マスターの開示
いかに人は退化してしまうのか
The Supreme Master Ching Hai アメリカ・ニュージャージーセンターにおける英語の講演 1992年6月25日

さい頃から一所懸命仕事をしてきた人や、できるときはいつでも一所懸命やろうと努力をする人は、ますます器用になり、頭が切れるようになり、ものごとをとても素早く明確に見きわめることができるようになります。それは非常に長いあいだ、訓練を積んできたからです。ですから、訓練がマスターを作り出すのです。というのは、両方の仕事は同じだからです。もしみなさんがさまざまなことに慣れていれば、ほとんどの状況で判断ができます。

私もこのような経験を積んできました。私は小さいときから、仕事をするのが好きでした。お手伝いが大好きだったのです。家には何人かお手伝いさんがいましたが、いつも自分の服は自分で洗ってアイロンをかけていました。また、両親がお風呂に入るために水を運んだり、父にお茶を入れたりしました。料理を覚えたり、お手伝いさんを気遣って、進んで手伝ったりしました。当時三、四人のお手伝いさんがいましたので、私は働く必要などなかったのですが、いつも働くのが好きでした。おそらく、それで私は多くのことがうまくできるのだと思います。というのは、ただ私がそういうことに順応してきたからなのです。

たとえば、みなさんが何かを長いあいだやっていたとしたら、寸法を測らなくても、ただ見ただけでどのくらい必要かがわかったりします。非常に素早く判断します。他の多くのことでも同じことが言えます。脳は使えば使うほど、ますます機敏になり、賢くなります。そうしないと、どんどん馬鹿になり石や木にまで退化していってしまいます。そうやって人々は退化していくのです。ですから、どうして人々が動物になったり、低いレベルの生命体に退化するのか、私に尋ねないでください。彼らはそういう具合に自ら退化するのです。

フォルモサのある男の人の話をしましょう。その人は、いわゆる霊能力者で、地獄にも天国にも行けます。彼はこどもの頃から非常に純粋で、つまり菜食をしてきました。一度も結婚したことがなく、瞑想をしていました。そしてまた、私のことを知り、私が初めてフォルモサで名が知れて公の場に姿を表わしたとき、彼もやってきて窓ガラスに顔を押しつけて見ていました。彼はその日から一切霊能力を使うのをやめて、こう言いました。「偉大なマスターがやってきた。私たちは彼女を尊敬し、このような仕事はすべてやめなければならない。もうこんなことは一切する必要がないのだ」と。彼には約20万人の熱心な信奉者がいたのですが、手放してしまいました。彼は地獄や宇宙のあちこちをあまねく調べに行ったりしていました。彼は天国にも行くことがありましたが、おそらくそんなに高いレベルの天国ではありません。私は、彼が戻ったときや、旅の途中で詳しく語ったことは本当のことだと知っています。彼は非常に誠実だったに違いありません。

その彼が地獄へ行ってきました。彼が詳述して別の人がメモを取り、地獄についての本を作ったのです。地獄についての話の一つにこのようなものがあります。非常に単純なものです。いえ! 地獄ではありません。私たち人間界のことです。彼はあちこち歩き回っているあいだに、たくさんのこの世のことを違った視線で、おそらく阿修羅(アストラル)の体で見たのです。ある恋人同士が道路を歩きながらロックの音楽にあわせて飛び跳ねたり踊ったりしていました。とても幸せそうに、楽しそうに跳ね回っていただけですが、にわかに豚小屋のある場所にさしかかりました。そこではちょうど、母豚が子豚を生んだところでした。この二つの魂はこの事件にちょっと関わってしまったのです。彼らは自分たちがどこにいくかということにまったく注意をしていなかったので、踊っていたというだけで豚になってしまったのです。これが一つの話です。

地獄についてもう一つ話があります。人がどうやって豚や動物になるかということです。多くの人々は死んでから、人間として再びすぐに生まれたり、あるいは天国に行ける福報がなかったりすると、しばらくのあいだ、いわゆる地獄というところにいなければなりません。カルマをきれいにするために、すべての悪いことを焼きつくし、魂から不道徳なすべての潰瘍を切り落とすために、彼らは罰を受けたり、何かひどいことをされたりします。そのようにして、再び彼らは生まれることができるのです。そして、閻魔(えんま)王は閲見を行い、彼らが今何を望んでいるか、たとえばどんな種類の地位がほしいかとか、どんな生活を送りたいかといったことを尋ねます。それは、彼らに再び人間として生まれる特権が備わったからです。

彼らは一人づつ答えていきます。ある人は次のように言います。「はい! 私は今、地獄から解放されて、とても幸せです。本当に人間に生まれたいと思っています。非常に光栄ですし、非常に幸せです。必ず良い人になります。たとえば私は人の役に立ちたいので奉仕をしてみたいと思っています」すると彼らは、看護婦さんとか医者など、または人々に奉仕するチャンスを与えるのに都合の良い地位をその人に授けるのです。

別の人はこう言います。「はい! 私は長いあいだ地獄にいて、非常に辛くみじめでしたから、今度は人生を楽しみたいと思っています。美しい環境で、美しい服を身につけ、美しい声で歌い、すべての女性を魅了するようになりたいと思います。川辺に美しい住まいを構え、そこにはたくさんの食物があって、お金を稼ぐ必要がない、そんな生活を望みます」

