マスターの開示
マスターと共にいるときは貴重です
Supreme Master Ching Hai 英語の講演 コスタリカ・サンホセ 1991年2月4日

ぶん、マスターも含めて誰一人として、私たちを責める権利はないのかもしれません。おそらくただ単に、私たちが学ぶために再び戻ってこなければならないというだけのことであり、私たちが厳しい方法や、苦しみを通して学ばなければならないというだけのことなのかもしれません。あるいは、私たちが何回かの生まれ変わりを通して、別のマスターに再び会うために、ほんの少しだけ待たなければならないというだけのことなのかもしれません。というのは、私たちは容易に手に入る、貴重な機会を拒否してしまったからです。それはそんなに都合よく手に入ることではないからです。

私たちは、ただほんの少しの世俗的なことのために、毎日八時間か十時間働いています。それらは一時的なもので、永久に続くものではありません。私たちはそれに対して不平を言いません。私たちはほんの少しのお金、つまり食べたり、身を装ったり、雨露をしのぐのに必要なだけのお金しか得られません。けれども私たちが完璧な人間に、また神のようになろうとするなら、一日に二時間半だけ働けばいいわけですが、それでも、私たちはそうしたいとも思いません。あまりにも長すぎるというのです。それはいったいどういう理屈なのでしょうか?

もし、みなさんがサンホセからここまでやって来るとしたら、三十分か一時間かかるかもしれません。いわゆるマスターと呼んでいる人に会うためにです。みなさんが私のことをマスターと呼ぶのであるならばですが。そして言うのです。「遠すぎる!」と。どうして私をフォルモサからここまで招待したのですか?何千マイルも遠いところから、何千ドルも使って!それはすべて私のポケットから捻出されています。努力も、そして時間もです。それでも私は決して不平を言いません。それなのに、みなさんは私に会いに来て、こう言うのです。「ああ、長すぎる。遠すぎる。大変だった。疲れすぎてしまった。車がないなんて。バスといえば、とてもひどいものだったし」と。

政府は、バス購入のために、バスの維持のために、また美しい道路を作るためにお金を支払わなければなりません。けれどもみなさんは、バス停まで行って乗りさえしないで、政府がみなさんの面倒をちゃんと見ていないというような不平を言います。五分か十分、バス停からここまで歩かなければならないだけのために、そのサービスを利用したくないと思っているのです。

私も歩かなければならないのです。飛行機から税関まで、非常に長くて十分や二十分もかかることもありますが、なんの問題もありません。そして、飛行機までまた歩きます。私はどこでも歩きます。空港のゲートから飛行機まで、あるいはその逆にも歩きます。手荷物受取所に行って荷物を受け取ったり、預けたり、あちこち歩きます。チェックイン、チェックアウトもしますし、チケットカウンターまで歩いて行くこともあります。それから大使のオフィスに歩いて行くこともあります。私はいたる所でお願いをして、そうしてここに来ることができたのです。

みなさんは今まで、これらすべてのことを考えてくれたことがありますか?私はそうは思いません。そうでなければ、バスが遠すぎるとか、道のりが長すぎるとか、寒すぎるとか、そんなことを私に言ったりしないと思うからです。あるいは、お金がないので座禅用の座布団が買えないなどと言ったりしないと思うからです。私に冗談を言っているのでしょう?もし、コーヒーやお茶を飲んだりするお金があるなら、座禅用の座布団は買えるはずです。どうかいろいろな言いわけをしないでください。私は、もううんざりです。みなさんの理解力の少なさにうんざりしているのです。

みなさんは自分のことを、医者だとか、教授であるとか、教師であるとか、マスターであるとか、なにかの秘書であるとか、政府のなんとかという省の高官であるとか、離婚調停の相談を受ける弁護士であるとか、あらゆる種類の肩書きを自分につけています。それなのに、自分の良い友人に対し、その友に値するような方法でもてなすということさえできないのです。そして、神があらゆる恩恵を降らせてくれることを期待しているのです。みなさんが望んでいるすべての物をです。神は即座に与えているに違いありません。昨日にも与えているのです。もっと素晴しいことは、生まれるときにすべてのあらゆる恩恵を一緒に与えているのです。

みなさんは、どんなマスターからでも学ぶ必要がないと言うのですか?そうですか?それとも違いますか?十分な智慧がありますか?完璧な人間でしょうか?すでに完璧に生まれているのでしょうか?どのように人間になっていくのかわかっているのでしょうか?みなさんはまだ、聖人になるどころか、人間になる方法さえ知らないのです。どのようにして良い友人になるかということさえまだ知らないのです。それなのに、他の人に教えようと思っています。社会において良いマナーを身につける方法を自分自身に教える、十分な理論さえ持っていないのです。それなのに、あえて誰かに教えようと思っているのです。こんな調子で、どうして人々に奉仕することができるでしょうか?みなさんは、どのような知性をこの理論とともに展開できるのでしょうか?

