アダムとイヴ
昔むかし、神は宇宙万物を創造しました。神は私たちのこの世界も造りました。神は昼と夜を造り、月と星、空と海と陸地を造りました。神は空を飛びまわる鳥を造り、海に泳ぐ魚を造り、陸地には動物を造りました。神は、自分が創造した宇宙万物を見て非常に喜びました。この宇宙は人類に与えるために創造されたのです。それで、神ははじめに男と女を造ったのです。神はアダムとイヴを造り、彼らにこの世界を管理させました。その中にはそういった植物や樹木、鳥獣、その上魚も含まれます。神は彼らを清らかな川の流れや木陰やさまざまな果物まである、すばらしい場所に住まわせました。そしてこの場所をエデンの園と名づけたのです。アダムとイヴはとても喜びました。しかし、神はどんなことがあっても、あることだけはしてはいけないと言いました。「特別な木になる果実を食べてはいけない。もし、その果実を食べたら、死んでしまう」と。そういうことです。アダムとイヴは神に従い、言うとおりにしました。そして、まるで神の友達のような生活を送っていました。
ところが、神の世界を破壊しようとたくらむものがいました。ある日、イヴがその特別の木のところを通り過ぎたとき、甘い声がイヴを呼んでいるのが聞こえました。それはまるで蛇の声のようでした。(人を誘惑するのが専門であるという理由で、西洋では蛇によくない名誉を与えています。彼らは悪魔を蛇にたとえたのです)この木は「善悪を知る木」と呼ばれています。その声は彼女に聞きました。「ごらんなさい。この果実はすごくおいしそうですよ。よだれが出ていますね。どうして味わってみないのですか?この果実はあなたをとても聡明にしてくれます。あなたは神のように聡明になれます」イヴは蛇のやさしそうな声を聞いて、神が彼女に言った警告を忘れてしまいました。彼女は神のように聡明になりたいと思い、そうすべきだと思ったのです。そこで彼女は手を伸ばして、その果実をもぎとり食べてしましました。そして残りを少しアダムにあげました。
そのときから始まりました。すべてが狂いはじめたのです。神はアダムとイヴがしたことを知っていました。なぜなら、神をだますことができる人は一人もいないからです。
彼らは二度と神の友達になることはありませんでした。神は彼らを追放し、エデンの園を離れなければなりませんでした。エデンの園ではとても楽しい日々を過ごし、神と一緒に歩き、話をしていましたが、今では天使は剣を握り、エデンの園の入口に守衛として立っています。アダムとイヴは永遠に帰ってくることはできません。これからは、非常に努力して仕事をしたり、非常に疲れたり、苦しく辛い思いをしなければならないのです。今、彼らは苦痛を経験し、学んでいるのです。けれども、もっと大変なことに、神は彼らに恐るべき警告を与えたのです。彼らはしだいに老いていき、そしてやがて死んでしまうことがわかったのです。
エデンの園を離れてから、アダムとイヴには二人の子どもができ、カインとアベルと名づけられました。彼らはしだいに成長して、カインは農夫になり、土地を開墾して穀物の種をまきました。アベルは父親の羊の世話をして、牧童になりました。収穫のとき、カインは収穫物を神に献上して供養しました。これが彼の神に対する感謝を表す方法でした。アベルは一群の羊を神に献上しました。こういったものはとてもよい贈り物です。しかし、私たちはこういった贈り物をと引き替えに、神の愛を得ることはできません。なぜなら神はやはり私たちがどんな人間か見るからです。アベルはよい人です。ですから、神はアベルの贈り物に対して大変喜びました。そのためカインはとても嫉妬して、怒り、弟のアベルを恨みました。カインは神が彼の贈り物を喜んでいないことを知っていました。ある日、カインはアベルを野外で殺してしまったのです。カインがアベルを殺したとき、見た人はいなかったと思います。けれども、神は知っていました。それで神はカインを処罰し、カインと彼の家族を追いはらいました。永遠に帰って来ることはできませんでした。この世界はかつてすばらしいものでしたが、この
ように永遠に破壊されてしまったのです。
みなさんはこの物語の意味がわかりますか?果実を食べてしまったために、こんなに不幸になったわけではありません。私たちみんなが善悪の判断がつき、その上選択する権利もあるということです。すべきではないとわかっていることをしてはいけません。すでにわかっていることをわざとしたので、自分の生活を混乱させ、複雑にさせ、単純でなくしてそれで苦痛をもたらすことになったのです。果実はただ、私たちがすべきではないことを象徴しているだけです。神の指示を聞きなさい。その意味は、私たちは理にかなったことをすべきだということなのです。生涯、人を傷つけてはいけません。たとえ、みなさんがあまり修行しなくても、菜食し、戒律を守れば、それは自分にとってもとてもよいことです。世界に対しても十分良いことです。マスターと一緒に学んでいる人も同様です。私たちは選択できます。すべきでないことはしてはいけません。すべきことをしなさい。
