エルサレムの近くの丘の上に、ラマタイム・ツォフィムという村がありました。エルカナという男が住んでいて、二人の妻がいました。一人はぺニナといい、たくさんの息子や娘がいました。もう一人の妻ハンナは、子どもが一人もいないことを悲しく感じていました。彼女は、夫が自分の方をより深く愛してくれているとわかっていましたが、それでも辛かったのです。
毎年、エルカナは家族全員をシロという所に連れて行き、神に祈りを捧げました。礼拝の後、彼らは寺に集まりパーティを開きました。たくさんの子どもを持つ妻は、子どもたちに囲まれていましたが、ハンナはいつも一人ぼっちでした。
もう一人の妻がたくさんの子どもたちに囲まれているのを見て、我が身とひきかえハンナはさらに悲しくなりました。大宴会が終わると彼女はその場を離れ、一人で片隅へ歩いて行きました。とても辛かったので、心の中で彼女は、自分は大変悲しいのだと神に囁きました。それから彼女は「もし私に子どもを授けて下さいますなら、その子の一生を神におささげします」と言いました。
神は、ハンナの願いを聞きました。ちょうど私たちの願いを聞くように。けれども、祭司エリは彼女を見たとき、酔っ払っているのだと思いました。彼女はこう言いました。「祭司さま、私をふしだらな女だと思わないで下さい。酔っ払っているのでもありません。自分の不幸な身の上を嘆いているだけなのです」それで彼女はエリに事情を話しました。「もしあなたが心を落ち着かせたいのなら、子どもを与えて下さるよう神に祈りなさい」と、エリが言いました。それを聞いてハンナは涙を拭き、家に戻ると気分が良くなりました。
神は本当に彼女の願いに応え、とても可愛い子どもを授けました。彼女はサムエルと名づけました。「この子が少し大きくなったら、シロに連れて行き出家させます。彼は神に仕えるために一生そこにいるのです。これは私が神に約束したことです」と、ハンナが言いました。彼女は本当にその約束を守り、後にその子を祭司エリの所へ連れて行きました。「この子が、私の願いに応えて神が与えて下さった子です。それで、神にお返ししたいのであなたに預けます。彼の面倒をみて、神に仕えるよう訓練して下さい」と、彼女は言いました。数日後、サムエルをエリの所に残し、家族はラマタイム・ツォフィムに戻りました。
ハンナにとって、自分の子どもと離れ離れになるのは、大変辛く難しい決断であることを、神は知っていました。けれども、神は彼女を失望させませんでした。しばらくして、母性愛を発揮し、より多くの子どもの面倒を見られるように、神は彼女に三人の男の子と二人の女の子を授けました。毎年彼らがシロに行く度に、ハンナはサムエルに会い、手作りの服を与えました。
サムエルは誰が見ても好きになる、とても可愛い子に成長しました。祭司エリは、今ではだいぶ年をとっていたので、自分の子どもたちを神の寺院に仕えさせるため、急いで準備しなければなりませんでした。けれども、エリの子どもたちは父親と違って欲張りで、その上神に対する愛や尊敬の気持ちもありませんでした。エリの子どもたちのような者には、祭司の仕事は任せられないと、神は彼に警告しました。「私が祭司を選ぼう。祭司は私に忠実で言うことをよく聞き、要求することをすべて成し遂げなければならないのだ」と、神は言いました。
ある夜、サムエルが神の寺院の中で寝ていたとき、何かに起こされ、誰かが自分の名を呼ぶのが聞こえました。サムエルは、真っ先にエリの所に駆けつけましたが、その老祭司は彼を呼んではいませんでした。同じようなことがもう一度起きました。サムエルはエリに尋ねました。「お呼びでしょうか? 私はここにおります」けれども、エリは彼を呼んではいませんでした。
けれども祭司は、神がサムエルを呼んだに違いないことを知っていました。その声が三度目に聞こえたとき、サムエルは返事をました。なぜなら、その声がもう一度聞こえたときどうしたらいいのか、エリが彼に教えていたからです。「お話ください。あなたのしもべは聞いております」と、サムエルは神に言いました。すると、神はサムエルにこう言いました。「私はエリの子どもたちを処罰したい。彼の家族からは一人も祭司になることは許さない」と。