みなさんは私のことをマスターとして十分でないと思っているかもしれません。その考えを受け入れましょう。私は今まで、マスターとして十分資格があると言ったことはありません。おそらく、私は十分ではないのでしょうから。

真実の愛は、沈黙の中で伝えられる  

すべては、人々がとても多くの知性を持ち合わせているにもかかわらず、ほんの少しの愛しか持ち合わせていないということからきています。たくさんの智慧と知性で、どのようにして取るか、どのようにして自分自身を守るか、どのようにして得るか、どのようにして侵略するか、どのようにして盗むかということはよくわかっているのですが、どのようにして与えるかということがよくわかっていないのです。知性というものは、正しい方法で私たちを助けてくれたりはしません。そこで、私たちはどのようにして愛するかということを学ぶために、愛のある人のもとへやって来なければならないのです。というのは、愛というものは学校では教えられないからです。それは、本から読みとれるものではありません。それはただ、沈黙の中でのみ伝えられるものなのです。お手本を通して、バイブレーションを通して、あるいは愛を有している人のエネルギーを通して伝えられるものなのです。

もし私たちが十分な知性を持ち、私たちはすべてのことを知っていて、自分の人生の世話をきちんと見ることができるから、何も学ぶ必要がないと考えたら、私たちは間違いを犯してしまうのです。そうです、間違いです。というのは、私たちの人生の生き方を注意深く調べてみれば、私たちにはたくさんのものが欠けているということがわかるからです。愛がたくさん欠けているのです。

もし、私たちがただ単に、自分が食べ、家族が装い、私たちが心地良く暮せるすべてのものをまかなうのに必要なお金を稼ぐだけで、社会に対してなにも奉仕をしないのなら、また自分自身の内面の清らかさについて注意深く調べてみないのなら、私たちはまだ完璧だとは言い切れません。完全ではありません。私たちには多くの、いわゆる慈悲というものが欠けています。智慧が欠けているのです。というのは、動物の生活を見ればわかるように、彼らとまったく同じではないでしょうか? 彼らは自分自身の面倒を見たり、家族や身近なものの面倒を見て、それで幸せです。ですから、彼らは動物と呼ばれているのです。

けれども、私たちは人間です。私たちは、ほんの少し違っていなければなりません。そう思いませんか? もし私たちの動機が良いものでないならば、人間は仕事に行くのに車を持っていて、動物たちは自分の足で歩かなければならないからといって、彼らよりも私たちの方が優れているということになるでしょうか。今もし私たちが瞑想を学び、ベジタリアンになりたいと思い、あるいは聖なる人になりたいと思ったとして、それだけで私たちが、他の人々よりは少しでも良いと感じられるのでしょうか。そんなことが、正しい理論でしょうか。この表面的なお芝居がなんの役に立つのでしょう。

さて、みなさんがある大きな講演会を開いたとします。そして、あらゆる種類の偉大なマスターたちや、世界的なヨガ行者やそういう類の人たちをコスタリカに招待したいと思ったとします。そうすれば、みなさんは彼らに奉仕することができ、彼らに会え、互いに学ぶこともできます。それは素晴しいことです。旅費を彼らにあげたいと思うかもしれません。彼らの中にはそのお金がない人たちもいるでしょう。みなさんは気の毒に思い、なんとかしたいと思い、たぶんなにか方法を考えて、いくらかのお金を寄付することでしょう。そうすることで、彼らは飛行機のチケットを買うことができ、ここにやって来れるのです。それは、とても感動的なことです。ところが、すでに自分のお金でチケットを買って来ている人には、みなさんはなんの注意も払いません。それはどういうわけですか? 特に、みなさんがすでにここに来ていて、そしてその人からなにかを学んでいるとして、あるいはすでに友達としてその人を受け入れているとしたならばです。

