むかし、ある家族が住んでいました。家長はアブラハムといい、とても良く修行し、神と仲良しでした。ある日、神はアブラハムに、「自分の故郷から離れなさい。この指示に従うなら、汝は大国の指導者になることが約束されるだろう」と告げました。つまり、大国の建国の父になるという意味です。
神はまたアブラハムに、「一人の息子を授け、たくさんの子孫で大家族になるようにしよう。汝の子孫は、星の数のように無数になる」と約束しました。しかし、そのときアブラハムと妻はすでにかなり年老いていたので、神を深く信じてはいたものの、「こんな年寄りに子どもができるなんて、そんなことがあるものか」と、疑問に思っていました。
何年も過ぎ、毎晩アブラハムは星空を見上げるたびに、神との約束を思い出し、「あれは神の冗談だったのか」と思い悩んでいました。ついにアブラハム夫妻は、子を持つことへの希望を失ってしまいました。
神より与えられた子ども
ところが、思いがけず妻は懐妊し、ついに男の子を生みました。二人はとても喜び、その子にイサクという名前をつけました。数年後、イサクは成長し、背が高く壮健でとてもハンサムな子になりました。それで神は、アブラハムを試してみようと決めました。
ある日、神はアブラハムの前に現れてこう言いました。「アブラハム、汝の独り子で最愛のイサクを連れモリヤの地に行き、そこで息子を私に供養するのだ」。供養とは、息子を殺して捧げ物にすることを意味します。古代の人々はこのようなやり方で、神や霊に供養をしましたが、捧げ物は、そのときにより男の子だったり、女の子だったり、牛や、馬や、豚だったりもしました。
この事実がとても信じられないアブラハムは、「たった一人の息子を殺せと言うのは、神の真意なのだろうか。以前神は、私の子孫が繁栄することを約束したのに、今なぜ、この一人息子を殺さなければならないのか」と、自分に問い苦悶しました。しかし、彼はこれまでずっと神を信じることを学んできました。ある人は神に対し半信半疑であるけれども、アブラハムは信心深かったのです。そこで翌朝、たくさんの薪とマッチを用意し、息子を連れてモリヤの地に向かいました。
目的地まで長い道のりを歩いて三日かかりました。ときがたつにつれ、アブラハムの心はますます痛み、苦しみました。心から神を信じているにもかかわらず、苦しみ抜きました。モリヤの地に着くころには、とてもそのことに直面できる心境ではありませんでした。ですから、非常に苦しみました。しかし、息子には何も話しませんでした。アブラハム以外、それを知る人はいませんでした。
息子を神に捧げる
モリヤに近づくと、息子のイサクはアブラハムに尋ねました。「お父さん、僕たちは薪やマッチを用意したけど、神様に捧げるいけにえの羊はどこなの」。その当時の人は、羊を殺し焼いて、神へ捧げたので、どうして薪とマッチだけなのかと思い、羊はどこかと尋ねたのでした。父は、言葉につまって、「心配ない。神様が子羊を用意してくださるだろう」と答えました。
モリヤに着くと、親子は祭壇のような台を作り、その周りに火をつけ始めました。そして、アブラハムはイサクの手足を縛り祭壇に載せ、供養の準備をしました。アブラハムはイサクに言いました。「お前が神様に捧げる子羊なのだよ。神様は、お前をお望みなのだ」そして、息子を殺すための剣を取り出しました。
けれどもそのとき、アブラハムは神が自分の名を呼び、次のように言うのを聞きました。「アブラハム、息子を殺してはならない!私は今、お前の信仰心がとても強く、私を真心で信じていることがわかった。これは単なるテストにすぎない。お前がどの程度、私の指示に聞き従うかよくわかった。息子を殺す必要はない。そこに羊が一頭いる。それを殺し、私への捧げ物とするが良い」その羊は神が造り出したものでした。神が本当に自ら造り出すことによって用意した羊であり、本物の羊ではありませんでした。
そのとき、アブラハムと息子は大変喜び、神に感謝しました。それ以来、神がアブラハムに約束したことはすべて実現しました。アブラハムは、多くの子孫に恵まれました。これでこの物語は終わりです。
