マスターの開示
死と悟り
The Supreme Master Ching Hai コスタリカ・サンホセにおける英語の講演 1989年11月22日

夜私は、人がこの世を去った後どうなるかということについて、いくつか考えを述べたいと思います。というのは、私たちはこの世にいる間に、どうすべきかをすでに知っているからです。たいていの人々は、この世から離れた後どうなるのか知りません。私は、いわゆる死という経験と悟りとを、比較してみたいとも思っています。

実際、私たちは死んでもなくなってしまうわけではありません。ただ、肉体的な容貌を変えるだけで、またただほんの短い期間、肉体的な容貌を放棄するに過ぎないのです。あるいはひょっとすると、長い間になるかもしれません。何百年になるかもしれませんし、何日ということも、何千年ということもあるかもしれません。そして、私たちは再びこの世に戻ってきて、肉体という道具を通して、私たちの知恵や経験を表現していくのです。

悟りとは、日々死ぬことである

聖書の中で、一人の聖人が自分は毎日死ぬと述べています。他の箇所では、生き始めるために死を学ぶことが重要であると述べられています。また別の箇所は、もし自分の命を捨て去れば、命を手に入れるだろうというようなことが述べられています。それで私たちが聖書を読んで、そのような文章に出くわすと、とても不思議な気持ちになります。生きるために死ぬことが、どうして可能なのか?人が毎日死ぬことがなぜ可能なのか?私たちが命を手に入れるために、命を捨てなければならないということがありうるだろうか?

みなさんの多くは「死後の世界」という、死んだ人々が再び生き返った話をたくさん集めた、アメリカの医師の本を読んだことがあると思います。その本の中に出てくるほとんどすべての人々は、同じような経験をしています。死んだ後、また肉体を離れた後で、彼らは非常に大きな喜びと自由の感覚を味わっています。トンネルのように見える、ある種の乗り物に乗って、遠く離れた国へ飛んで行くことができ、そこで光と愛と助力に満ちた存在によって歓迎されたというのです。

いわゆる悟りというものを経験すると、私たちはある程度これと同じような体験をします。それで、私たちは「私は毎日死ぬ」というようなことを耳にするのです。悟りとは、私たちがより高い世界の、より高い振動力と結びつくということを意味しています。この宇宙において現在、私たちは唯一の存在ではありませんし、今生での命が、この世界での唯一の命でもないのです。ですから、私たちがいわゆる悟りの体験を得れば、それはその瞬間に、より高い世界と結びついたということであり、ときには光輝な世界にいたときの、私たちの過去の栄光を再体験することがあるのです。

私たちは、いつも人間であるというわけではありません。ときには仏陀であり、天使であり、聖人であり、菩薩なのです。菩薩(ボッディ・サットヴァ)とは、キリスト教用語で聖人を意味します。ただ、サンスクリット語から翻訳されていない言葉なのです。「ボッディ」は悟りを得たという意味で、「サットバ」は衆生という意味です。私たちはさまざまな世界で、いくつもの命を生きてきているのです。ときには、非常に栄光ある知的な世界で人生を送っていました。しかし、この世にやって来るときに、たいていの人々がその過去を忘れてしまっています。ですから私たちが悟りを得ると、ときどきこれらの過去の記憶を思い出して、私たちが本来いるべき場所、やって来た場所に跡をたどって戻って行くことができます。そして、私たちがいかに偉大な存在であるか気づき始めるのです。

これはまさに、一部の人々の臨死体験と同じです。彼らがいわゆる臨死体験を通して進んで行くと、たいていの人々は自分の全人生での体験を、一種の映像によって見ることができます。それはまるで映画のように、彼らの目の前に映し出されます。これらの多くのいわゆる臨死の人々は、ただ単に別の世界へ行って今生の体験を見せられるにすぎません。けれども、悟った人は、何世も何世も戻って行って見ることができ、何千あるいは何十万年も前の経歴や生活にまで戻って見ることができます。そしてそれは、ただ単にこの世界や、今生における体験だけではありません。たくさんの世界です。

