを菜食するように創造されたのです。肉食の動物を見てください。皆鋭い牙があり、腸は食べた肉を排泄するために非常に短いのです。私たち人間の腸は非常に長いのです。菜食すれば肉類の毒素が腸にたまって、腸を汚染し悪臭を放つことはありません。菜食の時と肉食の時の胃腸の様子は違います。これで私たちは元々菜食するようにできていることが分かります。草食の動物の胃腸はみな比較的長く、歯は平です。肉食の動物には神はすでに鋭い牙を与えています。これは論理的に考えてみても十分分かる事で、私が言ったから信じるというような事ではありません。

動物の意志に従うこと

一部の動物園では生きた動物を餌として与えています。だから動物たちはいつまでたってもおとなしくなりません。彼らの凶暴な習慣が増すばかりです。動物園では生きた鶏やアヒルを投げてやりますが、私はこれには賛成できません。人道的立場からではなく、こうすることによって動物はますます凶暴になり、時には人間にまで危害を加えるからです。私たちはよく動物園の動物が子供に噛みついたとか、子供が中に落ちて動物に食べられたという話を耳にします。時には大人も被害に遭います。観光客がうっかりして近付くと襲ってきて手や足などを噛みちぎられたり、怪我をすることがあります。時には飼育係を襲うこともあります。これらはみな餌の与え方が間違っているからです。みんな中国に来て餌の与え方を学んでから国へ帰って動物を管理するべきです。彼らに教えてあげましょうか。皆さんは誰か動物を飼っている人を見かけたらこの方法を教えてあげてください。そうすると飼い主の生命を守ることもできるし、動物の良い性質を守り、公共の安全を計ることもできるでしょう。なかなかいいことですね。このような古代の経典はとても役に立ちます。

梁鴦はどのようにトラに餌を与えたのでしょう。トラは一番凶暴な動物です。彼は次のように言いました。「食事の時間になったら餌を与えます。それからトラの習慣を観察します。そうするとトラがお腹がすかせている時と満腹の時の様子を知ることができ、トラの習性に従って丁度いい時に多すぎず、少な過ぎず適量の餌を与えることができます。こうするとトラは人間とは異なる種の動物ですが、主人を愛するようになります。なぜなら飼い主が意志に従ってくれ、必要とする時を分かってくれているからです。もしトラが人に噛みついたり飼い主を襲ったとしたらそれは飼い主がトラの気持ちを理解しないので、それに反する行為なのです。ですから私はトラの意志に反することやトラを怒らせるようなことはしません。しかし私はトラの凶暴な本能に従って、生きた動物を与えトラの動物的本能を刺激して異常に喜んだり興奮させたりするようなことはしません。なぜなら喜びすぎると、必ず興奮しすぎるからです。また楽しいことがなくなるとまた同じような楽しい事を探そうとするからです。それが見つからないといらいらしていらだち、腹を立てます。腹を立てるとなおさら楽しくなれないので す。極端に喜んだり腹を立てたりするとバランスが崩れ、きっと人を襲います。ですから私は決してトラの本能を刺激するようなことはしません」

動物も本性は善なるもの

梁鴦は中道をとっています。私たち修行をする人と同じです。実際、ほとんどの動物は怒りません。多くの新聞に記事が載っています。ワニが子供を救ったこともあります。子供を口にくわえて岸まで行って子供の父親に渡しました。ワニも時には人を救います。私が新聞で見た記事ですが、熊が子猫やお腹をすかしている他の動物に餌を与えていたそうです。また最近ある牧師たちが、十何才にまで大きくなった子供たちを見つけたそうです。彼らは狼が育てた子供たちで、小さい時に行方不明になったのですが、狼が大きく育てたのです。その子供たちは狼と同じように四つん這いになって走り回りますが、狼ほど早くはなく、体には毛が生えていたそうです。狼は決して子供を襲ったりしません。子供たちは狼の後ろについて一緒に走り回るそうです。