神の望みは法外なものではない
神はこんなにもよく彼らの面倒をみたのです。彼らが食べるものは何でも与えましたし、あらゆる面倒をみました。まったく何も不足していませんでした。このことは神の愛が無限であることを示しています。仕事をしないで、毎日ただ食べて、飲んで、遊んで、何の心配もない人はどこにもいません。神が彼らに要求したのは天地を揺るがすほどのことですか?そうではありません。神は「何でも食べられます。ただ、あの木は私のものです。私に残しておいてください。食べてはいけません」と言いました。結局、その木すら彼らは食べないではいられませんでした。食べるものがなかったのではありません。何か不足していたのですか?神はただ、一つのことを要求したにすぎません。彼らはそれに応えられませんでした。神は彼らを満足させるために、とてもたくさんのものを造り出しました。それなのに、やはり彼らは過ちを犯してしまったのです。ということで、今日、私たちは本当に哀れな状態です。たえがたいような誘惑は多く、その上苦しみの海を泳がなければなりません。私たちの世界は、生まれること、老いること、病むこと、死ぬことなど苦痛に満ち満ちています。彼らはそのとき、病
気でも、老いも死もなければ、生活のためにもがく必要もありませんでした。ただ、神は彼らに一つのことを要求したにすぎません。彼らはそれにたえられませんでした。神が自ら言ったことなのに、彼らは聞きません。まして、私が言うことなど誰が聞いてくれるでしょうか?彼ら二人は、神が彼らの楽しみのために、あらゆるものを造り出したと言うことを知っていました。彼らは神が何者なのかを知っています。神が彼らの主人であり、一本の木の果実を食べてはいけないと言うことを除いては、すべてを彼らに与えてくれたことを知っています。それなのに、彼らはそれをもぎ取って食べたのです。
私はみなさんにお話しましょう。その木は何も特別なものではなく、他の木と同じです。彼らが神が食べてはいけないと言うことを守ることができるかどうか、試したかっただけなのです。結局、そんな簡単なことすらできませんでした。神の話を聞かず、蛇の話を聞いたのです!他の人の話をきくのならまだしも、蛇の話を聞いたのです!蛇の話のほうが神よりも重要だったのです。たとえ生死輪廻に堕ちたとしても、誰も責められないことがこれでわかったでしょう。この物語が真実なら、私たちは神を責められません。神は人間に対してこんなに親切で、こんなに周到に面倒をみて、他には何も要求していません。ただ一本の木だけそのままにするようにと言いました。それなのに、それをもぎ取って食べたのです。どんなものでもすべて信じるのに、神を信じないのです。神ではなく、蛇を信じてむやみに食べたのです。食べてしまってから苦しむのです。そして善悪を知るのです。神は彼らの信心が強くないこと、そして彼らが神の友達に値しないことがわかったのです。
私たちの世界にはたくさんのものがあり、どれもみなそれぞれの価値があります。たとえばダイヤモンドが買いたいと思ったら、いくらかお金が要ります。金を買いたければそれより安いでしょう。銀ならもっと安いです。鉄を買うと、数百元で一塊買えます。金を買おうと思ったら、何千元かかかります。同様に、彼らが神の友であり、エデンの園の世界を享受したいのなら、規則を守るべきです。一本の木を守ることさえできないのに、どうしてそこに住むことなどできるでしょうか。一緒に住むときは互いを尊重すべきです。私はあなたにこうしてもらいたい、あなたは私にこうしてもらいたいというように、みんなで協力していくのです。道理とはこういうものです。神は別に何も要求しません。ですから、神がもし彼らにすっかり与えて、その上彼らに一つの規則すら与えなかったら、それでは単調すぎて退屈してしまうでしょう。ですから、ただこの木の果実が食べられないだけで、神は他のことはすべて許したのです。こうすれば変化があります。結局彼らはその道理を理解できませんでした。神はそれほどありがたい恩人であったにもかかわらず、蛇の話を聞くのです。ぞっとします!蛇の話を
聞いてそれで終わりです。神より蛇を尊重するなら、当然神の友達としての価値はありません。違いますか?