翌朝、神はお前に何を言ったのかとエリが聞いたとき、サムエルは昨夜神が自分に何を言ったのか、エリに話しませんでした。老祭司に命令されて、サムエルはしぶしぶ話さなければなりませんでした。話の内容を聞き、エリはとても辛く感じましたが、こう言いました。「神にとって正しいことをしていただきましょう」
しばらくして、イスラエルはぺリシテと戦いを始めました。イスラエルはある特別な箱「約櫃」を、シロに持っていきました。その箱の中には神のパワーが入っていて、彼らはこの箱が戦場で幸運をもたらすだろうと考えたので、エリの二人の子どもが、その箱を戦陣に持っていきました。けれども、その箱は何の役にもたたず、ペリシテは依然として勝ち続けていました。それだけでなく、彼らはその聖なる箱を奪い取り、エリの子どもたちを殺してしまいました。エリは今ではとても年をとってしまい、両目はほとんど見えませんでした。彼は敗北のひどい知らせを聞くやいなや、その場に倒れ首の骨を折って死んでしまいました。
ペリシテ人は栄光のうちに都に戻り、その聖なる箱を勝利のシンボルとして、ダゴン(ペリシテの神)の寺院に置きました。翌日行ってみると、彼らの神ダゴン像は、聖なる箱の前に倒れ、鼻は折れていました。彼らがその像を元の場所に置いたところ、翌朝再び倒れ、今度はばらばらに壊れてしまいました。そして疫病が都中に広がったので、人々はとても怖がり、「イスラエルの神が働き始めた。早くこの聖なる箱を返そう!」と、言い合いました。
それで彼らは箱をガトという所に送りましたが、それでも疫病は絶えませんでした。今度は、ペリシテ人はとても不安になり混乱しました。彼らは魔術師や祭司と相談しました。「一刻も早くこの箱をイスラエルに返さねばならない。それといっしょに、神に捧げる物も用意しなければならない」と。今、彼らはイスラエルの神を恐れ、無限のパワーを持つ本当の神であると信じたのでした。
この民族の賢者はこうアドバイスしました。「我々の安全のためには、この方法しかない。以前神がエジプト人に為したことを忘れるな!」と。そこで彼らは荷車の上にその箱を置き、二頭の雄牛に引かせるという方法で運ばせました。そして、彼らは何が起こるかを見守りました。
二頭の雄牛は良く飼い馴らされていて、まるで以前に訓練されていたかのように、箱を乗せ国境を越え、イスラエルのベト・シェメシュという村に向かって、まっすぐ進みました。彼らが村に着いたとき、人々は神の聖なる箱が返されるのを見て大変喜びました。この出来事により、ペリシテの人々は、イスラエルの神こそ崇拝するべきであることがわかったのでした。
この物語のどこが最も感動するところかわかりますか? 子どもを大変欲しがっていた女性の部分です。子どもがいないため彼女は大変孤独で辛く、その上他の人にいじめられました。彼女は神に向かって泣きました。そしてあんなに欲しがったにもかかわらず、子どもを産んだ後神に捧げました。誰かが自分の子どもを神に捧げるのを見ると、私は大変感動します。大変純粋な心を持つ人でなければそういう事はできません。もし私たちだったらそういうことはできなかったでしょう。なぜなら長年の思いでやっと一人の子どもを得たのに、神に捧げるなんて本当に大変難しいことです。けれども、彼女が子どもを捧げたので、代わりに五人もの子どもを得ることができたのです。
ですから、私たちは欲張ってはいけない、と言われるのです。なにかを得たとき、それが自分に属するべき物である、というように思ってもいけません。必ずしもそうとは限らないのです! 神を忘れないことです。そうすれば私たちはすべてを得ることができます。もしなにかを欲しがるなら、万物は神の物であることを知らなければなりません。神が私たちにくださったとき、それが自分の物であると考えないことです。もし私たちがそれを使う必要があるなら使いなさい。他の人が使う必要があるなら、彼らに分けてあげましょう。神にすべてを捧げることが最高のことです。捧げれば捧げるほどたくさん得られるからです。
ちょうどこの物語の女性のように、彼女は「私はこの子を神に捧げますが、さしあげる必要はありません。心の中で捧げるだけで十分です」と、言うこともできました。私たちはいつもこう言うのではありませんか。「心があれば十分だ、神は私の真心をわかっているはずだ。どこにいても同じことだ。私の子どもはここにいても神のものだし、私のそばにいようとどこにいようと神のものだ! それなら私のそばに置けばいいでしょう。神は偏在している。神はどこにでもいるのだから、私に供養する心があるということを知っているはずだ!」と。