みなさんはアブラハムが良い父親だと思いますか。(みな、はいと答える)これほどまでに神を信じられるというのは、大変すばらしいことです。すべての物が神によって創造された以上、神がそれを返すよう求めたなら、神に返すべきです。本来神の物なのですから。アブラハムと奥さんのような人々をご覧なさい。二人ともすでに年老いていて、子どもを授かる希望はなかったのです。けれども、ついには一子を儲けました。とても驚くべきことです。息子は神から与えられたのです。神からの賜り物なのだから、どうして返せないことがありますか。そうでしょう?(みな、はいと答える)
手放すことを学ぶ
私たちの多くは、なぜ苦しみの中に生きているのでしょう。それは、どんなものでも惜しみなく手放すことができないからです。それがたとえボロボロの靴だとしてもです。ましてやそれが、一人息子だとしたら言うに及びません。愛する人や家族との別れは、とてもつらく悲しいものです。これらの苦しみはすべて、人はいつかは死ななければならないこと、誰一人として永遠にこの世にとどまることができないことを、私たちがよく理解していないからなのです。ある人をとても愛していたとして、万一、明日その人が死んだら、愛のために私たちまで一緒に死ぬでしょうか?(みな、いいえと答える)そうです!生きなければなりません。
むかしのラブ・ストーリーに「梁山泊」と「祝英台」(中国のロミオとジュリエットのような有名な物語)の物語があります。その話は二人の主人公が、七回も生まれ変わって、毎回夫婦になりたいと願ったけれども、そのたびに妨害に遭い、最後の一回で障害はなくなったものの、一人は病死し、相手も悲しみに打ちひしがれ、遂には病死してしまいました。その後、二人は二頭の蝶になってしまったという話です。蝶になってようやく誰にも邪魔されないというのでは、大変困った状況です。
ということで、もし私たちが何かに執着すると、私たちの魂は傷つき、自由は制限されてしまいます。蝶でいることは、一見自由に見えます。けれども、私たちの中で誰が貴重な人間の体を蝶に変えたいと願うでしょうか。これらはすべて彼らの強い執着が原因です。恋愛に固執したからです。二人の意思があまりに強かったので、そこで行き詰まって、共に蝶にならざるをえなかったのです。二人はそれほどまでに好き合っていたので、神もあまり厳しくはできませんでした。なぜなら、もし二人が再度人間に生まれたなら、きっとまた苦悩し、また障害に遇うでしょうから!これは彼らの運命がそうだからです。一緒になれないのです!
この種の物語はみなこのように、お互い借りがあるとか、「逆縁」(ここでの「逆縁」は日本語の意味と異なり、順調にいかない縁のこと)によって、みな一緒にくっつきたがるのです。「順縁」では、かえってそれほど好き合おうとしません。あなたの鼻先にある顔はあまり好きになれず、遠い山奥に住む人を好きになりたいのです。順調にいかない縁であればあるほど、私たちはもっと愛し合います。人間の心理はこうなのです。より複雑なことを好みます。自ら奮闘し、勝ち取らなければならないもの、こういうものにしか価値を見出せないのです。
ですから、世界に苦しみが存在するのは、無理解が原因なのです!根本的には苦痛というものは存在しません。私たちが、この命を失ったとしても、それほど悲しむべきではありません。ましてや他人の場合なら言うに及びません。私たちには世々代々、数多くの子どもがいました。また配偶者もたくさんいました。もし相手が一人もいなかったとしても、神が一人は授けてくださるでしょう。
世界の人口を数えてごらんなさい。長い間、男女のバランスはとれています。女性が多く、男性が少ないなどと思ってはいけません。それはあり得ません。どちらかが多い地域や、少ない地域はあります。しかし、総合的に見れば、ほとんど差がありません。たとえば、ある国で女性が多過ぎるなら、一方別の国では男性が多過ぎることがあり、それらを合わせれば問題はありません。すべては、世界の人が合わせないから問題となるのです。神が与えてくださらないのではありません。