そのほかにもワニに十何年も育てられた子供がいます。後に人間社会に連れてきましたが、彼らはやはりジャングルを懐かしがっていたとのことです。そこは割合自由で、ワニと十何年も過ごしたのでそこに慣れてしまったのです。ワニを自分の親だと思っていて、人間世界に戻ると違和感を感じ、欲求不満になり楽しくないのです。人間の言葉を習ったり服を着たり、人間の動作をしたり、両足で歩き人間の食事のマナーを学んでも、やはり四つん這いが好きで、裸になって自由に走り回るのが好きなのです。ある子は後に逃げたそうで、またある子は何年か後に憂鬱になって死んだそうです。彼らはそれ以上は生きられませんでした。このことがもし本当であるなら(新聞には証拠として写真が載せてありました)、新聞が販売部数を伸ばすためにでっちあげたのでないなら、それは動物の本性は善であるということを物語っています。

実際、万物はもともと善なるもので、ただ私たちが彼らを怒らせた時に彼らは恐怖を感じ、私たちを襲うのです。皆さんも聞いたことがあると思いますが、蛇にあった時は、動かないでじっとしていたほうが噛まれないですみます。走ったらかえって噛まれます。なぜなら蛇は脅かすと襲ってくるからです。分かりますか。(皆「わかります」)凶暴な動物でも満腹の時は人を襲いません。ほとんどの動物は人間を恐れています。人間が彼らを恐れているのではありません。彼らは追いつめられたときに人を襲うのです。これは研究報告によるもので私が言っているわけではありません。 私はこのことについて研究したことがありませんのでよく分かりませんが。皆さんが動物に出会ったら近付かないほうがいいですよ。彼らはみな本性はおとなしい、とマスターが言ったから大丈夫なんて言わないでくださいね。(皆笑う)彼らの本性が優しくても、皆さんは知恵がなければなりません。見たらすぐに逃げることです。試してみたり五句を念じたりその動物を解脱させようなんてことを思わないで下さいね。お願いです。(皆笑う)人間さえも解脱できないのに動物に解脱させるなんて夢をみないほうがいいと思います。梁鴦はバランスを取ることや自然の調和についてよく知っています。だから動物を調教することができるのです。梁鴦はまた次のように言いました。「私には動物が内面において必要とするものや欲望を押さえようとする意図がありませんから、動物を刺激しませんし、私も興奮するようなことはありません。いつも優しく触れたりして動物を喜ばせ、楽しい気持ちにしてあげます。ですからすべての動物は私を友達だと思い、仲間だと思っています。私がしていることはみな動物が気に入っていることですので、檻の中を行ったり来たりしてとても楽そうにしています。山や丘を恋しがったりしません。中庭の前方に寝て洞窟やジャングルのことを思うことはありません。これは非常に自然にかなった道理です」

生活は中道が良い

私たちにも動物的な部分があります。血気があるので腹を立てます。いつまでも自分の頭脳に従おうとすると、私たちは自分の癖を直すことはできません。平穏で楽しく暮らすこともできません。私たちは十分であることを、満足を知り、ストップをかけることを知らなければなりません。頭脳に服従するだけではいけません。座禅をしているときに頭脳は私たちにコーヒーを飲むように命じ、コーヒーを飲み終え、座禅していいかと聞くと「いいえ、これからガールフレンドに会いに行く」と言います。こうして私たちにはストップがかかりません。この頭はとにかく遊びたがるのです。猿と同じです。だから私たちの心は猿のようで、意識は馬のようだと言っています。私たちは頭脳や習慣をコントロールしすぎる必要はありませんが、それにあまり従いすぎるのもよくありません。これが中道なのです。皆さんに言っておきますが、あまり自分を責める必要もなければ度を越した苦行も必要ありません。なぜなら苦行が度を越すと私たちの頭脳は耐えることができないからです。動物と同じで、好物を与えなかったりお腹がすいているとき餌を与えないと、腹を立て反抗し、あなたが油断した隙に引っ掻い たり噛みついたりします。これはよくあることです。