ですから、そのような知識を得たあとで、その人は自分が普通の人ではないと気がつくのではなく、仏陀あるいはキリスト意識を持つのです。それで、イエス・キリストが自分を神の子であると宣言し、ブッダが自分を悟った者、仏陀であると宣言したのです。仏陀は、またキリストをも意味します。キリストとは神の意識レベルを表します。仏陀はキリストと同意のサンスクリット語であり、キリストは仏陀と同意語のヘブライ語なのです。もし私たちがこの種の理解と知恵のレベルに達すれば、私たちもまた、自分が仏陀であり、キリストであるということに気がつくでしょう。

もし私たちが、最も高い悟りのレベルにまで達していなければ、一種の死の体験のようなものを経験するだけです。この世を離れて、ある種のアストラル(阿修羅)の世界、またはほんの少し高い世界へ行けるだけです。しかし、もし日々の瞑想や修行を通して、より高いレベルの悟りを得たり、より高いレベルに達成しているとしたら、私たちは、より高い知恵と栄光を表わす水準の世界に到達できるのです。

キリストは次のように言っています。「わたしの父の家には、住むところがたくさんある」。これがキリストが言った意味です。聖書にはまた、ある人が三界の天国に入れたという記録がありますが、天国が何界あるのかは述べられていまん。けれども、もし三界の天国があるなら、二界と四界もあるに違いありません。

同様に、仏教においても仏陀はたくさんの異なった仏国土について述べており、一つの仏国土にたくさんのレベルがあると述べています。たとえば、阿弥陀仏の浄土があります。この地は一番低い所から一番高い所まで、九つのレベルに分けられており、徳や修行の足りない人たちは、最も低いレベルの地に何千年もとどまるのです。彼らは、より高い仏陀や悟った衆生と共に日々学ぶことを通して、最終的に偉大な気づきを得るまで、そこにとどまることになります。そうやって、彼らはまた最も高いレベルまで昇って行けるのです。

これは、たくさんのクラスがある高校のような、私たちの学校と似ていると思います。私たちがいわゆる悟りの経験をすれば、それは死んだときと同様で、ただ一時的に肉体を離れ、そして再び戻ってくるのですが、ちょうどアメリカの医師が本に収めた死の体験と似たようなものなのです。

死の準備

死をそんなにも苦しく、困難なものにしているのは、死の経験をしていないせいです。もし、私たちがどのように死ぬかということを毎日学んでいたら、とても快適なものになります。たいていの人々は、死ぬとこの世を失ってしまうということに、非常な恐怖を覚えるのです。なぜなら、彼らはより良い世界があるということを知りませんし、より美しく、より快適で、より幸福な世界が待っているということを知らないからです。彼らはここでのよく知った環境に執着し、愛する者たちにも執着しているのです。これが私たちを霊体と肉体との狭間で苦しめ、結果的に苦痛を伴うことになるのです。

もし、死ぬということが、単に一種の生まれ変わりであるということがわかったなら、怖くはなくなるでしょう。お迎えのときがくるのを、楽しみにするでしょう。ではどのようにして、その良き日のために準備をするのでしょうか?多くの人々は、誕生や結婚式のために準備をしますが、死のためには準備をしません。実際は、死の方が最も大いなる日なのです。最も重要な日であるべきです。誕生時には、私たちは肉体と限定された自由と非常にゆっくりとした成長過程を手に入れるだけです。けれども、死によって私たちは、より大きな自由、より美しく融通のきく体を手に入れ、より偉大な知恵を得て、より美しい世界に住むのです。休息をとり、学び、進歩し、そして向上するために。

ですから、実際死というのは、私たちの魂の進化を加速させ、私たちがより高い知恵をより速く手に入れるためには、とても有効な出来事なのです。けれども、この状態を死後手に入れるには、この地球で生活をする間、経験を呼びさまし、すべてを慎重に処理して、より好ましく、より道徳的な生き方をするよう注意するべきです。そうすれば、この物質世界を離れるにあたり、何の未練もなく、罪の意識も何の執着もありません。ですから、私たちはとても速く、とても幸福に上昇して行けるのです。