同じではありません。なぜなら母と子の間の愛は非常に深いからです。実際に子どもと離れ離れになるのとは違います。その上、自分の気持ちを抑えて神に子どもを捧げるのとは、まったく違うのです。「心の中で言えば十分だ。彼はどこにいようと神のものだ。寺にいても家にいても同じことだ」とは、言えません。同じではありません。心から完全な供養をするときと、ただ言うだけとは違います。心を捨てられるのと捨てられないのとは違います。ですから神が感動し、五人の子どもを与えたのです。もともと彼女は一人の子どももいなくて絶望的でした。それが結局六人にもなったのです。
このことは子どもに関することだけでなく、すべてに関して同じことが言えます。もし私たちが欲張りでなければ、何でも捨てられます。そしてその後、もっとたくさん得ることができます。これは私の個人の体験です。あげたり、与えたもので戻って来ないものはありません! その上、それについて考えることさえないのに、戻って来るのです。本当に自然に戻って来るのです。
以前にみなさんに話した物語と同様です。ある農夫が畑を耕していたとき、一つの壷を掘り出しました。それを開けて見ると、何と本物の金で、きらきら光っていました。農夫はその壷を横に置き、畑を耕し続けました。その後家に戻り、妻に「おい、知ってるか? 今日わしは金の壷を掘り出したんだぞ。中には金貨がいっぱい輝いていたんだ」と、言いました。
「どこなの? どこ?」と、彼の妻が聞きました。
「まだ畑に置いてある。それを掘り出してそばに置いてきたんだ」と、彼が答えました。
「あんたは本当に馬鹿だ。どうしてそこに置き去りにしたままで、家に持って帰らなかったの?」と言い、彼にがみがみ言いました。
「いやあ! もしそれがわしらのものになる運命なら、自分でここに這って来るだろう。それが玄関に這って来たなら、自分の物だと見なそう。なぜなら掘り出したからって自分の物とはいえないだろう」と、彼が言いました。
多分その人は観音法門を修行していたから、そのように考えたのでしょう。観音法門を修行していない人は、そのように考えません。
妻はそれを聞いて、死ぬほど悔しくなりましたが、彼女は何も言えませんでした。というのは、家から畑までの道のりは遠くて、しかも歩きにくいからです。「大丈夫だよ。もしそれがわしらの物なら、ひとりでに玄関に這って来るはずだ」と、農夫は妻を慰めました。
彼は、本当に這って来るという言葉を使いました。その方が面白いですね。本当は金は這って来たりしませんね。
彼らが話している間、外で二人の泥棒がすべてを聞いていました。もともと彼らは、その夫婦の物を盗むつもりだったのですが、その話を聞いてとても喜んで、もう夫婦の粗末な物など盗む必要はなくなりました。泥棒は急いで畑に走り、金の壷を盗ろうとしました。畑に着くと本当に壷がありました。「なんて幸運なことだ。俺たちは億万長者になるぞ!」二人はしばらくの間、歌を歌ったり、踊ったりしました。それから壷を開けて、中を見ました。なんと! 壷の中は蛇でいっぱいで、一枚の金もありませんでした。彼らは死ぬほど怖くなり、すぐにふたをしました。そして、それを置き去りにして逃げました。
翌朝、農夫は再び畑に出かけました。土地を耕した後、壷がまだそこにあることに気づいて、中に金がまだ入っていることを確認しました。彼はふたをしてそこを去ると、家に帰り、妻に「言っておきたい事があるんじゃ、壷はまだあそこにある、盗まれていなかった。おばあさんよ、あまり心配しないことだな!」と、言いました。
妻は興奮して言いました。「なぜ私はこんな愚かな人と結婚したんだろう。どうして金を家に持って帰らずに、そこで開けて眺めるだけでいられるんですか?」
「慌てない、慌てない! もしそれがわしらの物ならば玄関に這って来るはずだ!」と、農夫はまだそういうことを言い続けました。
そのとき、いったいどうなっているのかと、外で泥棒たちが盗み聞きをしていました。この話を聞いて、彼らもとても怒りました。「蛇なのに金だと考えてやがる! いいだろう、蛇を奴らの玄関まで這わせてやろう!」