私たちは自分の体の面倒をよく見なければなりません。お腹がすいたら食べて、疲れたら寝ることです。ついでに座禅することも忘れないことです。(皆笑う)何がおかしいのですか。私は本当のことを言っているだけです。皆さんは毎日社長さんのためにきちんと八時間も使っています。これには二〜三時間の通勤時間は含まれていません。これをいれると少なくとも十時間はあります。お化粧して身なりを整えてシャワーを浴びてその後出勤します。これでまた一時間、合わせると十一〜十二時間、それに食事の時間ををいれると十三時間もあります。そして八時間の睡眠時間をいれると、神に捧げる時間は果たしたどのくらいでしょう。これではついでに座禅するという以外に何と言えますか。これでも毎日二時間半の座禅は多すぎる、耐えられませんと言うのです。それで何代も何代もここで輪廻を繰り返してはまた生まれてくるのです。毎日十時間もわずかな月給のために懸命に働いているのです。何千元かのために自分を売るのです。でも死ぬ時はそれを持って行くことはできません。いつかはこの世を離れ、すべてを置いて、髪の毛一本さえも置いて行かなければならないということを知っていな がら、ずっと懸命に働き続けているのです。将来の福報や五代超生六、七、八代の先祖の超生のために少しばかり座禅しては文句ばかり言うのです。これはついでというほかの何ものでもありません。一日は二十四時間しかありません。その中で皆さんは二十時間も占有しています。残りの四時間はテレビを見て、電話をかけ、新聞を読み、友人に会い、コーヒーを飲んで、奥さんにつきあってショッピングする等。そのほかにも誕生日、命日、祝日、結婚記念日、苦しい日々等。それ以外にあとどのくらい時間が残っていますか。ざっと計算してみると一時間もありません。ついでに居眠りまでします。(マスターと皆笑う)一度に二時間半、神に捧げなくても構いません。神はよく分かっていますから。大丈夫。

座禅に精進すること

私たちはできる限り座禅しなければなりません。強制する訳ではありませんが、皆さんに勧めます。座禅すればするほど頭がはっきりします。冷静になった時こそ自分の身の回りの大小の事柄を処理することができます。皆さんに座禅を勧めると私が有利になるからではありません。皆さんの雰囲気が良ければ、当然国にも世界にも良いことです。みんなが殺意に満ちているほうがいいと思いますか。自分をきれいにし、戒律をしっかり守ると心が穏やかになります。人間は心が穏やかですと自然に平和な雰囲気が漂うものです。そうなると誰も恐くありません。緊張したり何かを隠したりすることもありません。心が非常にリラックスしています。見ているととても気持ちがいいものです。もちろんこのような雰囲気は周りに影響を与えます。たくさんの人が良い雰囲気を持っていると、世界全体が平和になるでしょう。天国だとか地獄とか因果応報とか仏菩薩などと大きなことを言わなくてもいいのです。私たちの雰囲気だけでとても大きな影響力があります。

凶暴な人は一目見ただけで恐くなります。なんとなく恐いのです。彼はまだあなたを殺そうと考えてもいないのに、あなたは恐れるのです。しかし一人のお坊さんに会った時は、その人をとても善良で信頼と安心のできる人だと感じます。どんな秘密も話せます。ある祈祷師は何か危害を加える訳ではないのに、見るからに彼が祈祷師だと分かり、恐がります。なぜなら彼の念力は非常に強いので、私たちにそれが伝わってくるからです。その人たちはどんな凶悪なこともしでかします。私たちはたまたま警察官に出会うと、他の人に会った時と違って自然に車のスピードを落としたり(皆笑う)緊張したりします。

人は皆それぞれ異なった威風と雰囲気を漂わせています。本人の果たすべき使命によって決まります。みんなは私のことを恐いと言っています。こんなに善良で美しい人なのに(マスターと皆笑う)それでも恐がるのです。恐いのではなく尊重しているのです。ある人たちは私を見るだけで震えるのです。私は何もしていません。こんなにいい人なんですから。たぶん私の磁場がわりと強烈だからかも知れません。私にはよく分かりませんが、皆さんはよく分かっていて感じているのです。何か間違ったことをし、戒律をしっかり守らない人や座禅の時間が足りない人は私を恐がるのです。よく修行している人は私を見るととても喜びます。恐がりません。違いますか。(皆「そうです」)皆さんが私のことを恐がると他人に自分の内面をさらけ出すことになります。ですからよく自分の内面の道徳を育てて下さい。そうすれば私に会うと友達に会ったような感じになります。何も恐くありません。私は今まで誰かを恐れたことはありません。どうして恐れるのでしょう。私はたくさんの要人に会っています。私は彼らを恐れませんが、彼らが私を恐れています。(皆笑う、拍手)何も悪いことをしていないのな ら、どうして恐がるのでしょうか。私たちの良心がとても潔白で、誰にでも見せられるなら、誰も恐れることはありません。死ぬのも恐くありません。なぜなら私たちは自分をよく分かっているからです。