あなたは神への信心を破棄したのです。協力的な雰囲気ではありません。あなたは自分のことがしたいために、たとえ神の意見があなたを傷つけなくても、神の意見を尊重しようとはしません。十分に使う物があるのに、その上何が必要なのですか?神のように偉大になりたいと思うことが、そもそもエゴなのです。
エゴに用心しなさい
神のように偉大になってどうするのですか?すでにエデンの園で暮らすだけでも十分素晴らしいことです。毎日食べるもの、着るもの、何でも十分にあります。それなのに神と同じになりたいと望むのはどういうことですか?私たち人間はみんなこういう処理し難いエゴがあります。最高になりたい、王様になりたい、最上でありたいなどということに騙されて、一日中せわしく騒々しいのです。お金をたくさんもうけたいのは、他の人よりずっと良くなりたいためです。他の人よりもきれいになりたいためにお化粧をして、他の人よりもっとよく見せたいために服をたくさん買うのです。みんな何でも競争し、すればするほど激しくなり、自分のレベルが高くなっても、もっと高い人がいますし、永遠に争いは終わりません。ということで、この聖書物語は単純な果実の話ではなく、その裏にはたくさんの道理があるのです。昔の人は煩わしいことになるのを恐れて、はっきり言えなくて、たとえを用いているのです。さまざまな方法を用いて当時の人に聞かせたのです。みなさんは聖書やこの聖書物語を読めばもう十分です。この本にはとてもよい物語が厳選されて載っています。とても簡単で、子どもが聞
いてもわかるものです。
この物語を読むだけでも、みなさんは昔の人の修行がどれほどたいへんで不便であったったかということがわかります。他の人に嫉妬されたり、一日中追いかけられて殺されたりすることもありました。修行者は必ず他の人より良くなり、智慧が多くなり、より聡明になり、何でも良くなるので、それでみんなは嫉妬するのです。本当に危険です。みなさんは聖書を読むと、昔の人の修行は本当に難しかったことがわかります。
聖書の最初の物語は私たちにたくさんの啓示を与えてくれました。もし時間があれば、研究すると役に立ちます。果実だけの問題ではありません。それは規律の問題で、互いに尊重し協力する問題やエゴについての問題です。アダムとイヴは、他人の指示に従いたくなかったのです。彼らは他人よりもっと良くなりたい、神さえも越えたいと思ったのです。彼らがこのような努力をしたのは、とても愚かなことです。神よりもっとよくなりたければ、他の方法があります。神に聞けばいいのです。「あなたはどうしてそんなに素晴らしいのですか?どうすればいいのか私たちに教えてもらえますか?」そうでしょう?神はどうして素晴らしいのでしょう。必ず神の徳があり、神の修行方法があります。神は一日で素晴らしくなったのではありません。神に私たちの望みを言うべきです。後ろでこっそり物を盗んではいけません。それはよい品性ではありません。神は彼らに対してとても親切に面倒を見てくださったのに、結局彼らは神の背後で悪いことをしたのです。人はみなそうです。
目標が偉大であるほど、代価も高い
先ほども言いましたが、どんな物にもその物の価値があります。同様に、みなさんが私と修行することは、規則はかなり厳しいですが、それだけの価値があります。みなさんも知っています。そうでなければどうして修行をするのですか?金を買うのと鉄を買うのでは違いがあるように、私たちは何かを得ようと思ったら、大変苦労をしなければなりません。たとえば、私が手術したとき、手術が終わったらそれで治るというわけではありません。医者は神経と筋肉のリハビリに、毎日三、四時間かけます。そうでなければ、麻酔にやられてしまいます。外科医はいろいろな場所でつなぎ合わせているので、今訓練しなければ、硬直してしまって動かなくなってしまいます。毎日三、四時間行って、六ヶ月そうやって初めて回復するのです。そのうえ、必ず回復するとは限りません。同様により高いレベルのものを求めるのなら、毎日一所懸命働きもしないで、どうやってそれを獲得できるというのでしょう。これは私たちにとって無視できない法則です。みなさんそのことをよく知っているかもしれませんが、それほど熱心に働いたわけではありません。それでも何かを得られますが、やはり一所懸命働いた人
とくらべると違いがあります。この世界のものを手に入れるというのはより一層難しいことです。手術は十数万円もかかり、無料ではありませんし、手術を受けると苦痛があります。とても苦痛です。数時間昏睡状態のままで、目覚めるとチューブがあちこちに差し込まれていて、とても惨めな状態で、おなかは気持ち悪いし、吐き気はするし、何日も苦痛が続くのです。お金を出したら治るわけではありません。そのうえまだ自分が苦しまなければならないのです。その後も完全によくなるというわけではありません。まだ苦痛が続き、回復するために毎日何時間もかけなければなりません。この世界のものは何でもそのように複雑なのです。無料ではありません。