自分の国の人々の面倒をまったく見ずに、他の国の人々の面倒ばかりを見ている人が良い人でしょうか? そんな人がいるでしょうか? 出かけて行って隣国のことばかり面倒を見て、決して自分の国の面倒を見ないような人がいるでしょうか? それで大丈夫ですか? 大統領と言われる人がそんなことをしていて良いのでしょうか? 自分の隣にいる人が死のうとしているときに彼らの面倒は見ずに、とても遠くの友達に、医者や看護婦、あるいはたくさんくのお金や気持ち送ることができるでしょうか? これが、みなさんが毎日振りかざしている理論のひとつです。そして、それが理論的かそうでないか、決して考えてみないのです。

ですから、私はここにあまり長く留まらないほうが良いと思います。そうしないと、迷惑をかけることになるでしょうから。みなさんはここにやって来なければならず、毎日、あるいはときどき、私に会わなければならなくなります。けれども、人間とはこんなものです。ときとして、あまり近くにいないほうがその人の美しさを正しく評価できたりすることもあります。それはちょうど、あそこにある山のようなもので、登ったときよりも遠い所から見たときの方がはっきりと見られるのです。でも登ってみなければ、遠くからは見られないたくさんの美しさを発見することができません。ですから、遠くから見ているほうが良いなどと考えないでください。ちょっと見たところは良く見えるかもしれませんが、私たちの目や耳を楽しませてくれたり、心をとても楽しくしてくれる多くの美しい細部にわたってまでは発見することはできません。

たとえば、私たちの家の前には、美しい野性の花で満ちた丘があります。そこを通りすぎるときは、ちらっとしか見られません。そこに花がある、丘に花が咲いているということがわかるだけですが、歩いて丘に登っていくと、自分を中心としたパノラマの風景が見られます。それは、息を飲むような美しさです。本当に美しいのです。そして、遠くから見ていたときとはだいぶ異なることに気がつきます。そして、私たちはその中心部に入ったことを認識します。丘の庭園に入って行ったことを認識するのです。

そこで、私はその美しさを絵に描こうとしているのですが、ここ三日間ずっと失敗ばかりして、描くことができません。たぶん、神がそうすることを望んでいなかったのでしょう。(マスター笑い)神は自分の作った美しい庭を、私がめちゃめちゃにしてしまうと恐れているのかもしれません。私の才能を信用していないのです。私が登って行くと、雨が降りだし風が吹き、下に降りてくると、太陽が顔を出すのです。いつも私をからかっているのです。私が下に降りてくると、神が笑うのです。ですから、明日もう一度挑戦してみようと思いますが、もし天気が良くないようなら、私は神に感謝して、そして、さよならを言うつもりです。

神はいつも私たちのことを聞いていますが 私たちはときどき神を無視してしまいます  

どんな種類の科学でも、もし私たちがその科学の分野で完璧になりたいと思うのなら、学ばなければなりません。実行しなければなりません。私たちがその分野に興味を持っているのであれば、それを教えてくれる人のそばに行かなければなりません。もちろん、興味がないのであれば、そのことについて誰も何も言えません。だからといって、私たちがその分野において熟練者になれないことを先生や神のせいにしてはいけません。

多くの人々は、人生につまずいたり、多くの困難に出会ったり、体や言葉や心が非常に疲れたり不満を感じたりすると、どうしてだろうと思い、「神様は私を助けてくれない」とか、「神様は私の言うことを聞いてくれない」とか言います。けれど、れは真実ではありません。私たちこそが、神の声を聞いていないのです。私たちこそが、毎日神のメッセージを聞くように心がけていないのです。 

たとえば、私たちは、先生が私たちに教えたいと思うことを学ぶために、あるいは賢くなり、より知的になっていくために、また卒業証書を手に入れたり、博士の称号を手に入れたりするために、毎日四時間とか八時間とか学校に行かなければなりません。そうやって学び、より知的になり、たくさんのことを知り、たくさんのことができ、またたくさんのことに取り組めるようになります。私たちの人生は、より整頓され、もっと理解深くなっていきます。そうすることで、私たちは快適な仕事や、人生を手に入れられるのです。同じようには、もし私たちが一日に一時間とか、二、三時間座って座禅をしたり、神の教えを聞いたり、私たちに、神からの教えを説明してくれたり、神のメッセージを伝えてくれる教師のそばに行くことをまったくしなかったら、どのようにして私たちは賢くなり、どのようにして人生をより心地良くできるのでしょうか?