自分自身が分からないことを恐れるべきであって、人が私たちの善し悪しを分かってくれないことを恐れるべきではありません。自分自身を知ることが良いことです。しかし最も良いことは自分さえもそれを知らないことです。花は自分はきれいとは言いません。太陽は自分は生命を育んでいるとはいいません。この程度まで修行すれば我執がなくなります。誰かを恐れることがないのです。私たちが良いから人を恐れないのではなく、自分自身が良いか悪いかも分からず、そのようなことには構わなくなったからです。疲れたら寝て、お腹がすいたら食べます。私たちが修行する時も同じです。自分の体と頭をあまりいじめないほうがいいです。神は私たちをいじめるために造り出したのではありません。私たちは皆神の子なのです。よく心得て下さい。もしそうでないと思うのなら、それはあなた自身のことです。私は自分が神の子であることを知っています。(皆笑う)もし皆さんが他のどこかで造りだされたのなら、それは私には分かりません。ただ皆さんの不明な素性に疑いを持つだけです。もし神が私たちを造り出したのでないとしたら、誰が私たちを生みだしたのでしょう。誰が私たちを生み出す ことができたのでしょう。聞いてみてください。神の他に、誰が万物を造り出したのでしょうか。皆さんは神が二人いると思いますか。一人のお母さんが二人の夫に嫁ぐことができますか。そんなことは不可能です。ですから私たちは神から来たのです。万物もすべて神から来ました。樹木も動物もみなそうです。論じる余地はありません。ここで詭弁を用いてはいけません。神即ち万物創造主のほかに、誰が私たちをつくることができたでしょうか。ですから私たちは宝物なのです。

私たちは神の子であるからこそ、動物を含めた私たちの兄弟を虐待するようなことをしてはいけません。彼らは魂がまだ若くて弱い、私たちの幼い弟や妹たちなのです。彼らはまだ人間のレベルまで発展していません。私たちが菜食するのは愛の心によるもので、動物たちが苦しんでいるのを見るに耐えません。たとえ自分で殺さなくても彼らの苦しみを想像することができます。正しい概念を持たなければなりません。菜食すれば成就するということではありません。もし菜食すれば成就するのなら、牛や鼠、兎はとっくに仏になっているはずです。なにゆえ輪廻するのでしょう。神に許しを得るために菜食するようではいけません。また神に気にいってもらうために自分の体を虐待してはなおさらいけません。皆さんにはっきり言っておきますが神はそのような人を気にいってはくれません。私が聞いてみたところそれはいけないと言っていました。(皆拍手)

苦行は理にかなわない

多くの人は常識外れの修行をしています。全身に穴をあけたり、体に釘を打ったり、釘のベッドに寝たりします。時には自分を木に逆さまに吊るして足は上に、頭は下にします。また時には吐き気がする排泄物を食べて自分を虐待しています。自分がどれだけ神を愛しているかを神に分かってもらうためです。神はそんなものを食べるはずがありません。もし私が神だったらそのような排泄物を口にする人に近付くでしょうか。もし皆さんが神だったら喜びますか。もし神が高貴なら、神は同じく高貴な子供が欲しいでしょう。彼の子供は高貴で少なくとも皆さんと同じようでなければなりません。私たちは自分が素晴らしい手本となって神に栄光を与えなければなりません。自分の純粋できれいな身、口、意で内面と外面を共に神に捧げてこそ、神の子になるに値するのです。神の子がどうして動物のように糞を食べたり、自分を逆さまに吊るしたり、自分を殺し、自分を傷つけ、自分の肉を切り取るようなことをするのですか。神はあなたにこのようにして欲しいと言いましたか。もし神がそう言ったのなら私は断ります。新聞広告を出して「私はあなたなんかいりません」と表明します。(マスターと皆笑 う)