聞くところによれば、戦争中は多くの男子が死にますが、そのとき多くの女性が妊娠し、特に男子を多く出産するそうです。(誰かがはいと答える)これは統計上の解釈です。長年の研究でこのような結論に達しました。永久に男性一人に対して、一人の女性が配されているのです。なぜ、二人の配偶者を持てないという規則を作ったかといえば、もしあなたに二人配偶者がいたら、誰かには一人もいないということになるからです。もし、あなたが貪欲で二人持つとしたら、次にこの世に来たときには、配偶者がいないかもしれません。埋め合わせをしなければならないからです。ですから、配偶者は一人で十分なのです。それで次にこの世に来たら、また一人配偶者が与えられるのです。
「梁山泊」と「祝英台」は過去世で、各々が二、三人の配者を有していた可能性があります。原因があれば必ず結果があります。ですから、この世に再生したときに一人も持てないのです。彼らはどんなに愛し合っていても結ばれません。すべては因果関係からきています。もし、この因果から離脱したいのなら、人間ではなく他の衆生になるしかありません。この因果より抜け出たいという、彼らの意志があまりに強いので、蝶になるしかなかったのです。
戒律はバランスのとれた生活を与えてくれる
戒律は、私たちにバランスのとれた生活を与えてくれます。あとで餓死することのないよう、一度に多くを所有してはいけません。食べ物や金銭も同じです。たくさん使い過ぎてはだめです。明日にはないことを恐れなければなりません。毎日、何ごとも足りるだけ使えばいいのです。同様に、戒律も陰陽のバランスをとるためにできています。戒律は、人々を苦しみから救うためにあるので、人々を圧迫したり、縛ったりするためではありません。
私は、一回目にアダムとイブの話をしましたね。神はどうして、たかがリンゴ一個を出し惜しみしたのでしょう?それは、二人がすでにたくさんのものを持っていたからなのです!エデンの園が全部そっくり与えられていたのです。「エデンの園」とは天国という意味です。その中には何でもあります。もともと労働で疲労困憊する必要などありません。そこには十分あるので、探しに行く必要もないのです。結局、リンゴを一個余分に食べたばかりに、これほど苦しむことになったのです。
もし、私たちのいわゆる祖先が、そのリンゴを食べなければ、私たちは今日このように苦しむことはなかったかもしれません。もし、彼らがリンゴを食べなかったら、心はもっと純粋で、善し悪しを判断したり、区別する心もなかったでしょう。彼らは神のようになりたかったのです。神のようになれば、何か良いことがあるのか私にはわかりません。神も惨めな一人の人であり得るでしょうか。私は神も苦しんでいると思います。なぜなら、神は万物を創造しなければならなかったし、一人でこんなに多くの惑星や、たくさんの人々や、それにこんなに多くの衆生を管理しなければならないのですから。神は疲れ果てています!神になりたいと思う人が、一番の愚か者なのではないでしょうか?
ですから、私はみなさんにこうお勧めします。神になる必要はありません。大丈夫です。仏になる必要もありません。心配ありません。心を幸福で穏やかにし、足るを知り、平常心でいればそれで良いのです。なぜ、「永遠の幸福」など求める必要があるのですか。何のためでしょう。求めれば求めるほど苦しみます。どんなものでも、求めれば苦痛となります。欠乏しているから求めるのです。渇望すればするほどさらに苦しむのです。
「梁山泊」と「祝英台」のラブ・ストーリーのように、もし、二人がお互いに、絶対に結婚したいと求めたりしなければ、これほど苦しむことはなかったのです。誰かと結婚することが何だと言うのでしょうか。ゆっくり相手を探せばいいではありませんか。たとえ見つからなかったとしても、お坊さんや尼さんになるというのもいいではありませんか。これらの苦痛は貪欲が原因です。渇望するからです。たった一人の人のためにです。なぜくよくよ悩むのでしょうか?