私たちは祈り、「ああ神様、どうして私のところへ来てくださらないのですか? もしあなたが存在されるなら、どうかいらしてください」と言うこともあります。けれども、もし神が来たとしも、私たちは神のための時間を持ち合わせているでしょうか? 私にはそれが疑わしく思えます。私たちが神のために時間を費やすとは思えません。ですから、もし神が来てくれないとしても、神に不満を言わないでください。私たちはきっと、こう言います。「ちょうどお母さんが来てしまったのです。お父さんが死んでしまったばかりです。子どもが病気なものですから。仕事が! 上司が! 銀行口座が! 電気の請求書が! ああ神様、私の神様、どうかあちらへ行ってください。私にはあなたのために費やす時間がありません! 神様!」と。(マスター笑う)

神が来たとき、私たちがどのように接しているか、みなさんは想像できます? 神は何回もやって来ています。神はいつでも肉体という身なりを伴って、人間のいでたちをしてやって来ているのです。

それは、私たちが賢い人のそばにいるときとまったく同様です。私たちはそういう人と一緒にいれば、賢くなりますし、愚かな人といつも一緒にいれば、もっと愚かになっていくのです。私たちはその人間のレベルに合わせなければなりません。そうしないと、その人が私たちを理解してくれないからですが。それによって、私たちは引き下げられてしまうのです。ですから、友達を選ぶことです。人々が賢いマスターのもとに、内面にある智慧を目覚めさせるためにやって来るのは、本当に理論的なことなのです。

もし、私がすでに英語を知っていて、イギリスとか、アメリカとかに住んでいたり、いつも英語を話す人々の中にいたら、私の英語は日々進歩していくでしょう。けれども、英語を話さない人の中にいたり、あるいは細切れの野菜のような英語を話す人々の中にいれば、当然私の英語力は彼らのようになってしまいます。すでに私の英語力が、まるで切り刻んだ材木のようになっているのに気づいています。というのは、私はここ二十年ばかり、イギリスでは暮らしていないからです。いつも旅をしていましたし、出向いた国の人々も英語を上手に話していませんでしたので、私の英語力が妨げられて、進歩しなかったのです。毎日私は、中国語やスペイン語やベトナム語を話しているからです。(マスター、スペイン語で話し、笑う)

非常にはっきりしています。ですから、私たちがすでに充分な智慧を持っていると思うなら、マスターは必要ありません。けれども、もし私たちが自分自身に問いただし、そしてなにか欠けているところがあると思うなら、出かけて行って誰かその品性を持っている人を見つけ出さなければなりません。そして、それを補う努力をしなければいけません。もし、神が私たちに直接内面から教えられるのなら、マスターは要らないのです。しかし私たちは、私たちの内面にいる神を通して直接私たちと交わることは、神でもできないと気がついています。ですから、キリストやブッダやマホメットがやって来なければならなかったのです。ソクラテスやその他の人たちもやって来なければならなかったのです。

私たちが誰からでも学べるというのは本当ですが、ある人からはたくさんのことが学べ、またある人からは少しのことしか学べません。ある人からは良いことを学べるでしょうし、ある人からは悪いことを学べます。少なくともそのような悪いことをしないということが学べます。彼らもまた私たちの教師なのです。少なくとも彼らは私たちに、悪いことをしないように、また何が良いことで、何が悪いことなのかを知る分別の力を持つということを教えてくれます。

ある人々は神と一体になっています。ある人々は世俗の中にいます。またある人々はどちらかといえば否定的な傾向に傾いています。神と一体になっている人々と一緒にいると、私たちはその神の品性に影響されます。世俗的な品性の人々と一緒にいると、もっと世俗的な品性を吸収することになります。否定的な傾向の人々と一緒にいると、彼らの否定的な影響を受けることになります。

私たちは毎日、さまざまな人格の人と触れあっています。ですから、多くの人々や私たちは、本当にどの人が否定的な要素を備えている人なのかわかりません。だれがどんな傾向なのか、ときどきはっきりわからなくなります。それで混乱し、私たちが知識を持ち合わせているいないにかかわらず、それらの人々の影響を受けてしまうこともあります。疲れて混乱し、魂が非常に落ち込んでしまうこともあるのです。

ですから、もしある人に神のような品性があり、聖人の智慧を持っていることがわかったなら、私たちはあらゆる手段を取り、時間の許すかぎり、ほんの少し違った角度から影響を受けるために、その人のそばに近づいて行かなければなりません。落ち込んだり、低いレベルにずっと留まっている代わりに、高いレベルまでに引き上げてもらうためです。特に、このような機会は非常に稀なのです。というのは、私たちは誰とでも触れあうことができますが、いったい何人の聖人と触れ合う、どれほどの時間があるでしょうか? そういう人たちと出会う機会がどれくらいあるでしょうか? そしていったい何人の聖人がこの世界に存在しているというのでしょうか?

