ここでは布施について語っています。このマスターは言いました。
あなたが自分の財産を差し出したとしたら、
それは些細なことで、大したことではない
あなたが自分を差し出したとき、
それこそ本当の布施である
私はどうやって自分を差し出せばいいのかわかりません。あなたたちは知っていますか?まず、彼がどうしたのかを見てから説明しましょう。
あなたの財産は
あなたが持っていたいものばかりである
明日必要になるのを恐れ、しっかりと持っている
ところが、明日何も起こらないだろう!
明日は私たちに何をもたらしてくれるのか?
まるで用心深い犬のように
骨を砂の中に埋めて
広大な砂漠に、跡形を残すこともない
そのあと、主人と山のお寺に参り
帰ってから、どうやって骨を探し出すのだろう?
私たちは明日何か必要になるだろうと恐れているのか?
その恐れは本来何のパワーもない
恐れること自体にパワーがある
私たちが恐れるとき、その恐れが一番危険なのです。私たちが恐れて何か起きたことが危ないのではなく、恐れることが発生することより危険なのです。それは私たちに勇気がないからで、勇気がないことは、何か起きるかもしれないということよりも危険なのです。というのは、私たちが心配していることが起きない可能性もあるからです。私たちが恐れているときは、それが起こっても起こらなくても、すでにとても苦しんでいて、何も起こらないうちに苦しんで死んでしまうかもしれないのです。もし、二週間前から「あなたは二週間後の日曜日に銃殺される」と知らせたら、その人はこの二週間とても悩むことになります。最後の日に知らせるのが最もいいのです。その必要もありません。つかみだして、銃殺すればいいのです。どうせ彼は死ぬのです。そうすれば、彼の苦痛はずっと続くことはありません。まるで毎日銃殺されるかのように、毎日恐怖や挫折、苦悩や悲痛を体験しなくてもすみます。
私たちが恐がったり、恐怖を感じるときは、
井戸に水が満ちあふれていながら、
ある日この井戸が干上がるのを恐れるようなもの
自分がのどが渇いて死ぬのではないかと
ここ中国にも「杞人憂天」という故事があります。彼は毎日憂い、悲しんで、いつか天が崩れ落ちてきたらどうしようと恐れていたのです。
ある人たちは少しものを差し出す
けれども、そのとき心の中に隠された欲望があった
人々から、心優しいと認めてもらいたい、
人々から、讃美の言葉を聞きたいと
だから、彼がいくら財産を差し出したとしても、純粋ではないのだ
これは仏教の「本当の布施とは、布施しないことこそ本当の布施である」に似ていませんか?この人はレバノンからアメリカに渡った人で、彼が言ったことは東洋の教理とそっくりです。これはどんな大開悟者もみな大体同じことを言っていることを示しています。イエス・キリストもこう言いました。「あなたが施しをする場合、右の手のしていることを、左手に知らせるな」と。左手にも知らせないのです。
ある人たちは少ししかものを持っていない
けれども、彼は何でも人に与える
この人たちは人生を信じ、神を大変信じている
神や人生はいつでも、何をも不足させないと信じているからだ
すべては永遠にあると、明日足りなくなるだろうことを心配しない
この人たちのタンスは永遠に空になることはない
それは神の愛をとても信じているからだ
人生において必要なものは永遠に満たされると信じているからだ
この人たちは何かを与えるとき、誠心誠意で差し出し、
喜んで差し出すことができ、後悔しない
彼がものを差し出すとき、そのうれしさと喜びは自分で得た褒美である
私たちの中の何人かは、人に何かを与えるとき、その見返りを求めるのです。彼はここでこう言っています。「私たちが喜んで差し出したとき、そのうれしさ、喜びの気持ちが自分への褒美で、本当にいい気持ちである」。私たちが何かをあげたとき、人を助けたとき、人を喜ばせることができたとき、私たちもいい気分です。飛び跳ねて踊り、歌をうたい、とてもいい気持ちになるのです。
ある人たちは、他の人にものを差し出すとき、
とてもつらく、悲しみがこみ上げてくる
この種の感覚はこれらの人たちにとっては洗礼である
たぶん、彼らはだんだんいい気持ちになるでしょう。あげるときは初めとてもつらく、悲しみがこみ上げてきます。でも、何も感じないよりはいいでしょう。(聴衆笑う)この意味は、だんだん変わってくるということで、一回目に差し出すときは切なくて、二回目は慣れて切なさが少なくなります。(聴衆笑う)三回目はまた、切なさが少なくなり、四回目は習慣になり切なくなくなります。五回目はうれしくなり、楽しくてするべきことをして、何も言うことありません。徐々に学ぶことです。