私たち修行者も同じです。貪欲ではいけません。一歩ずつじっくり修行してください。ときが来れば、おのずと結果が出ます。当然、真剣さや努力も要ります。でも、誠心誠意が最も大切です。「仏は心の中にあり」といいます。私たちが誠の心でいれば、内面の神が出てきます。私たちが何をするにしても、たとえ修行にしても、神のためにするのであれば、いつの日か私たちは神を認識することができ、神と一体になれるのです。
三種類の修行者
修行者には三種類のタイプがあります。一番目は神を信じよく従うタイプで、二番目は神のために働くタイプ、そして三番目は、その中でも最高のもので、神と一体になっているタイプです。神とひとつであるということ、または神になっているということは、自然に神の状態に到達するのであって、そうなりたいと希望したからではありません。その人は、当然とても信心深いけれども、貪欲ではありません。誠心誠意で信じることと、なにかを期待することは異なります。
私は、その違いをうまく説明できません。自然にそうなっているので、言葉では説明しにくいのです。私たちはときどき混同してしまい、ただなにかを期待する心を求道心と思ったりします。でも、実際は違います!
一番目のタイプの修行者は、神を崇拝し、喜んで神に従っています。毎日崇拝でき、自分より崇高で、神に面倒をみてもらい、そして毎日祈ることができればそれでもう幸せで、ほかのものを要求しない人々、これが一番目のタイプです。
二番目のタイプは、神を認識しています。そして、神のために喜んで働き、何でもすべて神のためにやります。けれども、しばらくすると彼は、神より仕事の方が好きになり、ますますたくさんの仕事を探すようになって、本当の目的が神であることを忘れてしまった人々です。そういう人々は多くの功徳を積み、善行をたくさん成し遂げます。たとえば、衆生を済度したり、説法したり、お寺を建立したり、出家したりなどの善行です。けれども、だんだんときが経つにつれて、人々は彼らを崇拝するようになり、敬慕し、彼らをとても徳のある人だと思い讃えるようになります。そして、賛嘆されればますます仕事が好きになり、一所懸命やります。ですから、彼らはいくらときがたっても、神と一体になることはできません。これら二つのタイプの信徒は、最高の境地を得ることはあり得ません。一方は神を崇拝することに、もう一方は神を喜ばせようとするあまり、仕事の方に夢中になってしまうからです。
三番目のタイプは、恐らくその人も神を崇拝し、神を喜ばせるために善行を積んでいるのでしょう。けれども、彼はこれらのことが一番大切なことではないことを知っています。彼が最も知りたいのは「神とは誰なのか」ということであり、神を崇拝するだけでは満足せず、神を喜ばすことだけにとどまることもありません。彼は、「神とは誰なのか」を研究し、神を捕らえるつもりでいるのです。このタイプは、最終的には神と一体になることができます。この境地に達する人は、非常にまれです。言うのは簡単なことですが、実際に行うのは困難なことです。
私たちが毎日瞑想するときにどんな境涯を見るかが、私たちの資質を表しています。光が見えれば、私たちも光のように輝いているし、闇が見えたなら、私たちのレベルはまだ暗い境涯にあることがわかります。ですから、修行は一日も中断できず、探し続けなければなりません。毎日ご飯を食べるように、一日も中断できません。まあ、一日くらいなら食べなくても大丈夫ですが、何日もというのはだめです。
修行も同じです。私たちは恐らく、毎日同じ菜食をして、二時間半瞑想をし、「こんなたいくつなこと!」と思っているかもしれません。でも、毎日ご飯は食べてます。どうして飽きないのでしょうか。同じおかずでも食べてます。それは私たちの体が成長するために、そして細胞を保護するために必要だからです。同様に、私たちが毎日二時間半瞑想し、同じことを繰り返すのは、魂の成長のために必要だからです。
修行は難しくなければならないと思ってはいけません。今日はこの手印で、明日はあの頭印で、あさってはあの足印で、というようにやるのが修行なのではありません。食事が質素でも十分なように、複雑にすればするほど自分を煩わせることになるだけです。この肉体を保つという目的しかないのに、あれやこれやと食べれば、ますますカルマを増やすばかりです。ごちそうが良いというわけではないのです。おなかは受けつけられずに消化不良になり、ついには病気になってしまうでしょう。