もし、そういう人を信じないとか、私たちにとって十分役に立つ人であると思えないなら、それはそれで構わないのですが、もし信じられるなら、その人が私たちに、そして人類に利益をもたらす人であるということがわかっているのなら、またその人が聖なる人であり、賢い人であるということがわかっているのなら、私たちはその人のもとへ走って行くべきです。その人から離れている理由を作る代わりに、その人のもとに駆けつけるあらゆる理由を作らなければなりません。というのは、それが私たちのためになることだからです。そのことだけが、私たちにとって本当に良いことだからです。

飢えている魂を養わなければなりません  

もし、ある食べ物が私たちにとって非常に良いことがわかっているなら、私たちは理由をつけて、それを自分のキッチンから遠ざけたりするでしょうか? 一日や二日は空腹でいられますが、あまり長くその状態を続けることはできません。空腹の状態で十分な栄養をとっていないとどのようなことが起こるかわかっています。体が疲れ、だるくなり、動きがにぶくなり、思考が低下し、そして働けなくなってしまいます。私たちの魂もまた、きちんと面倒を見ないと飢えてしまうことがあるのです。

私たちは、いつ、どのようにして、自身の魂が飢えているということを知るのでしょうか? それは、私たちがこの世の中でうまく生き抜いていけなくなったり、あるいは精神的に疲れてしまったり、落ち込んでしまったりしたときです。また、物事を正しく考えられなくなってしまったり、人生における圧迫感とうまく付き合っていくことができなくなったときです。また病気になったりすると、魂も圧迫されます。そして、私たちの悪い傾向が良い傾向を負かしてしまうのです。

もし、毎日自分自身に対して誠実に問いただしてみれば、私たちの魂が非常に疲れきっていて、飢えているということに気がつくでしょう。何が悪いことで何が良いことなのか、また人生において何が一番重要なことで、何が二番目なのかがわからなくなってしまったときに、私たちは魂が圧迫されてしまっていると気がつくのです。

殺人を犯したり、物を盗んだり、あらゆる暴力的なことをする人、あるいは隣人に対して暴力を働く人たちのことを、どうか悪い人だと思わないでください。彼らを善良であると言えないのは確かですが、彼らもまた、すぐに気づくことができるからです。そして、状況さえ良くなれば、変われるのです。けれども、もし私たちが自分の魂に対して暴力をふるってしまえば、それは最も深刻な罪となります。魂への良い教えというものを否定したり、魂にその霊的な食べ物を与えなかったり、魂の存在性を否定したり、あるいは高徳な聖なる人とともに過ごすことを拒否したりするとです。私たちは自分自身に暴力を働いていることになるのです。それはちょうど、私たちの体を強く健康にする食べ物を、理由をつけて拒否してしまうのと同じなのです。魂が本当に必要としている食べ物を拒否してしまえば、霊的な成長を阻んでしまうことになるのです。

他人に対して暴力的なことをするのは、自分に対して暴力的なことをするのより、少しは許せることなのかもしれません。というのは、どうしても止むを得ず、他人に対して暴力的なことをしてしまうことがあるからです。たとえば、その人が私たちをいらいらさせたとか、怒らせたとか、私たちに反対したというような理由があるからです。また、私たちが無知であるということもあります。あるいは、性格の違いから他の人を愛することが困難なこともあります。けれども、自分自身を愛さないというのはとても恐ろしいことなのです。

働いたり、食事をしたり、装ったりするのは、ただ私たちの体だけを大事にしているということであって、魂を大事にしているわけではありません。魂こそが私たちの本性なのです。精神世界を学んでいるグループといつも一緒にいたり、あるいは同じ動機や理想を持ち、同じゴールを目指し、人生において同じような道を歩いている人々や、同じような考え方ができる人々と一緒にいなかったなら、どのようにして霊的な成長を促していけるでしょうか?