私たち、瞑想をする人もそうです。ある人は七日間座禅するために、ある人は仏陀になるために、ある人は他の人のために、ある人は奥さんのために、あるいはご主人について行くために、ある人は家にいても他の同修たちがみんな出かけてしまって、何もすることがないからという理由で禅七に参加するのです。(聴衆笑う)家にいてもおしゃべりの相手がいないので一緒に来ました。けれども、一回目は今言ったようでしたが、二回目からは少し良くなり、三回目は「ああ!そうだ、みんな瞑想をしている。私たちもしましょう。いいか悪いかなんてどうでもいいから」ある人は外に出て、おしゃべりをしたかったのですが、みんな瞑想に励んでいるので、彼もどうしようもなかったのです。(聴衆笑う)徐々に学ぶことです。ですから、禅七は毎回有益なのです。たとえ私が何も講義しなくても、あなたたちを驚かすような、天地を動かすようなことを何もしなくても、あなたたちが瞑想に励めば、自分のためにとても良いことなのです。
ある人たちはものを差し出すとき
うれしいのか、苦しいのかわからない
彼は喜びを追求しない
彼はものを差し出すとき、あまり気にしない
大きな功徳だとは思わない、布施の功徳を気にしない
この人たちが布施をするとき、
まるでバラや野の草花が山奥に咲いていて
その香りが、自然に大空に送り出されるようだ
彼は何も考えていない
この人たちの手を通じて、神は私たちに本当の贈り物をくださる
この人たちの口を通じて、神は私たちと対話する
この人たちの目を通じて、神は本当に世界の人々にほほえむ
本来、人は口で微笑みます。どうやって目で微笑むのでしょう?すてきな言い方ですね!そうです。相手の目を見れば、その人が私たちに微笑んでいるのがわかります。ですから、恋愛中はみんな目を見つめ合うのです。(聴衆笑う)
もし、誰かが何か欲しいと言ったら、
私たちは差し出すべきだ
けれども、何も言われずに
私たちが差し出したら
それはもっとよいことである
でも、差し出すときは理解の上でしなければなりませんし、盲目的に与える必要はありません。その意味はこうです。必要としている人を見たら、その人の必要なものを知り、頼まれる前に与える、こうすればいいのです。けれども、なぜ与えるのかを理解する必要があります。単に私たちはものがたくさんあるから、盲目的に与えてはいけないという意味ではありません。ある人は遠慮して言いにくいのです。ある人は私たちがそのようなものをくれるかどうかもよくわからないからです。なぜなら、私たちそれを持っているかどうかも、そしてそれをあげたいかどうかよくわからないからです。私たちのことを信じていいのか、私たちにこれらのものを求めていいのかと思う人もいます。それは私たちが彼らの友達、覚えている人、知人ではないからかもしれません。誰が必要としているのか、本当に必要なのかを見て差し出します。そして、すぐ忘れたほうがいいのです。
惜しみない人は、必要としている人を探し、そしてその人たちに与えます。この人たちの楽しくうれしい気分は、もらった人より百万倍も大きいのです。自分にとっておかなければならないものなどあるのでしょうか?彼はこう問いかけ、そして言いました。
私たちが抱え込んで、
自分のためにとっておくことに、何の価値があるのか?
あなたが持っているいかなるものでも、
ある日、あなたはみな差し出さなければならない
だから今、布施し、与えなさい
布施の季節を自分のものにしなさい
後継者のものにするのではない
あなたが今布施をすると、布施の功徳はあなたのものだという意味です。なぜ人に譲るのですか?でも当然のことながら、布施をするときは功徳を考えてはいけないのです。なぜ、人にこの楽しみと喜びを譲るのですか?なぜ隣の人に譲るのですか?なぜ自分ではないのですか?
あなたはいつでも与えることができると言う
けれども、価値があると思う人にだけである
あなたの庭の木はそうは言わない
また、動物もそう思っていない
彼らが与えるのは、生きたいからだ
もし、私たちが何かを抱え込んで
ずっと持っていたなら、
それは私たちが滅亡することを表している
これも理にかなっています。私たちが新店(台北郊外の地名)にいたとき、そばに農夫が住んでいました。彼らはみかん園を持っていて、しばしば友達をみかん狩りに誘いました。私たちも招待してくれました。私たちは彼らに何もしてあげていないのに、どうして彼らの果物を採ることができるでしょうか?彼らは言いました。「マスター、みかんを採りに来てください。あなたがたが採ってくれないと、来年もたくさんみかんがなりません」それで、彼らは私たちに採りに来るよう頼むのです。
神はいかなる人でも、もう一日、もう一晩生かしてくれる
その人はあなたが布施をする価値がある
彼の言っている意味はこういうことです。いかなる人もみな価値があり、その人が生きているなら、あなたは布施をする価値があるということです。あなたは誰に価値があるのかどうかを区別しなくていいのです。神がその人にもう一日、もう一晩与えてくださるのなら、あなたはその日、その晩に差し出すことができます。ありとあらゆるもの差し出しても構いません。
誰でも人生の大海原で泳ぐ価値があるのに、
あなたのその自分の小川で泳ぐ価値はない
彼の言う意味はこうです。私たちが少し差出しても関係ないでしょう?ほんの少しですから!神がくださったものはたくさんです。神が彼らに命を与えたら、世界全部をくださったことになります。私たちは少しのものしか差し出していないのです。誰に価値がある、誰に価値がないなど、言うまでもありません。とてもすばらしいですね!