人が肉体を離れるとき、他の障害で痛みを増すということがあります。つまり彼らは、愛する者をあとに残すということで、嘆き悲しむのです。たいていの人々は愛する者が亡くなると泣いて、何か月間も何年も嘆きます。もちろん、理解できます。私たちは愛する者を、良き友を、仲間を失ったのですから。そして、その友がどこに行ってしまうのか知らないのですから。その人の生活がこの世界の後、より良いものか、また誰がその人の面倒をみてくれるかどうかわからないからです。そのために、私たちは旅立って行った魂に対して、悲しんで執着心を起こしてしまうのです。その結果、この感情が旅立った魂を縛りつけ、さらに強い喜びを減少させたり、ある種の自由を制限したりします。

ですから、愛する者が亡くなったときに最もふさわしい方法は、嘆くことではありません。私は、それは困難であるとわかっています。けれども、それがより高度の献身であり、愛なのです。私たちは、魂が物質的な制限から、この「牢獄」から解放されたことを喜ぶべきなのです。そうすれば、魂は自由にどこにでも飛んで行くことができ、たくさんのことを学び、したいと思う多くのことができるのです。けれども、私たちは死後の世界を垣間見ることができないために、友や縁者の死を喜べないのです。

私たちは非常に科学的な方法で、死後の世界を垣間見て学ぶことができるのです。私たちはどのように死ぬか、学ぶことができるのです。私たちはこの人生を越えて、他の多くの惑星、多くの他の境界を見て学ぶことができるのです。そして、この人生のあとで送る人生に、確かな幸福を感じるのです。そしてまた、私たちの愛する者が死んでどこに行ったかも見ることができます。また私たちは、この物質的な世界を去ったあとで、行く場所を選ぶこともできます。この方法なら、私たちは決して死を恐ることはありませんし、誰かが私たちをおいて去って行っても、泣いたりしないのです。少なくとも、たとえ泣いたとしても同じような重荷や、愛する者を失った重苦しさや悲しみを感じないのです。私たちは喜びと感謝で泣くのかもしれません。

私たちの人生は悟ったあとでより積極的になる

私たちが、この世界を越えたそのような経験をするとき、これを悟りと言います。悟りにはたくさんのレベルがあります。資格のあるマスターによって印心を受けるときに、私たちはこの悟りの経験の一部を垣間見ます。この世界を越えたある栄光の世界を見たり、体を離れる体験をして、再び戻ってくるのです。死んだときとまったく同じです。そして私たちは、死ぬということがどれほど快適であるかということがわかり、この世における執着や、悲しみと惨めさなどのあらゆる重苦しい感覚をも失うのです。

ある人々は、他の世界からこの世界に戻ったあとで、彼らがより良い世界を知ってしまったために、この世に対してもはや好意を持てなくなったと言います。しかし逆説的ですが、彼らは命を愛するようにもなります。彼らは憂うつになったり、死にたいと思うわけではないのです。そうではありません。というのは、彼らは生命とは連続している過程であり、決して死ぬことがないとわかっているからです。それが人々に、社会や自分自身に対して、より積極的に、より充実し、有益で、献身的に過ごす努力をすることに、いっそう自信と勇気をもたせるのです。

ですから、私たちは多くの経典を読むと、すべての聖人たちがつねに絶え間なく、人類の利益のために働いてきたことがわかるのです。彼らは、彼らの命を、エネルギーを、知恵を、特に霊的な分野において人類に奉仕するために捧げているのです。キリストの人生をご覧なさい。私たちは、彼が非常に偉大な神の子であったと、あえて言う必要はないのです。彼が聖人であったことは、その人生を見れば十分わかります。私たちは彼が真理を弘法し、人々に神を思い出させるために、毎日大変な困難と貧困に耐えて、あちこちへ行ったということを知っています。彼はそんなことをする必要はなかったのです。みなさんは、彼がパンを増やして、約五千人の人々にふるまったことを覚えているでしょう。そして彼が、水をワインに変えたということも覚えているでしょう。そんな人が貧困に耐える必要などないのです。けれども、彼は人類に奉仕するために、そうすることを選んだのです。人々に真理と神の戒律に目覚めてもらい、惨めさと無知から脱する手助けをするために。