私たちはまだ、たった一人で歩いていけるほど強くはありません。もし、それほど強ければ、すでに聖人になっているでしょう。マスターになっているでしょう。毎日、自分自身を、そして自分の行動を反省してみれば、まだマスターではないということがわかるでしょう。正直に反省してみればのことですが。私たちはまだ、あまりにも自己中心的であり、自分勝手であり、無明すぎて、いわゆるマスター、あるいはキリストやブッダのレベルには及ばないのです。

精神世界の道を歩いて行くには、努力が必要です  

そのように自分のことを深く反省してみて自分のレベルがわかったなら、私たちは学ばなければなりません。もっと修行しなければなりません。あらゆる種類の高貴な影響力、高貴な仲間に対して心を開かなければなりません。私たちは、これらのチャンスを有益なものにしなければならないのです。もし、まだ自分自身の純真さを向上させ、また人間の最高の目的である智慧を向上させると信じられるのなら、私たちは努力をしなければならないのです。けれども、これが信じられず、ただ単に人間は成長し、食べて働いて、お金を稼いで、そしていつか死んでいくものだと考えているなら、それはそれで構いませんし、努力をする必要もありません。

私たちは、ただ単に生きて、毎日同じことを繰り返し、働き、食べ、眠り、愛しあい、子どもをもうけ、お金を稼ぎ、そして死んで行くのです。座禅をする必要もありませんし、ベジタリアンになる必要もありません。倫理の本など読む必要もありませんし、こういう類のることは何一つする必要がないのです。そうすれば、疲れすぎるとか、大変すぎるとか、ああだこうだとか、いろいろな言いわけをする必要はなくなるわけです。

私たちはあらゆる仕事に努力を払っているでしょう? 努力とはすべての取引きに必要なものです。勉強にしても、仕事にしても必要となります。結婚生活を維持するのにも努力が必要ですし、私たちの体を維持するのにも必要です。髪の毛でさえ、きちんと手入れをするには努力が必要です。美容院で髪を整えるのにさえも、二時間はかかります。ですから、あまりにも疲れているからとか、遠すぎるからとか、ああだこうだとかいろいろな言いわけをして、座禅をする努力や、マスターに会いに行く必要がないとか言わないでください。みなさんの髪はどうなっていますか?

どのくらいの時間を、その一時的な仮の体に使っているかということを、自分自身に尋ねてご覧なさい。八時間か十時間の労働時間というものは、すべてこの体のためです。何年にもわたるすべての勉強は、ただ単にこの体のためです。ただ良い仕事を得たいために、自分自身の体を、家族の体を維持するためだけに、十年あるいは二十年も、みなさんは勉強をしました。その他に何があるのでしょう? 勉強のあとは、三十年以上も働きます。それもただ単に、自分や家族、あるいは愛する人の体を維持するためです。それならば、今どうして、なんの努力も必要ないなどと言えるのでしょうか?

私たちは魂のための努力を拒否しているのです。それは理論的ではありません。魂とは最も重要なものなのです。魂なしでは、体は何の意味もないのです。墓場へ行って、そこにあるたくさんの体をご覧なさい。人々は、死ぬと化粧をして、口紅もつけ、髪も整え、きれいな洋服も着ます。けれども、そのような体が何の役に立つというのでしょうか?

努力は必要でしょうか? 必要ないでしょうか? たかが唇のためにさえ努力が必要だというのにです。というのは、もしみなさんがバラ色の唇を望めば、化粧品屋さんに行って、必要な美しい色を選ぶでしょう。そのために、ときには二時間や三時間費やすこともあるでしょうが、美しくなることが好きですから、みなさんはそれには耐えられるのです。一時的なことなのにです。今日ここにあっても、明日になれば消えているかもしれないのに。それなのに、魂やなにか永遠のもののためとなると、私たちは一日に二時間や三時間使うことも、あるいはマスターに会いに来るということでさえも、大変すぎると言ってしまうのです。

苦しみの中にいるか、そこから解き放たれるかは、自分自身の選択の問題です  

私たちは「神というのは、どうして世の中をこんな状態にしておくのだろう? どうして私たち人間はこんなに苦しまなければならないのだろう? どうして私はこんなに苦しまなければならないのだろう?」と、自分自身に尋ねます。それは非常に明確なことです。私たちがそれを選んだからです。私たちが苦しみや無知を選び、動かないということ、成長しないということ、変化しないということを選び、後ろからせかされないということ、進化しないということを選んでいるのです。すべて私たちの間違いです。苦しむことを望んだからこそ、世界は苦しんでいるのです。私たちが一時的なものにあまりにも多くの時間を費やし、永遠の智慧のためにかける時間が、あまりにも少ないからです。ですから、私たちは賢いわけでもなく、その上あべこべの智慧を使ってものごとを処理しているのです。そして、生死の輪廻から抜け出せなくなっているのです。