けれども、神のものはずっと簡単です。神は全部彼ら二人に与え、享受させるためにエデンの園を造りました。ただ、一本の木の果実だけは食べてはいけないと要求しました。結局、彼らはそれを食べてしまいました。これは、いくら与えても十分ではなく、人間は永遠に満足しないと言うことを表しています。ということで、誰かがあなたに対して良くなかったとしても、ご主人がどこかに行ってしまっても、奥さんが逃げても、あなたはすべて自分が良くなかったと認める必要はありません。そうとは限りません。人はこれがあっても、あれも欲しいと思いますから、人の心を満足させるのはとても難しいことです。みなさんは私たちの頭脳はとても悪質だということに気がついたことがありませんか。一日中ずっと私たちを煩わせ、何かがあってそれで十分だと思っても、頭脳は言います。「いいえ、あれもこれも欲しい!」と。一日中、多くのことで私たちは煩わされるのです。ですから、私たちはチェックするべきです。修行日記も書かなくてはいけません。まずしっかり観察して、本当に必要かどうかを見るのです。本当に必要でなければ、頭脳に与えないでください。あなたが与えれば与えるほど
欲しくなります。ということで、みんななぜ一日中忙しいのか、はっきりわからないのです。みなさんの家にはたくさんの物が買いそろえてあります。一年に一回も使わないものや、買ってたった一回しか使わず、そのあとは生涯ずっと忘れてしまっているものです。ほとんどのことはこのような有様です。
なまけは自由とは違う
生活を少し簡単にすれば、私たちはあまり複雑にならずにすみます。自分の頭脳が毎日何を要求しているのか、どんな物をどんな方法で要求しているのか、どのように私たちを悩ませるのか、どんな面で私たちをコントロールするのかを観察しなければなりません。それをはっきり分析すれば、明らかにわかるでしょう。自分に対してもっと厳格になるべきです。まるで魂が抜け出て、他の場所で自分を見ているように自分に問いかけてください。「何をするためにこれが欲しいのですか?それをもらったら、次は何が欲しいのですか?これをもらうためには、どれだけの時間、お金、労力が必要ですか?それをもらったら、何ができるのですか?」と、自分に対して厳しく分析します。そうでなければ、私たちは一日中頭脳の奴隷になってしまうだけではなく、望むことは何でもできるのでとても自由であると信じ込んでしまいます。いいえ、それは違います。これはなまけです。自由ではありません。自由な人は必要であるとわかれば行ない、必要ないとわかればしません。頭脳が私たちに指示することを行なっていると、私たちは欲望のままに行動することになります。このようにして自分を駄目にし、永
遠に良くならないのです。
私たちは他人に対して厳しくすべきではなく、自分に対して厳しくすべきなのです。この世界では、どんなものでも無料で私たちに与えられるものなどなく、努力して仕事をしなければ、欲しい物は得られません。自分に対して非常に厳格であるべきです。それによって自分が求めている風格と地位が得られるのです。自分を甘やかして、駄目にしてしまうのはとてもたやすいことです。頭脳は私たちに、したいことはすぐやりなさいと言います。これが自由だと思い、私たちに口出しする人もなく、自分自身をも振り返ることはありません。違います!それは自由ではありません。それは奴隷です。世界は転倒していて、私が言う規則や道理は受け入れ難いのです。本当の話をしているのに「忠言は耳に逆らう」で、マスターは厳しすぎて、受け入れられないと言うのです。自分が何かしたいと思ったら、すぐにやればより心地よく感じます。けれども、心地よい道は私たちをどこまで連れていくのでしょう?私たちはそこにとどまるしかありません。習慣の道に従って行き続けるなら、どの道を行っても正しい道には出ません。ただ、心地よいと言うだけで、まっすぐずっと行ってしまうと、帰って来たくな
くなり、戻りにくくなります。ずっと行くほうが便利ですが、でも、行けば行くほど遠ざかるのです。
自由自在に歩いて行くのは構いませんが、その道が正しいかどうか見なければなりません。高速道路を見て、広くて大きいからといって、ただまっすぐ歩いて行ってはいけません。私たちの家は他の所にあるので、辛くても曲がって戻らなければならず、車はバックしなければなりません。道が大きくて広いからといって、まっすぐ行ってはいけません。道が狭くて細いと行きたくないのでは困ります。歩かなければ行きたい場所にはたどりつけません。そのまま進んで行くことは自由とは違います。そうではありません。それは愚か者です!自分を抑制できないのです。自由自在と無責任とは見かけは似ていて、何かをやろうと思ったらすぐにやって、「私は自由自在です!」と言うのですが、いいえ!違います。これは無責任で、自分に対して厳しさが足りないのです。
みなさんは、このエデンの園の物語を読んで、それは単純な果実だけの話ではないことがわかるでしょう。これは私たちが何かをやろうと思ってもとても難しく、他の人が私たちにしてはいけないと言うと、私たちはかえってしたくなるというたとえです。私たちの頭脳はこのようにとても腐敗しているので、他の人がしてはいけないと言うことをするのです。ただ一個の果実のために、蛇の話を聞いてしまったのです!神が彼らに対してどんなに優しいかということをはっきり知っているのに、神は彼らが使うために世界全部を与えたのに、彼らは恩知らずで、蛇の甘い話を聞いて、神が私たちに食べてはいけないと言った物を食べたのです。どんなに良くても、恩人の物を盗んで食べるべきではなく、食べたかったら神に言うべきです。すべての世界を与えてくれたのに、あなたはまだ満足せず、食べてはいけないと言われた果実を食べたくなったのです。この意味は、私たちは自分自身を管理することはとても難しく、一日中悪い人の話を聞いているに等しいということです。