さて、仏陀の人生を見てみましょう。仏陀がカトリックでないなどど言う必要はありません。クリスチャンだという必要もありません。彼はキリストと同じクリスチャンなのです。キリストは仏陀とおなじ仏教徒なのです。それでは、仏陀は何をしたのでしょう?キリストとまったく同じです。仏教の経典を読むと、仏陀が無限の力を持ち、俗世界に住んでいたことがわかります。彼は非常に高い地位の人だったのです。彼は国王にもなれた人だったのですが、すべてを投げうち貧困と困難に耐え、あちこちと旅をし、真理を弘法するために謙虚に食べ物を乞うたのです。彼は食べ物さえ必要なかったのですが、謙虚な行動として、慈悲を表わす行動としてそうしたのです。そうすることで、ほんの少しかもしれませんが、彼に物を与えた人々が、見返りにいくらかの福報を受け取り、施しと無私の奉仕の行動を学べるようにしたのです。キリストも同じです。彼は食べ物を乞う必要がありませんでしたし、誰かに捧げ物をさせる必要はなかったのです。彼は、ただ人々がいくらかの福報と知恵を得られるようにそうしたにすぎません。

これらの聖人たちを、とても無私無欲にしているものは、永遠に続く命の中から知識をつかんでいるからなのです。彼らは悟りから幸福をつかみ取ったのです。彼らはまた、他の人々とこの喜びの経験を分かち合いたいと思っています。というのは、彼らは無知でいることが、いかに惨めであるか、無知から多くの過ちや罪が生じることを知っているからです。この世に罪というものは一つも存在しません。最大の罪は無知であることです。もし私たちが生命の奥深い秘密に気づき、いかに命を愛するか気づき悟ったなら、どんな罪も犯すことはないでしょう。ですから、過ちを犯したり、犯罪を犯してしまったどんな人も非難されることはありません。無知こそが、非難されるべきことなのです。

そういうことで、聖人たちは人々を責める代わりに、いかに無知から抜け出し、いかに自分自身を知り、いかに自らの偉大な知恵を使うかということを教えているのです。私は知恵の使い方のことを言っているのです。すべての人が、自身の内面に隠された知恵を持っているからです。それを私たちは神の王国と呼び、栄光、知識、そして愛と呼ぶのです。私たちの努力であろうと、すでに知っている誰かからの教えであろうと、この神の王国を見つけると、私たちは満足感を感じ始めます!私たちは人生に対して、愛を感じ、積極的な態度をとるようになります。そのために、過去のすべての聖人たちが、人々を覚醒するために非常に熱心に働いてきたのです。そういうことをしていても、彼らはあらゆる種類の非難や誤解や困難、ときには自分の命を脅かすような危険にさえ、耐えなければならなかったのです。

キリストとソクラテス、また仏陀の場合でも、多くの人々が彼らを殺したいと思い、彼らの名を汚そうとしました。けれども、あらゆる困難にもかかわらず、聖人たちは常に人々のために耐えたのです。聖人たちは最も偉大な平和の創造者であり、最も偉大な政治家であり、常に地上に平和をもたらす、玉座を持たない王たちなのです。というのは、彼らはこの世のものは何ひとつ必要としないからです。

キリストは、自らの王国は天にあると言っています。仏陀は地上の王国を放棄しました。彼らは私たちが神の王国と呼ぶ、より偉大な王国を内面に持っていたのです。「まず、神の王国を求めなさい。そうすれば、他のすべてのものはあなたにあたえられるでしょう」まさにその通りです。

私たちが神の王国を手に入れた後では、この世の王国に対して何も望まなくなります。キリストが砂漠で瞑想していたときのことを思い出してごらんなさい。マーヤの王、悪魔、サタンがやってきて次のように言いました。「ひれ伏してわたしを拝むなら、三界の王国を与えよう」