彼らは畑に走り、壷がまだそこにあるのを確認しました。ふたを開けると中には蛇がいっぱい這いまわっていました。「よーし、奴らの玄関に這わせてやる!」それから彼らは苦労してその壷を農夫の玄関まで運び、そこに置きました。下に置く前に彼らは中を隅から隅まで覗き、本物の金なのか蛇なのかもう一度確認しました。そしてうまく身を隠して、翌朝のドラマを待ちました。
翌朝、農夫が壷を見つけ「おい、おばあさんよ、見てみろ! 玄関に這って来ると言っただろう!」と、言いました。ふたを開けると金がいっぱい詰まっていました。二人はそれを手に入れ、金持ちになりました。
二人の泥棒は信じられずに、ずっと見ていましたが、ついに我慢できなくなり、夫婦に「どうやって蛇を金に変えたんだ?]と、尋ねました。そのときは、蛇ではなく本物の金で、以前に二人の泥棒が見たときは蛇だったからです。
その後、彼らは事実をありのままに夫婦に語りました。「本当に驚いた。なぜおれたちには蛇に見えたのに、あんた方には金に見えたんだろう?」と。
「いやあ、なぜならそれは壷がわしの物になる運命だったから、そういう現象が起きたのだ。自然に家の玄関に這って来たのだろう! わしは別に欲しがっていたわけではない」と、農夫は言いました。
夫婦は彼らをかわいそうに思い、一、二枚の金貨をめぐんでやりました。そのとき彼らが握ったのは本物の金貨でした。もし彼らが自分たちでふたを開けたら全部が蛇だったでしょう。
なぜ私はこの物語をしたのでしょうか? それは、何をするにしても自然に従った方が良い、ということです。無理に押し進める必要はありません。ですから、一生懸命働いてもあまり稼げない人がいる一方で、金のことに目もくれないのに、入って来るばかりで使い切れない人もいます。これは人間には運命というものがあるからです。
修行者の私たちには神がいます。私たちの最高の知恵、つまり神がすべて私たちの面倒をみてくれるのです。もし私たちが神を信じていれば、私たちの生活は快適になります。どんな環境に置かれても、私たちはとても自由に生き、あまり心配しなくていいのです。
ちょうどイエスキリストが、まもなく十字架にかけられるとわかっていたように、彼は逃げられたにもかかわらず、それを受け入れました。彼ははっきりとわかっていましたので、あらかじめ弟子に言いました。「しばらくたったらお前たちはもう私に会えない!」と。それは楽しいことではないのにもかかわらず、運命を受けいれたのです。私たちには信心、修行がありますので、こういう不快な環境は減らされます。私たちには心の中の慰めがあり、保証、安心感、一種の勇気があるので、より勇敢に問題にむきあえるのです。けれども、この世の避けられない問題から逃げられる、ということではありません。
この世のことはけして避けられません。たとえみなさんの運転技術が一番優れていたとしても、ときには交通事故に遭います。他の人の運転技術が良くないからです。みなさんが酔っているからではなく、他の人が酔っているからです。みなさんの車が良くないときもあります。たとえば、石を踏んでタイヤがパンクしたり、動物がぶつかって来たり、誰かが突然みなさんの車の前に飛び出したりすると、みなさんはブレーキをかけても間に合いません。こういうことは起こり得ます。ですから、人間でいることは本当に難しいのです。もし信心、修行がなかったら、みなさんがどうやって毎日過ごすのか、私には見当もつきません。
なぜみなさんは、私と修行するのが好きなのでしょう? それは、みなさんが利益を得るからです。ちょうどみなさんが病気のときに、手術が必要なのと同じです。痛くても行かなければなりません。その短期間の痛みがなければ、後でそれがもっと悪くなるのですから。手術の後も体を回復させたり、気をつけなければなりません。手術をすればすべて良し、というわけではありません。
同様に、私たちも仕事を通して、自分を訓練する必要があります。多くの経験を積み重ねた後、欲しい物が得られるのです。ですから、修行中いつも楽しいことや、明るい面だけを与えてくれと望んではいけません。それでは面白くもないでしょう。