閻魔王は言います。「いいだろう」。そして、自分の部下である鬼に、彼が望んだものを正確に与えるように命じます。彼に何を与えたでしょうか? すばらしく輝く美しい羽をした鳥です。それが彼が望んだものです。彼は美しい衣服を望んだのです。それらを稼ぎ出す必要はありません。そして、それを永遠に身につけたままでいられるのです。洗う必要さえないので手間がかかりません。彼は、面倒くさい人生を望まなかったのです。ただ、そこに座り、食べて飲んで歌う一生を望んだのです。ですから彼らは、大きな美しい羽の生えた体を与え、素晴しい声を与え、そして彼が一日中歌っていられるようにしたのです。そうして、彼を森のなかの一本の木のとなりに置いてあげました。そこには、たくさんの実や野生の果物があり、美しい環境が備わっているからです。彼は飲んで食べて美しい羽をして、何一つ思い煩う必要がありません。それが彼らが彼に与えたものです。間違いなく彼が望んだものに添っています。ですから、私たちの地位に関して神に不平を言うことはありません。私たち自身が望んだものだからです。

また別な人も、地獄から這い上がってきて同様なことを望みます。「ああ! いつも地獄の火で焼かれて、体の肉がみんなどこかへ行ってしまったみたいです。痩せ細ってしまい、とことん焼き抜かれてしまいました。まるでたくさんの福報で太っているかのように、脂肪をつけて太りたいとさえ思います」ほとんどの人々は、太って恰幅が良くなることが、一種の福報のある人生だと思っているので、「私は地獄で本当に厳しい暮しをしてきたので、今度は埋め合わせをしたいと思います。ただ、食べて飲んで眠って太りたいのです。地獄の炎で血をすべてしぼり出し、脂肪も肉もみんな焼き尽くしてこんなに痩せ細ってしまいました。ですから、今度は人々が私に仕えて欲しいとも思います。戸口のところまで、自分の口元までも食物を運んでくれたらいいと思います。どこにも行きたくはないし、そのためにお金を稼ぎたいとも思いません。そういう人生を下さい! そうすれば、私は食べ物や衣服や私に仕えてくれる人のことで思い煩う必要がないからです」

閻魔王は部下に命じて、その人にその人生に見合う身支度を用意させます。それが何だかおわかりですか? 豚の皮です。それをその人に着せると、その人はすぐに豚になります。その後、その人は一種の液体のようなものを飲み、過去世のすべてを忘れてしまいます。彼はただ、豚としての存在を楽しんでいます。毎日、人々は彼の口元まで食物を運び、洗ってくれ、飲み物も運んでくれ、そして太らせてくれるのです。彼は何一つする必要がありません。そういう生活を、彼が望んだのでそうなったわけです。それ以外に、何もしないで、何の責任も取らないというような人間の生活なんて、どうやって得られるでしょう? 何もせずに口元まで食物や飲み物が運ばれるような、そんな人間の生活があると思いますか? ありません。それで、彼らはその人の望みを満足させるために、豚の暮しを与えなければなりませんでした。それは、その人が望んだものに添っているのですから、とても理にかなったことだったのです。

天の父があなたに与えるのです。そうでしょう? ドアを叩けばいつでも、与えられるのです。あなたが一途に求めれば、与えられるのです。もし途方もないものを求めれば、途方もない人生が与えられるのです。そういうものです。

そのようにして、多くの人々は困難に陥り、より低いレベルの意識に生まれるのです。それはまさに、見当違いの考えや、与えずに得ることのみを望んだり、この世界のカルマの法則に反して進もうとするからなのです。いったん私たちがカルマの法則から抜け出してしまえば、問題はありません。私たちは天国、涅槃にいるのですから。私たちが望めば何でも供給されます。望む必要さえありません。しかし、三界にとどまっている限り、肉体をまとい、そして物質的欲求や必要も伴なうのであり、その限りでは、私たちもまた物質的な貢献もしなければならないのです。そういう理由で、聖書では次のように言います。「額に汗して、自らのパンを稼がねばならない」。他に方法はありません。私たちはエデンの園、天国にいたことがありますが、その領域を去ってしまったのです。私たちは今この世界にいるのですから、その法に従い、自分自身のことや、仕事の処理をしなければならないのです。

自由とは、空を飛ぶという意味ではありません。ここにいて、口を開いて、木の実が運ばれてくるのを待っているということではないのです。自由とは、大きな責任を負うという意味なのです。誰一人として、何をすべきであるかということを教えてくれる人はいないという意味なのです。ですから、自分自身で何をすべきかがわかっているという意味なのです。もし何をすべきかすべてわかっていて、自分の人生や仕事の処理ができるのであれば、自由を選びとることができます。それ以外に方法はありません。もしいまだに自分でどうしていいかわからずに、人々にするべきことを言ってもらっているとしたなら、それは自由ではありません。どれほど自由になりたいと願っているかは関係ありません。自由ではないのです。というのは、自分自身の無知に縛られているからです。自分の頭脳を自由だ、大丈夫だと考えたりして騙しているのです。しかしそうではありません。

ですから、みなさんにはたくさんのするべき仕事があるのです。そして、自分のレベルは自分次第なのです。もしかりに私がみなさんを五界に連れて行ったとしても、みなさんにはそれに見合う力がなく、一界の状態のままだとします。たとえばの話ですが、私が大学の教授で、みなさんがまだ幼稚園の段階だとします。もし、私の力と地位でみなさんを大学へ連れて行ったとしても、そこでみなさんはどうしますか? 何もできません。理解できないのです。たとえ私がどんなに愛していても、そのような年ごろのみなさんを聡明にはしてあげられないのです。

ですから、みなさん次第なのです。自分自身の力、ふるまい、生活の方法を磨くように努めなさい。自分が望むものは何でも選ぶことができるということを知らなければなりません。それにしても、自分が自由ではない、成長しない、尊敬されない、または自分自身にとって良くないということについて、誰に対しても文句を言うべきではありません。それだけのことです。それどころか、どんな人生、どんなレベルを選び取ろうと、誰一人関知するところではないのです。

いかに人は退化してしまうのか