頭脳に私たちの邪魔をさせない
私たちの中には二人の人がいて、一人は良い人で、一人は悪い人です。悪いのも私たちで、蛇も私たち自身です。私たちはやるべきではないとはっきりわかっていても、気をつけていないとやってしまうのです。またはわざとやってしまうのです。それは自分の智慧が足りないからで、判断の能力が足りないからです。同様に、私たちの頭脳が何を要求しているのかを知るために、私たちは毎日自分自身をチェックしなければなりません。何が本当に必要なのか、私たちを邪魔して、煩わせて、時間を消耗させたくて、本当に必要なものを思い出す時間をなくさせるためなのかと。あるとき、野菜か何かを買おうと思い、まだ買いたい店まで行かないうちに、外にある他の看板を見て、忘れてしまうのです。最も大切なものを忘れてしまい、あっちを見たり、行ったり来たりして、これを買ったり、あれを買ったりしているうちに、しばらくするとお金がなくなってしまうのです。閉店時間になってしまったり、すっかり忘れてしまって、もともと買おうと決めていたものを買わずに、家に持ってかえるものは不必要なものばかりになってしまうのです。
ということで、この物語を読めば、私たちが誰かに対してとてもやさしくても、その人は私たちに対してひどいしうちをするのがわかります。神でさえも人の心を満足させられないのに、私たちに何ができるでしょうか?人はみんなそうです。ですから、私たちは自分がそのようにならないために、自分で気をつけなければなりません。自分がこのような人にならないために、この物語をよく覚えていなければなりません。
そうすることはとても難しいことです。なぜなら、少しでも気をつけていないとすぐ間違いを起こします。そして、蛇の言うことを聞いてしまうのです。甘い話をする人は一番駄目です。それで、私たちオゥラック人は甘い話をする人をとても恐れます。ある人の話があまり甘いときは、気をつけなければなりません。
砂糖やキャンディーは最も良くありません。砂糖はビタミンを破壊します。話によるとそうですね。ですから、そういった砂糖をたくさんとる人やコーヒーにたくさん砂糖を入れて飲む人はとても緊張しています。なぜなら、ビタミンが足りないからです。あまりたくさん砂糖をとると、歯さえも駄目になります。
甘すぎるものはすべて良くありません。ビスケットをたくさん食べると、太ってきて、血圧が高くなり、心臓病になります。それは全部危ない病気です。ですから、甘いものは全く良くないのです。甘い話も良くありません。でも、世界中で甘いものが好まれます。ということで、トラブルが起こるのです。その蛇の話が甘くなければ、イヴは食べなかったでしょう。甘すぎるので、本当に馬鹿になって食べてしまい、アダムにも被害を与えたのです。この物語から、人は女の人と蛇とはあまり違わないと思うのです。両方とも男性を誘惑します。私には正しいかどうかわかりません。本当は誰が誘惑しているのでしょう。
エデンの園後編
アダムとイブが地上に降りた後、この世の中があまりにも面白いので、全く後悔をする気持ちになりませんでした。現在に至るまでずっと迷っています。迷っているうちは、まだましです。なぜどんどん悪くなっていくのでしょうか。そのわけは、さっき私が話したように、二人が天国にいるときは果物が食べたいと思えばすぐ手に入れることができました。この世の中では、そういうことはありません。一所懸命木を揺すっても、道具を使っても落とすことはできません。ですから、頭脳を使ってどのような方法を用いて果実を落とすかを考えなければなりません。最も近代的な方法を用いて、より早く、より多く取ろうとします。風が吹き荒れ、土砂降りの雨のようなパワフルな光景を見て、学び始めました。風が吹いて樹木を揺らすのを見て、二人はまねをし始めました。自分の息を吹いてみても、木は動きません。ですから、気功を練習して気を交換することが必要になりました。最初は小さな木を動かしました。その後、気が非常に多くなって、大きな木を動かすことができるようになりました。ですから、表情がどんどん変わってきます。顔面が紅潮し、耳も赤くなり、話し声も大きくなり、だんだ
んとぞんざいな話し方になりました。以前、天国にいたときは、言葉は用いませんでした。インスピレーションで交流し、少し思うだけで相手に通じたからです。