私たちは、大事にしているものを手放さなければならない、つらい状況に直面したときでも、悲しみに陥ってはいけません。そのかわり、「これがなければ私は死んでしまうのか」、「ほかに代わるものはないか、これよりもっと良いものがあるかもしれない」と考えてみたほうがいいのです。実際、このように私たちは、あるときはこの人が一番良いと思い、その後彼が去ってしまってから、またゆっくりと探してみると、ほかにもっと良くふさわしい人が見つかったりします。そうでしょう?それは、私たちが一つのものを捕らえているときには、ほかのものを見逃しているからです。むしろゆっくり探す方が良いのです。
執着心は習慣である
私たちには、惜しむべきものは何もありません。すべては私たちの習慣の問題なのです。執着心が強過ぎるからです。私たちは、そこに立っていれば、もうそのまま動きたくありません。誰かを捕まえたら、捕まえたままで変えたくないのです。もし夫婦になり、仲が良ければ、当然お互い誠実でなければなりません。万が一、問題が生じたり、一人が死んだり、片方がもう一方を好きではなくなったとしても、私たちはそれでも、平常心を保ち、一人の人のためでも、何のためにでも自分を見失ってはいけません。
私たちは深い悲しみにあるとき、求道心を忘れてしまうことがありませんか。そうではありませんか?(みな、はいと答える)私たちは、誰かのためにとても悲しい思いをしているとき、万物が一体であることを忘れ、「本来無一物」を忘れ、すべてのものが一つのところから来たことも忘れてしまいます。私たちは、一人の人の姿かたちに執着してはいけません。彼がここからいなくなったとしても、よそでまたほかの姿を選ぶのですから。
たとえば、私たちはバラの花や、ほかの花が大好きだったりしますが、その花が枯れるとすごく惜しい気持ちになるでしょう!とても恋しくて、その花を永久にそのまま保存したくなります。けれども、一輪のバラを永久に存在させるとすれば、別のもう一輪が生まれてくることができないでしょう?
おいしそうなマンゴーが一つあって、私たちはそれを食べ惜しむかもしれません。永久に木にぶら下がったままにしておきたくて、食べません。けれども、もし実を食べなければ、その中の種は地に落ちません。そうすると、マンゴーの木が老いたとき、実をつけることも、その木を新しいものと取り替えることもできません。
この世のすべてのことは、これらのことと同様です。私たちは何を失おうと、そんなに悲しんではいけません。明日にはもっと価値のあるものが得られるかもしれないのです。中国には「塞翁が馬」の物語がありますが、みなさんは何度も読んだでしょう。けれども、災難や苦痛の状況が存在することの利点がわかっていないようです。
私は、毎回手術や病気のときに、本当にたくさんのカルマを消し去ります。私はとても感謝しています!みなさんは信じないでしょうけれど、私はときどき、「もし本当にこれほどの災害やカルマを消し去ることができるなら、もっと病気をしてもかまわない」とさえ思います。私は本当に喜んでそれらを受けるのです。もちろん、病気のときは大変で、とても痛くて叫んでしまいます。けれども、悲しいとか、受け入れないということではありません。違います!痛いときはとても痛いけれど、それでも喜んで受け入れます。なぜなら、病気で苦しんでいるときこそが、真に私たちが最も輝いているときなのです。とても多くの暗黒のカルマが消し去られるからです。もし、私の一生で、災いもなく、病気もなく、苦しみもなかったら、耐えられないでしょう。私は衆生のカルマを消化することができません。もし、一人の人が功徳をたくさん積んでいたとしても、一度にそんな多くのカルマを消化することができません。ゆっくり消化してもかまわないでしょう。でも、ゆっくりやっていたら、いつまでかかるのでしょうか?衆生はこんなに多いのです。ゆっくりしていられません。
ですから、神は自らのシステムを持ち、私たちがカルマを洗い流す手伝いをしてくれます。私たちにこんなにたくさんのゴミを持たせたので、神は私たちをちょっと助けようとして、「車」や私たちの「荷物」を運んでくれる人を派遣してくれます。ですから、災難や病気のときに、文句を言ってはいけません。神に感謝するべきです。もし、これらの苦痛がなければ、私たちのレベルは上がりません。私たちのカルマが多過ぎるからです。自分のカルマがなかったとしても、先祖のカルマもあるのです。
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