神は本当にこんなにナンセンスなのでしょうか。このようなナンセンスな神はいるのでしょうか。(皆「いません」)私たち人間でもこれほどナンセンスではないと思います。親は私たちが傷つけられたり苦しむのを見てはいられません。まして神はなおさらのことです。神は決してナンセンスではありません。修行法が間違っていれば、何百何千万年かけて自分をいじめても役には立ちません。なぜなら考え方が間違っているからです。自分がどうしてこのような修行をするのかも分かっていません。神は愛であることが分かっていないのです。神は私たちが輝くことを望んでいます。私たちは神の子です。神は私たちを助けることに余念がないのに、どうして私たちを虐待したり、傷つけたり、私たちが傷ついて苦しみ、血を流すようなことをするのでしょうか。修行の概念が間違っていれば、どんなに修行しても魔王にしかなれません。なぜならその概念は幻想の一つにすぎないので、幻想の魔王になるだけで決して最高の地位を獲得し、神の側に座ったり、仏になるようなことはありません。概念が魔であればそれは魔です。魔は大きい声でわめいたり長い牙が生えているのではありません。否定的な概 念が魔なのです。

今は私は真実を見抜いています。以前はそうではありませんでした。そのような修行者を見て偉いと思いました。私はとても釘のベッドに寝られないし、少し軟らかいベッドのほうが快適だと思います。(皆笑う)冬は暖かくしないと寝られません。そうしないと、どうやって仕事をすればいいのでしょう。釘のベッドに寝るのも構いません。訓練すればできることです。人間は非常に大きな潜在能力を持っています。どのようにでも訓練できます。だから鋼鉄線の上を歩いたり、木に一日中逆さまに吊るされても何ともありません。真夏の炎天下、カンジス川のほとりで周りに十数個の火鉢を置いたりさえします。神を供養するために何でもします。私たちは動物のように生きても構いませんが、それは後戻りです。神は私たちにますます進歩するよう求めています。そのような汚いものは動物しか食べません。

神はたくさんの食べ物を造って私たちに提供してくれています。聖書に「私は汝の食べ物のために糞や尿を創造した」と言っていますか。(皆「いいえ」)神は「私は汝らの目を楽しませ体を養うために多くの植物や果物を創造した。これは汝らの食物である」と言いました。神はこれが皆さんの食べ物であるとはっきり言っていませんか。(皆「はい、そうです」)旧約聖書の一ページです。旧約聖書には人間は肉を食べてもいいとは述べていません。クリスチャンの人ははっきり分かっているはずです。神は決して「私はあなたたちに食べさせるために動物を造った」とは述べていません。神は「私は樹木や果物、野菜などを造った。それがあなたたちの食べ物である」と、また「私はすべての動物にそれぞれ異なる食べ物を造った」とあります。人間の食べ物はその樹木や花、草、野菜なのです。神はまた「われわれは動物の世話をし、彼らの魂が成長するよう教え、指導するべきである」と言っています。動物を殺して食べてもいいとは言っていません。動物は私たちのメニューにはありません。(皆笑う)

理にかなった修行をする

マスターが皆さんに教えているものは理に合うだけでなく、東洋や西洋のどの経典にも合致するものです。私たちはしっかりと観察して盲信しないようにするべきです。そうしたときにどうしてあのマスターについていくのかと聞かれたら答えられるのです。私についてくるのは何も私が仏だからではありません。私を仏陀と言ったのは皆さんですよ。梵語では老人、年寄りを意味しています。私はまだこんなに若くて美しいのです。年寄りだなんて失礼ですよ。(マスターと皆笑う)光栄なことではありません。私はそのような名誉は欲しくありません。

私がこういう人物だから私の言うことを信じるのではなく、誰でも理にかなっているなら、その人の話を信じなければなりません。私が言ったから信じるのはいけません。理にかなっていて反論できないから信じるのです。もしこれができないならあまりにも無分別です。その道しかない、もう反論できなくなったから信じるのです。論理的なことは誰が言っても同じです。私たちは相手が大物だから、導師だから、みんなが崇拝している人だから、大統領だからその人の話を信じるなんてことは絶対にありません。

私たちの体は非常に得がたいもので、私たちの魂は稀少なものです。私たちは神の子なのです。安く人に売ったりしてはいけません。分かりますか。(皆「分かりました」)人のゴミを自分の物にするのではありません。私たちの頭脳はゴミ置き場ではありません。何でも収拾してはいけません。いい物だけ取ってよくない物は取りません。私の話がもし道理に合わないとしたら皆さんには信じない権利があります。私に言ってもいいですよ。しかし私は自分が何か間違っていることを言ったような覚えはありません。私はとても謙虚です。真実を言っています。OK(皆笑う、拍手)

栄光の神への道