その後、再び動物から身を守る必要があることを学びました。この世に来たばかりのときはまだ大丈夫でしたが、動物たちはだんだんと二人の臭いがわかるようになり、二人を脅して食べようとします。アダムとイヴは動物の吠える姿を見て、どうしていいかわかりませんでした。そしてアダムとイヴとその子孫たちは、動物をまねて吠え始めました。彼らは、もっともっと狂暴になれば、トラでさえ逃げていってしまうことを経験しました。この方法が有効であることを知り、トラやライオンのようにますます凶悪になりました。ですから、ときどき人間が凶悪に見えるのは、もともとこのようにして学んだからです。本来は身を守るためであったのに、だんだんと習慣になり、その習慣を変えることができなくなりました。ですから、今日このように凶悪で声の大きい仏陀になってしまったのです。みなさんが、もし最初のころを覚えていたならば、もっと優しく話すでしょう。覚えていないから、そんなに大声でわめくのです。ですから、私たちはときには優しく、ときには大声でしゃべります。これはすべて習慣によるものなのです。
今現在は、ヒューヒューと風の吹く音や、トラやライオンの鳴き声をまねすることができますが、親しい人と相通じることはできません。なぜなら、天国にいるときは言葉を用いなくても、相手に対して何かを思えば、すぐに伝わりました。もともと会話は必要ではないのです。この世の中に降りてきて、エネルギーがなくなり、天国にいるときとは違って加護のパワーがなくなったのです。中心から離れた後、この世の中で迷い、エネルギーが少なくなり、そして、言葉が必要となりました。現在、恥じらいを感じそばに近づけず、握手すらできません。もう昔の状況とは違います!ですから、お互いに相手の関心を引き付けるようになりました。でも、内面から通じることができず、言葉で交流しなければならないのに、まだ言葉はありませんでした。ですから、動物の「ワン、ニャー、メー」を聞いてまねをして、そこからABCが始まりました。
人間は、さまざまな動物の行動から学びました。なぜなら、ほかに学ぶものがなかったからです。天国にいたときは、神や仏陀から学んだので、ずっと優雅で人間とは違います。最初にこの世の中に来たときは誰もいませんでした。なぜなら、彼らが私たちの祖先だからです。人類の先祖なのです。ここには開悟したマスターはいないので、自分で自分に教えるしかありません。しかし、智慧の糸は切れて忘れてしまいました。修行の中心を離れると道に迷って戻れなくなり、色情に迷います。俗世間は煩悩で満ちあふれ、智慧をすべて忘れてしまいます。ですから、自分で自分の面倒をみる必要があります。ほかに学ぶものがないので、風や雨や恐ろしい雷から学び、太陽から学び、非常に熱かったり、非常に冷たかったりなどの極端な現象も含めてすべて自然から学んだのです。自分を守るために何かが足りないとき、動物からも学びました。時には怒っているわけではないのに、トラがやってきて吠えると彼らも吠えます。動物のまねをしたので、動物のようになってきました。彼らは実際には、心からどう猛な気質であるというわけではないのに、ときどきアダムはそのことを忘れてしまって、自分の妻
にさえ怒鳴り始めるのです。妻もその様子を見てまねをして、二人とも同じ行動をするようになりました。人類の言葉もそこから始まり、それはそもそも動物の声を再編してできたものなのです。
私たちは自分を責める必要はありません。私たちにこのように重く厳しい罰を与えた神を責めるべきです。いずれにしても、神はもともと我慢強くありません。神は最も我慢強く、しかしまた最も我慢強くないのです。神は非常に慈悲深いと同時に、慈悲深くありません。神は最大の陰と最大の陽、最大の柔と最大の剛の両面を持ち合わせています。これが、神をこんなにもおもしろくさせているのです。
私たちの世界も同様です。毎日太陽が出たら耐えられません。どんなものを植えても、水がなければ大きくなりません。毎日雨が降り続いたら、テントを張るのに不便です。ですから、あれこれ必要なのです。私たちはすでにこのような陰陽の法律がわかっていますが、自分に何か大変なことが起こると耐えられません。私たちは雨が降ったり、太陽が出たり、夏や冬などの季節が当然必要だとわかっています。しかし、夏になってベタベタして不潔で暑いと、ときどき文句を言います。農民は作物を作るのに必要だとわかっていても、雨が降り続くと耐えられなくなります。特に禅一や禅七のときや、何かで集まったとき、みなさんは水をかけられた鶏のようになり、コップにまで雨水が溢れてウーロン茶が入らなくなります。(聴衆笑う)
同様に私たちが修行するとき、試練を受けるのと同じです。私は、試練は必ずあるとすでに108 回も言いました。私たちには平常心が必要です。良いときも悪いときも、叱られるときも褒められるときも同じです。何回言っても、叱られたときすぐに不機嫌な顔をして心は苦々しくなり、反抗的な表情になります。こっちに一つ、あっちに一つとサインを出し、手や足を全部用いて抗議の意を表します。誰にたいして抗議をするわけでもなく、見る人がいなくても抗議します。
地球の歴史
しかし、事際に私たちの地球は、本来暑過ぎる夏や寒過ぎる冬といった極端な気候はなかったはずです。雨が降っても大きな影響はなく、以前の天気は比較的温和でした。晴れていても必要なら雨が降ります。それほど寒くはならず、温度も高くならず太陽が出ればすぐに乾き、夏でもそれほど暑くありませんでした。気候が厳しくなった原因は、私たちが以前天国と争い、仏陀の教えを聞き入れず、少し学ぶとすぐに天使と争い始めたからです。ですから、天使たちは私たちが使っていた武器を消滅させ、ほかの種類の武器で私たちと対抗し、私たちをこの世の中に閉じ込め鍵をかけました。ですから、私たちは三界を抜け出せないのです。天使は私たち地球の外側に防護層を設け、孫悟空が閉じ込められたときと同じように、呪文を書いたおふだを一枚張りつけました。私たちも同じ状態です。それはある無形の力にコントロールされているからです。私たちはここから抜け出せません。天国の人たちは、24時間ずっと私たちを観察しています。誰かが出てきて何か意見したり、以前のように革命を起こそうとしたりすることは絶対に許されません。ですから、現在の機器は非常にいい加減です。本当に良い