キリストは言いました。「しりぞけ!サタン」

どこかへ行けというという意味です。彼には一つの世界は言うに及ばず、三界の王国さえ必要なかったのです。三界の王国は第三界の天国も含みますが、キリストには必要なかったのです。仏陀が49日間菩提樹の木の下で座っていたとき、いわゆる否定のエネルギーが、あらゆる方法で彼を誘惑しようとして、多くのものを彼に捧げました。しかし、彼は受け取らなかったのです。このように、こういった悟った魂たちにとって、たとえ人々が彼らを王と讚えようが、彼らの王国はこの世の王という意味を持ちません。しかし、世俗的な人々は、人間の頭脳や行動の範囲では普通のことですが、自分たちの無知と嫉妬心のためにこれを理解することができません。

キリストが生きていた当時、多くの政治家が彼に嫉妬し、それゆえに彼を殺してしまったのです。それは彼らがキリストを誤解したためです。もし彼らが、キリストが本当にこの世のどんなものも意に介していないとわかっていたら、彼らはキリストの影響を恐れなかったでしょう。

天国との「電話線」をつなぎなさい

悟りというものは常に必要です。たとえかりに、私たちがこの世界にとどまりたいと思い、天国を望まないとしてもです。中国には、「まず第一に悟れ」という言葉があります。その意味は自分自身を養いなさい、ということです。そうすれば、私たちは次に家全体の面倒をみられます。そうすると、さらに国を良く管理できるようになり、やがては、世の中に平和をもたらすことができるようになるのです。ですから、もし私たちが自己育成の修行をするなら、何ひとつ言葉に表わすことなく、どんな平和会議も開くことなく、世界に平和を打ち立てられるのです。平和は地上にごく自然に雨のように降り注ぐことでしょう。

毎日の生活で、どのようにして自己育成の修行をするのでしょうか?とても簡単です。私たちは戒律を思い出し、それを守るように最善を尽くすのです。もし失敗したら、再び試みます。そうです。常に、助けと導きを求めて神や仏陀に向きあうということです。仏陀というのは、過去、現在、未来において悟りを得たマスターのことを言います。

多くの人々が教会や寺院に祈りに行きます。けれども、ときにこれらの仏陀や神の力に触れるのはとても困難です。それで私たちは、自分たちの祈りは叶えられないと感じてしまうのです。というのは、私たちのつながりがすでに途絶えてしまっているからです。ちょうど電話線がつながっていないようなものです。それなら、たとえ私たちが電話で話したとしても、無意味なことです。ただ騒音を出すのみで、隣人には私たちの声は聞こえるかもしれませんが、私たちの必要とする人には聞き届けられません。友達がとても遠いところにいたとしても、電話線を通してなら、今私がみなさんに話しているように話せるのです。

同様に、たとえば神が天国の非常に遠いところにいたり、悟ったマスターが非常に高く、非常に遠いどこかの仏国土にいるとしても、目に見えないつながりを通して、私たちは彼らと連絡をとり、助けを求めることができます。そのつながりはいわゆる印心、私たちが言う真の洗礼というものを通して提供されるのです。洗礼者ヨハネや、キリストがそうであったようにです。そういうわけで、肉体を持ったマスターが必要になります。そうでなければ、キリストや仏陀、そして他の多くの聖人たちも、この世にやってくる必要はなかったのです。彼らは私たちの求めを知っているので、私たちが彼らの答えを受け取れないからです。ですから、彼らはここにやって来て、天と地のあいだに直接的なつながりを作らなければならないのです。そうすれば、私たちは決して宇宙から切り離されることはなくなるのです。

もちろん、聖人たちがこの世にやって来るときにはいつでも、それほど多くの人々が彼らのもとを訪れるわけではありません。いずれにしても、全世界の人々がそうするのではなく、一部の人が訪るだけです。ちょうど私たちが何台かの公衆電話を持っているようなもので、一つもないよりはましです。それで、たとえ自分の専用電話を持っていなくても、これらの公衆電話を通して他の人々と連絡を取ることができるのです。同様に、聖人たちに従う、より高いレベルの弟子たちは、天と地を結ぶ公的なきづなとして行動するのです。おそらく、そんなに数は多くありません。しかしそれでも、有益です。もちろん、より多ければそれに越したことはありません。