もしすべての人が、智慧を学び取るのにわずかでも努力を払ったなら、また内面にある最も偉大なる知性を覚醒させるために学ぼうとしたなら、そして日々の生活の中でそれを使っていこうと努力したなら、世界はこんなに苦しまなくなります。また、すべての人が賢くなっていきます。すべての人が何が正しく、何をしなければならないか気がつくでしょうし、どのようにして他の人々に対して配慮すべきかわかるようになるでしょう。すべての人々が智慧を使って協力し合えるようになりますので、誰一人としてまったく苦しまなくなるのです。

仮に、誰もが隣りの人が行動を起こすのを待っているとします。「あら、どうして彼女は瞑想に行かないのかしら? 彼女はマスターを探さなかったのに、どうして私だけがやらなければならないのかしら? どうして私だけがマスターと一緒に勉強しなければならないのかしら? どうして私だけが瞑想し、ベジタリアンにならなければならないのかしら? 他の誰もしていないのに」と言ったとすれば、みんなが互いに待ちあってしまって、そして留まってしまいます。

さて、そうなるとたぶん誰もが無知のままでいるでしょう。みなさんはそういう人たちよりも良い存在になっています。みなさんはすでに瞑想の方法や、ベジタリアンになることや、光と智慧の方向に向かって努力をするということを知っています。おそらく、人間として半分くらい良くなっているかもしれませんが、そこにそのまま留っていて、時間を無駄に過ごしているのです。みなさんをお手本に、他の人々が真似をしてついてくることなど期待できるでしょうか?

私は厳しすぎますか? もしそうなら、どうか許してください。みなさんが私を許してくれるのなら、神はみなさんを許すでしょう。良いカルマですね。けれども、もし誰も忠告する人がいなかったら、みなさんは互いにそのことに触れることもないでしょう。

自分たちの時間を賢く管理しなさい  

誰も学校などさぼってしまいたいと思っています。子どもたちも誰一人として心から学校に行きたいとは思ってはいません。両親が後押したり、教師が手厳しくしたりしなければなりません。そうしないで、子どもたちにしたいようにさせたなら、彼らはなにも知りませんから、決して正しいことをするようにはなりません。もし放っておいたら、一日中公園で遊んでいたり、テレビを見たり、あるいはいつもピッピッピッとテレビゲームをやっているようになってしまうでしょう。

おそらく、教師がいつも厳しいというわけではなく、子どもたちを公園に連れて行って、一緒に遊んだりもするのでしょう。お母さんもお父さんも、ときには子どもたちと一緒に遊んだりします。けれども、遊びの時間もあれば、学ぶ時間もあります。家族のため、友達のために使う時間もあれば、働くための時間、お金を稼ぐための時間もあり、そして自分の体に気をつけるための時間もあります。そして、精神世界への熱望のための時間も含まれるべきです。もちろん、私たちは二十四時間、毎日そればかりするというわけにはいきませんが、機会があったときは、それを逃してはいけません。

すでに私たちは霊的な成長に費やす時間があまりにも少なすぎるのです。どんな仕事にも、どんな勉強にも、体の快適さを求めるどんなことにも、私たちはめいっぱい時間をかけます。一日に八時間とか、十時間とか、あるときは夜まで残業することもあります。また、ただ単に英語や化学の分野で修士の資格を得るために、通常の学校とは別に夜間の補習の学校に行くこともあります。それは、ほんの短い期間のわずか一教科か二教科、それも非常に一時的な物のためにです。永遠の存在になるために学び、聖なる人になるために学び、神のようになるために学ぶことに関して、私たちは一日にほんの一、二時間しか使わず、あるいは、たまにチャンスがあったときだけしかマスターに会わないのに、それでも、私たちはいろいろな言いわけをしてしまうのです。みなさんはこのことをどう説明するのですか?