ものは発明できません。
しかし、現在また始まりました。100 年来、また原子爆弾の製造を始めたのです。それは前世での記憶からきているものです。反省のかけらもなく、また面倒を起こし始めました。ですから、天使は私たちを観察して、たくさんの災難によって警告しています。私たち自身の対抗力が、破壊のパワーとして返ってきます。自分が自分を消滅しようしているのです。私が怒るときに、心臓が痛んで体は不快です。とても悩んで悲しいとき、非常に疲れてたくさんの仕事をしたみたいです。そうではありませんか?(聴衆「はい」と答える)つまりこのように私たちは自分が自分を破壊しているのです。
最初天使は、私たちを消滅させるつもりで激しく攻撃し、一撃を与えたので地球は軌道を外れて、元の場所から少しずれてしまったのです。ですから、気温は極端に上がったり下がったりしました。その後天使は、私たちをここに閉じ込め鍵をかけました。その上、私たち自身でこのような環境を作り出して、生まれたり死んだりしているのです。仏陀が私たちをこちらに閉じ込めて、呪文を書いたおふだを張りつけたのですが、それでもなお私たちを毎日観察して上へ来るのを妨害しています。ですから、一人で瞑想を試みて解脱を願っても、結果は悪魔にとりつかれてしまうだけです。悪魔とは誰でしょうか。つまり守護天使です。私たちが上へ逃れようとするのに気づくと、彼らは私たちが再び革命を起こしたり、戦争をしていると思い、下へ落とします。戻ってくると、ぼんやりして気が転倒して誰が誰だかわからなくなり、頭がふらふらしてしまいます。私たちはそういう人を悪魔にとりつかれたと言います。
彼らは私たちが上へ行くことを許しません。もし、そこから出ようとすると、革命を起こそうとしていると思い、すぐに行動します。宇宙を消滅することは許されません。私たちはずっと観察されているので、開悟したマスターの指導なしに一人で上に行くことは不可能です。けれども一部の誠実な人のために、仏陀はいつもチラシを配っています。「私たちはみなさんがどこに隠れているか知っています。早く降参して出てこないと時間がありません。仏陀はみなさんを許しています。これが最後の警告です!」ある一部の仏陀は外に出かけていってポスターを張り、チラシやサンプル本を配り、私たちを啓発しています。一部の人は本当に後悔し、生死から解脱して関門を通り抜けたいと思っています。私たちが誠実であれば、申し込みをしてから三か月間菜食をした後、仏陀は受け入れてくれます。つまりこれが印心です。その他の人たちは解脱することはできません。私たちがこの世にいることは犯人と同じです。犯人の一部は比較的善良で、心はまだそんなに悪くありません。罪がまだ軽く後悔の念がありますので、態度が良ければ弁護士が来て釈放してくれます。私たち印心した人はこのような段階
にあります。本当に誠実にこの刑務所を抜け出すことを願えば、仏陀はドアを開けて連れ出してくれます。他の人はだめです。いつか懺悔をするか、原子爆弾の製造をやめたたなら可能です。本当に懺悔し、本当に生死の解脱を望むごくわずかなまれな人だけが、この形のない関門を通ることができるのです。
ですから、私たちは出ていくことができません。自分でこっそりと逃げようとして、警察に連れ戻されるとさらに悲惨です。もっと小さな独房に入れられ、立つことも座ることも困難で話すこともできません。同様に自分で解脱してみようと思う人は、もっと悲惨です。以前に比べてもっとおかしくなります。もともと以前は少し常識がありましたが、自分勝手に瞑想した後は、手や足で印を結ぶようになり、わけのわからない話をし始め、精神的におかしくなり、頭脳は破壊されてしまいます。私たちは犯人と同じです。もしもこっそりと逃げて警察に捕まったらさらに悲惨です。普通の犯人よりも厳しく扱われます。閉じ込められた上に手錠をかけられ、もっと小さな独房に入れられます。立つことも座ることもできず、とても暗くて明かりもありません。罪が非常に重い犯人は、そのような監房に閉じ込められ、誰とも話すこともできません。逃げ出す前に比べてもっと悲惨です。私たち印心した人は、出ていきたいと誠実に願っています。万が一、みなさんが不誠実で仏陀をだますと、再び閉じ込められます。仏陀には何の損もありません。私たち自身が損をするだけです。