エデンの園のように、快適で楽しさでいっぱいの所でさえ、アダムとイヴは退屈でした。あまりにも退屈だったので、彼らは蛇の言うことを聞き、意味のないリンゴを食べてしまいました。まずくてなんの味もしなかったのに! 果物があんなにいっぱいあったのに、そのリンゴを食べたのは、いったい何が不足だったのでしょうか? すべて彼らの物でした。食べてはいけないのは、リンゴだけでした。けれども、彼らはそれに耐えられませんでした。あまりにも退屈で、あんなにたくさんの物があったのに、ただ状況を変えるために、まだなにか他の物を欲しがったのです。
ですから、修行していると大変難しいときがあります。わかってます。ときどき信心が減少します。頼んだものが得られなかったとき、神は私たちの面倒を見てくれない、マスターのパワーが保護してくれない、などと思ったりします。そうではありません! ときどき私たちは、自分に良くないことを要求するからです。
ちょうど、神が食べないようにと言った、そのリンゴと同じことです。神は自分のために取っておきたかったのではなく、彼らにとって良くなかったからです。それを食べた後、心が変わり別人になりました。二人とも不純で複雑になりました。何が恥なのかを知り、何が良い、何が悪いかと言い始め、めちゃくちゃにしました。子どものように無邪気で、とても幸せだった頃とは違ってしまいました。
同じ様に、私たちの頭脳は色々な物を欲しがりますが、必ずしもすべてが私たちに良いとは限りません。ですから、たまに私たちがつまらないことを要求し、それがかなわないと「神が世話をしてくれない! マスターが願いを聞いてくれない」と、不平を言ったりしますが、そうではありません! 私は、ルールに従って仕事をしなければならないのです。手術のようなことは避けられません。もし医者自身が手術が必要な場合、他の人に頼んで手術をしてもらいます。彼が最も優れている医者だから、他の人に手術して貰うべきではない、とは言えないでしょう。彼は自分自身を手術することはできないのです!
マスターVimalakirti も、ときどき病気になりました。人々が彼に「どうしてあなたは病気をするのですか?」と、聞きました。「衆生が病気になるから私も病気になるのです」と、彼は答えました。彼は病気をしないわけにはいきませんでした。たまに病気をして、自分が人々と同じであることを、他の人に知らせるのです。さもないとみな、マスターになることは、生死老病というすべての苦しみを避けられる、非常に良いことだと思ってしまいます。そしてみながそういう理由でマスターになりたがります。人間でいる勇気がなくなります。人としての責任や苦しみを避けられると考えるからです。
ですから、マスターと呼ばれる人々のほとんどは、苦しみを負います。彼らは衆生を慰めるために、何らかの病気や苦しみを衆生に見せなければならないのです。みな同じだ! 病気のときに、マスターでさえ病気するのだから私たちごときは当然だ、ということを思い出します。もしマスターが毎日楽しく過ごすと、人々は「彼は鉄か銅でできているのだろう。私たちと違うから修行できるのだ。私はあなたと違うのにどうやって修行できるのでしょう?」と、思うでしょう。同じです。体の構成は同じです。
真のマスターはごく普通で、みなさんと同じように色々な事があります。ただ彼は自分の道具を良い方面に使うことができるだけです。普通の人は同じなのに、あまり良くない方面に使うのです。たとえば、私たちには人間の感情があります。道を得たマスターにも人間の感情がありますが、彼は感情を使って他の人を救い、他人を愛し、自分も同じ感情を持っているので、みなを理解できるということを人々に示します。他の人と同和し、きどらずに彼らと話しができます。話した後には、感情が深くなり、よりたやすく彼らを解脱させることができるようになります。私たち普通の人間は、その感情を使って他の人や自分たちを縛りつけてしまいます。
つまり同じ物でも使い方が違うのです。ちょうどお金のように、たとえば二人が同じ金額を持っているとします。一人はそれを使って他の人を脅かしたり、人妻や美人を奪い取ったり、人々を買収したり、無意味なことをしたりします。一方、もう一人はお金を使って貧しい人を救い、なにか良いことをします。お金の価値は同じですが、使い方が違うからです。
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