弟子になるということ、修行者になるということは、ベジタリアンになって印心を受けるだけでは十分ではないのです。ベジタリアンといえば、牛もまたベジタリアンです。生まれる前からすでにベジタリアンです。印心も、たとえ牛でも、ここに来て私が施しさえすれば受けられます。彼らはいつでも印心を受けにやって来れます。私がここに来ると、牛たちもいつも私に会いにやって来ます。彼らは遠い野を渡ってここまで来て、瞑想ホールの前に座ったり、立ったりして印心を待っています。ええ、彼らにだってできます。人々は私がここに来ないと、その牛たちもやって来ないと言っています。彼らはまた印心の申込書も書きました。彼らの方法で書きました。筆記することができませんから、それを飲み込んでしまったのです。

この話をみなさんは知っていますか。私が初めてここに来たときのことですが、私たちの乗っていたトラックに野菜をたくさん積み、その後ろに何枚かの印心の申込書を入れておいたのですが、牛たちは野菜を食べずに、その印心の申込書と私の講義内容を示したメモだけを食べてしまったのです。彼らがそれらを盗んでしまったので、同修がそれを取り戻そうと追いかけて行くと、牛はびっくりして、それをみんな飲み込んでしまったのです。(マスター笑う)

私たちはそれを取り戻せなかったので、牛たちが印心を受けたのだと思うことにしました。いつでも私がここに来ると、彼らも共修にやって来ます。(マスター笑う)彼らは法の伝授をされているのです。彼らは私を見ます。彼らがここにやって来ると、弟子が彼らを追いはらおうとしますが、去って行こうとはしません。彼らはその弟子を見て、「あなたと私は平等ではないですか。同修ではないですか。どうしてあなたは私を追いはらおうとするのですか?」と、まるでそう言っているように見えるのです。

ですから、みなさんが印心を受けて、そしてベジタリアンだから十分だと思わないでください。もしそれで充分だと感じるのならば、それはただみなさんが大学に入学しただけで充分だと思ってしまい、毎日、あるいは毎週、あるいは二、三日おきに大学に通ったり、教授に会ったりする必要はないと思っているのと同じなのです。牛のようなものです。ただ、印心の申込書を飲み込んでしまい、ベジタリアンになり、それで十分だと思っているのです。でも、牛の方が幾分ましかもしれません。彼らは、私がここにいるときはいつでもやって来て私に会うのですから。とても信心の強い弟子たちだと言えます。(マスター笑う)そしていつでもベジタリアンを通しています。決して失敗するということはありません。この点に関しては、決して心配の必要がありません。

彼らは、間違っても卵が入っているケーキを食べてしまうことはないからです。ほんのちょっとだけアルコールを含んでいる物を食べてしまう、飲んでしまうという恐れがないからです。そして、彼らは毎日、マスターがいようがいまいが彼らの瞑想をちゃんとしているのです。食事をして、お腹がいっぱいになったあとで、彼らはそこに座って、自分たちの食べ物の上で、草の上で瞑想をしているのです。それが彼らの瞑想なのです。

私たちも同様です。労働や食事のあとで、私たちはその辺に座って、テレビをつけて瞑想したり、あるいは世俗的な欲求や問題について瞑想したりするのです。問題点はなんでしょうか? 何の問題もありません。誰もが自分の一番大好きなことに対して瞑想しているのです。こんな調子では、私は本当に引退をすべきかもしれません。もうここにやって来る必要はありません。みなさんを煩わせることはありません。両方が幸せでいられますから。そうでしょう?

みなさんが必要なときだけ、それを満たすためだけにマスターが存在し、自分たちはなんの義務を負う必要もないと考えているのでしょうか? マスターを配慮しているという点においてはそれでも構いませんが、それではみなさんにはなんの進歩もありません。みなさんが人間としての時間を費やしてしまうだけなのです。私たちの智慧を成長させるための、いいえ、私たちの智慧を覚醒するための貴重な時間を無駄にしてしまうのです。智慧というのは成長し得るものではありません。智慧はすでに完璧な状態でそこにあるのです。私たちはそれを知覚し、そして使わなければなりません。

けれども、もし私たちがそれを知覚する時間を費やさず、そして使わないならば、無駄になってしまいます。神は私たちに人間の体を与え、この地球にいるあいだに、智慧を使って、自分自身やこの世の中に奉仕することを委ねているのです。もし、私たちがそうしなければ、私たちは神と自分自身に対する義務を怠ったことになるのです。それだけです。

たぶん、マスターも含めて誰一人として、私たちを責める権利はないのかもしれません。おそらくただ単に、私たちが再び学ぶために戻ってこなければならないというだけのことであり、私たちが厳しい方法や 苦しみを通して学ばなければならないというだけのことなのかもしれません。あるいは、私たちが何回かの生まれ変わりを通して別のマスターに再び会うために、ほんの少しだけ待たなければならないというだけのことなのかもしれません。というのは、私たちは容易に手に入る、貴重な機会を拒否してしまったからです。それはそんなに都合よく手に入ることではないからです。

マスターと共にいるときは貴重です