毎日二時間半の瞑想は、つまり自己に注意を促すためです。私たちが誠実に解脱したいと願っていることを仏陀にわかってもらうためです。仏陀は毎日そのことを覚えているかどうかテストしているのです。みなさんは一度だけ「解脱したい」と言いました。一度言っただけで何になりますか。何も証明できないのでだめです!ですから、毎日言わなければなりません。その理由は、以前私たちは非常に悪いことをしたので、仏陀は現在の私たちの気持ちが誠実であるかどうかテストしているのです。毎日二時間半「私は解脱したい。私は解脱したい。本当に解脱したい。解脱することに決めました」と唱えなければなりません。たとえば、私たちが誰かと結婚したいと思うのと同じです。ただ、「あなたと結婚したい」と言うだけでは足りません。続けて行動することが必要です!プレゼントを贈り、毎日「私は本当に結婚したい。結婚したい。私は必ず結婚する」と唱えます。さらに婚礼の準備を進めて、相手にあなたの気持ちをわかってもらいます。一直線に前進し、一歩一歩進んでいくべきです。同様に私たちは、毎日二時間半の瞑想が必要です。私たちは仏陀と結婚できるまで唱え続けます。
悪魔のリンゴを食べてはいけません
アダムとイブはたった一個のリンゴを食べただけで、こんなに深いカルマを作ってしまいました。私たちが今までどれくらいたくさんの物を食べてきたかということについて、考えてみたことがありますか?牛、馬、鶏、鴨、豚、何でも食べています。二人と比べて、こんなにも多くのカルマにどのようにして耐えたらいいのでしょうか?アダムとイブはたった一個のリンゴを半分づつ食べただけなのに、天国からこの世の中に落ちてきました。毎日非常に苦労して、やっと食事にありつけるという状態になってしまいました。そして、世々代々子孫はこのカルマを受け継ぎ引きずって、さらに自分自身のカルマを増やしていきます。それは、もし私たちが口にするものが、神からの贈り物でなければ、すべてカルマがあるという意味です。その代償は考えられないほど高く、利息はとても高いのです。ですから、私たちは毎日物を食べる前に、神に供養して聖名を唱えなければカルマを洗い流すことはできません。そうでなければ、私たちは悪魔のリンゴを食べたことになり、とても高い代償を払うことになります。
そのリンゴも神が作ったものであり、それはエデンの園にあります。どうして他の物を食べてもカルマがないのに、このリンゴを食べるとカルマがあるのでしょうか?同じ神からの物なのに、どうしてこんなに代償が高いのでしょうか?その理由は、このリンゴは神が彼らに与えたものではなく、彼らがこっそりと食べたので加護のパワーがないからです。彼らは悪魔の話を聞いて食べたので、当然悪魔の加護のパワーを貰うことになります。神は、彼らをひどい目にあわせたかったわけではなく、本当に厳しく処罰しなければならなかったわけでもありません。悪魔の物を食べると悪魔になります。少なくとも悪魔の部下、道具、親戚、友達となり、それによって神の友達という地位を失ってしまうのです。
もし彼らが、神にひとこと言えば、恐らくこのようにはなりませんでした。神はたぶんこのように言います。「あなたたちがそんなに食べたいのなら食べなさい!」神にできないことはありません。ただこっそりと食べたので、悪魔の加護のパワーを貰い、災難を受けただけです。同様にあなたたちが、マスターについて修行をするのなら、毎日二時間半の瞑想をし、菜食を続けなければなりませんが、それはそんなにたいした負担ではないはずです。他の人でも一日一食しかとらず、それも菜食で、豪華な家に住む代わりに、洞窟にこもって毎日18時間も瞑想していますが、それでもそんなには効果はありません。あなたたちは二時間半しか瞑想していないのに、それほどたいした効果があると思いますか?一日、三、四、五、六食食べて菜食だと言っていますが、肉を食べることに比べ消費量はずっと多いはずです。
けれども、なぜあなたたちは利益を貰えるのでしょうか?それは加護のパワーがあり、正当であるからです。あなたたちを受け入れてくれる人がいます。仏陀は証明します。「OK!あなたたちはこのようなことをしなさい。そうしたら私はあなたたちにあれこれしてあげますから」もしあなたが、自分一人で黙ってやっても何をやったか誰がわかりますか?例えばある社長が大きな店を持っているとします。彼はあなたを雇い、仕事を任せます。たとえあなたが二、三日商売にならなくても社長はあなたに給料を払います。その内容は、社員になって毎月いくら給料を払い、保険があり、安全を保障し、定年になったら退職金を支払い、病気になったら治療費を支払うようなことです。契約をしたら仕事が始まります。たとえ仕事ができなくても関係ありません。病気になっても、災難にあっても、仕事にならなくても同様に給料は貰えます。もう一人の契約をしていない人は、一年、五年と店で働いても、どうしようもありません。朝から晩まで寝ないで働いても、何になりますか?何にもなりません。彼は勝手に働いても誰も気にかけてくれません。同様に、この世界にはわずかですが、神から来ている系
統が残っています。一部の人はその神の代理として働いています。もし、私たちが彼らと通じると、彼らは私たちを紹介してくれるので、神との関係ができます。もし私たちが他の人の後につき、またはサタンのような悪魔について仕事をすると、たとえ私たちが同じようなことをしてもさらに苦労するばかりで、まったく無駄です。私たちが利益を得ることができるのは、もうひとつの系統につながっているからなのです!
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