同様にして、もし私たち自身が電話を持っていれば、私たちは直接いつでも天国と接触できます。キリストや仏陀のようなマスターたちは、この種の奉仕、つまり天国との「電話線」をつなぐという奉仕を提供したのです。それで、私たちが祈るたびに答えが返ってくるのです。私たちの修行と理解のレベルにより、直観的に、またはとてもはっきりと目で見たりして気がつきます。ある人々はより高い意識の中にいますし、ある人々はやや低い意識レベルにいます。それは、彼らの代々積み重ねてきたものにもよりますし、今生の修行の努力にもよります。

ある種の病は、たとえそれらが非常に一般的なものであっても治りません。私は、今の時点で薬のない、新しい病気のことを言っているのではありません。というのは、これらの病気が過去世に深く根ざしているからです。そして、医師や科学者たちが、根本にある原因を見つけ出すために、現在の状態を飛び超えて、遥か昔の存在にさかのぼることができないからです。けれども、もしこれらの人々が悟りを得たなら、自分でどのように治療したらよいか気がつくでしょう。彼らは自身の知恵と、それがどうして起きたのかを理解することで治せるのです。彼らは、これを直観的に、または目に見える形ではっきりとわかるのです。これもまた彼らの修行によります。もし私たちが非常に成長した魂であるなら、物ごとをよりはっきりと目に見える形でわかります。もし私たちがいわゆる初心者なら、物ごとをはっきり見ることはなく、ただ直観的にわかるだけです。けれども、私たちの本当の命の実体をたとえ少しでも知るということは、私たちにとってとても助けになるのです。

そういうことで、聖人たちは常に人々を励ましてきました。人は悟りを得るべきである、神の王国、神の力とつながるべきであると強調してきたのです。私たちは、今生でそれをすることができます。私たちは死ぬまで待ったり、苦しみに満ちたいわゆる死と呼ばれるものを経験する必要もないのです。もし私たちが学んだり、天国とつながるために死の経験を待つとしたら、私たちが学びとるものは非常に限定されたものとなり、私たちの理解のレベルはあまり高いものにはならないでしょう。もし、私たちが生きている間に死ぬことを学んだなら、より高い知恵に進む多くのチャンスをつかむことになります。まるで私たちが何か趣味を持つような、新しい科学や新しい教科を学ぶかのように、それを学ぶことができるのです。私たちは他の義務と平行して学んでいけます。私たちは普通の生活や仕事を維持したままで、毎日少しの時間を節約し、この命を超えた科学を学ぶのです。

この科学を学ぶことには、私たちにはどんな学術的な肩書きも、学歴も、どんな経済的地位も必要ありません。すべて無料です。というのは、私たちが得る知恵は、私たち自身にもともと備わっているものだからです。ですから、真のマスターであればだれでも、決して弟子から金銭を徴収しないのです。というのは、私たちが再び見つけ出した自身の宝物だからです。

もし、私がみなさんの家の中に隠された宝物があると知らせたとします。それが私にとって何の功績になりますか?私はその功績を申し立てることはできません。その宝はみなさんのものだからです。私はそれがどこにあるかを知っていて、ただみなさんに知らせるだけなのです。

神の力は現存のマスターを通して働く

神の王国は、私たちの中にあります。仏性は、私たちの中にあります。聖書や経典ではそう言っていますが、本当にその通りです。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿である」もし聖霊が私たちの中に宿っているなら、私たちは彼を見つけだし、彼がそこでいつも何をしているのか尋ねるべきです。どうして私たちを暗闇の中に置き去りにしているのか。どうして私たちの呼び声を聞き届けてくれないのか。どうして私たちの人生の面倒をみて、もっと良くなるようにしてくれないのかと。彼は私たちを助けたくてたまらないのに、私たちは尋ねもせず、間違った方法を求めてしまったからです。