誰に価値があるかどうかに係わらず、
受け取る行為は功徳に値する
他の人がくれたものは受け取らなければならない
それが一種の功徳であり、一種の勇気であり、惜しみないことである
どうでしょう。それで私たちが自分の我執を忘れなければならないのです。自分の名誉を忘れ、別け隔ての心を忘れてこそ、人のものも気軽に受け取れるのです。ですから、彼は受け取る人には惜しみない心があり、布施の心があり、勇気があると言っているのです。見事です。(聴衆拍手)本当、私たちが人にものを与えるとき、その人が受け取らないととても悲しくはありませんか?(聴衆「はい、悲しいです!」と答える)それで、彼は必要かどうかに係わらず、私たちを喜ばせるために仕方なく受け取るのです。私たちが喜んで差し出したいとき、彼は受け取り、私たちはうれしくなるのです。ですから、受け取る人はとても惜しみないのです。(聴衆笑い、拍手)先ほど言ったように、誰でも価値があり、私たちのものを受け取ってくれることで、すでに価値があり、勇敢なのです。もし、私たち誰でも価値ある人ではないと思うのなら、彼はこう言ってます。
しかし、あなたは自分に「あなたは誰?」と問いかける
人に自尊心を取り除かせ、
彼のどこに価値があるのかをわからせることに価値がある
どうして彼はあなたに自分の価値のあるところを報告しなければならないのでしょうか?すてきな言い方ですね!彼はなぜ、自尊心を無視してあなたに言うべきなのか。あなたに赤裸々の部分を見せなければならないのか。本当にすてき!彼は見事に書いています。
私たちはまず、自分を見るべきである
布施の良い道具としての価値があるか
実際に、
この命、この愛、
自分で自分に与えている
私たちが与えたのではない
私たちは自分自身が与えたと思っている
実際、私たちは証人にすぎない
私たちはそこで見ているだけで、まるで芝居を見ているようです。私たちを通じて、神が与え、愛が与えたのです。私たち本人が与えたのではありません。というわけで、私たちはそこで、誰に価値があるかどうかに関係なく、自分が布施の道具として価値があるかどうか注意しなければなりません。とても立派ですね!(聴衆「はい」と答え、拍手)
受け取る人たちに対して、
誰が受け取る人であると言わなくてよい
みな乞食であり、みな受取人である
そうです!私たちはどこから来て、何を与えたのですか?私たちが生まれてきたときは、一糸まとわなかったのです。ですから、彼はこう言いました。
まだあなたたちは受け取る人である
実際、みんな受け取る人である
重々しく、感激の気分をつくりだしてはいけない。
もしそうすれば、私たちは自分に重圧をかけることになる
そして布施した人にも、大きな負担をかける
彼は恩義があると思う
実際、これはみな神の生命力が与えたものだ
受け取る人と布施する人は、
その贈り物を翼にして、一緒に飛び上がるべきである
レベルアップするという意味なのです。
もし、あなたが贈り物をくれた人の恩を、毎回覚えているなら、
その債務を覚えているなら、
あなたが布施した人の心を疑っていることだ
布施した人が理解すべきことは、
大地は彼の母親で、天は彼の父親であるということである
彼自身に何かあるわけではありません。与える人の心はこんなに惜しみなく、こんなに理解しているのです。もし、もらった人がずっと債務を気にしているなら、非常に感激し、その恩が忘れられないなら、それはもらった人があげた人の寛大で惜しみない心を信用できないということになります。(聴衆拍手)いい気持ち、いい気持ちですね。これを聞いてから、自分の心を量ってみて、自分がこのレベルに達したかどうか見てください。達していれば、とても気持ちよく、達していなければ、はい上がらなければなりません。その山の頂上まで。私たちがものを与えるときは、楽しくもつらくもありません。何の目的もなく、あげたいからあげるのです。与えるということは神の布施の道具になり、栄光に輝くということです。
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