聖書では次のように言っています。「門を叩きなさい。そうすれば開かれる。求めなさい。そうすれば与えられる」みなさんは毎日教会や家で求め続けています。しかしどうして、受け取れなかったのでしょう?それは、キリストが次のように言っていることを忘れてしまったからです。「あなたたちが私の名によって、どんな願いごとであれ求めるなら、私の天の父はそれをかなえてくださる」。神の名によって求めなければならないのでしょうか?そして、次のようにも言っています。「私を通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」。それはキリストが神より偉大であるという意味でしょうか?そうですか?そうではありません。それはただ彼の仕事にすぎません。たとえば私たちが大統領に会いたいと思っても、直接自分で運転をして中に入って行くことはできないのです。私たちは彼の秘書に頼まなければなりません。代理人か、来客の予約を取る責任者にアポイントを取らなければならないのです。そうではないですか?秘書や代理人や責任者が大統領よりも偉いという意味ではないのです。ただそれが仕事なのです。

そうすると今度は、みなさんが私に次のように言うでしょう。「でも、私は毎日キリストに求めています。私たちはカトリックの国ですし、クリスチャンの国です。あなたは仏教徒ですから、私に指図しないでください」と。いいえ、私は仏教徒ではありません。私は「神主義者」なのです。仏教徒もクリスチャンもすべて「神主義者」なのです。私たちはただ神を、さまざまな国でさまざまな名前で呼んでいるにすぎません。ちょうどここでは自分の奥さんのことを「クエリダ」と呼ぶのと同じです。アメリカでは「マイワイフ」と言い、中国語では「タイタイ」と言います。ベトナム語では「ヴォトイ」と言います。ですから、一つの肩書きに、たくさんの名前がつけられているのです。

では、私たちが毎日教会でキリストの名のもとに神を求めても、いかなる恩恵も光も受け取れないのはどうしてでしょうか?それはキリストが物質世界を離れてしまっているからです。彼の仕事はここでは終わってしまっているのです。ですから、私たちはキリストが世を去った後で送り込むと約束した、誰か他の救い主を見つけ出さなければなりません。それらのいわゆる救い主たちはキリストの仕事をする存在です。キリストがやり終えなかった仕事を引き継ぐのです。というのは、キリストはこの世に彼が存在している限り、この世の光となると言っているからです。彼は永遠にこの世の光となるとは言っていません。ただ彼がこの世に生きている間だけと言っているのです。

ですから、彼はあとに救い主を遣わすことを約束したのです。その人は、私たちの最愛なるイエス・キリストに代わり、私たちを慰めてくださることができ、少なくとも同様の能力と水準を満たしていなければなりません。ですから、キリストは彼が去ったあとで、他の光の供給者がこの世にやって来るであろうことを示唆しているのです。それはちょうど、キリスト以前に他の光の供給者がいたのと同じです。それで、ある人がキリストに、彼がそのように偉大な預言者の生まれかわりであるかどうか尋ねたとき、彼は否定しなかったのです。わかりますか?それは、人類に奉仕するために異なった肉体に入った同じ魂、同じ力だからです。ですから、キリストは次のように言ったのです。「わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである」と。そして聖パウロはこう言っています。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」それは、異なった肉体的を通して同じ魂が働いているということです。というのは、すべての悟った偉大な聖人たちは、天の父、神、そして仏性と一体だからです。そういうわけで、ある一定のレベルに達したす べての悟ったマスターたちは、仏陀と称されるのです。それは、彼らが彼らの持っている力を、同じ知恵、同じ能力を平等に分けあっているからです。

もしみなさんの中に、この悟りの経験をしてみたいという人がいるなら、私は喜んでそうさせてあげたいと思います。というのは、私はこの方法で人類に奉仕するという聖伝を、キリストや仏陀から受け継いでいるからです。ちょうどそれは、みなさんが医者やエンジニアや弁護士になって国に奉仕するのと同じです。私は私の方法によって、みなさんの国や世界全体に奉仕するのです。私たちはただ違った仕事をしているのです。私を讚えたり、私の仕事や地位に驚いたりする必要はありません。私は違う教科を学び、違う学校を卒業したにすぎません。それで私は、みなさんとは違う仕事をしているのです。単なる仕事にすぎません!

死と悟り