聖書物語
出エジプト記
The Supreme Master Ching Hai フォルモサ・西湖道場における中国語の講演 1990年6月17日

ブラハムの子孫の一人にヤコブという男がいて、彼にもまたたくさんの子孫がいました。彼の国イスラエルが、彼の子孫の一人に継承されたとき、国は非常に大きく有名で、勢いもあり、その上豊かになっていました。当時、エジプトと呼ばれるもう一つの国があり、エジプト人はイスラエル人に脅威を感じはじめていました。そこで、新しく王位についたエジプト王は、手遅れにならないうちにどうにかしたいと思い、イスラエル人が彼の国に戦いを挑む前に攻撃しようと考えました。

王はすべてのイスラエル人を自分の奴隷として連れ戻し、彼らを監視するため、大勢の無慈悲ですご腕の見張りを送り込みました。毎日奴隷たちは、王と王族のための家や宮殿を石で建てる仕事を強いられました。彼らは朝から晩まで働かされ、休むこともできないほど重労働をしていたにも関わらず、なぜかたくさんの子どもたちが生まれました。ほんとうに、ふしぎなことです。そこで、エジプト王は恐れて、次のような命令を下しました。「イスラエル人に男の子が生まれたら、みんなナイル川に投げ込み、流してしまえ」

モーゼの誕生

その頃、ヨケベデと呼ばれるイスラエル人の女性がおり、男の子を出産したところでした。彼女にはすでに、アロンという男の子とミリアムという幼い女の子がいました。自分の産んだ赤ちゃんが男の子だと知ると、彼女はその子の命を案じて、三ケ月間小さな家に隠しておきました。しかし、赤ちゃんを一日中そこに寝かせておくこともできなくなってきたし、ずっと赤ちゃんのままでいるわけもありません。もし彼が大きくなって走り回ったりしたら、どうしたらいいのでしょう? そこで、彼女は思案を重ねたあげく、ある考えを思いつきました。

彼女はかごを見つけ出し、その外側に入念に樹脂を塗り、水に入れても沈まないようにしました。かごを小さな船のようにし、そこに赤ちゃんを入れました。そしてそのかごを川岸に持っていき、丈の高い葦の間に隠して、自分の娘に見張らせました。というのは、彼女は王の娘がそこに水浴びに来るのを知っていたからです。

期待どおり、王女は水浴びにやって来てそのかごを見つけました。かごを拾い上げ、開けてみると中には赤ちゃんがいました。なんと、とてもかわいい男の子でした。これまでに一度も見たことがないほどかわいい子だったので、イスラエル人の赤ちゃんであると知りながらも、とても気に入ってしまいました。たまたま彼女には子どもがいなかったので、赤ちゃんを育てようと王宮に連れ帰り、その子にモーゼと名付けました。赤ちゃんを見つけたとき、またヨケベデの娘のミリアムも一緒に見かけました。ミリアムは王女の所へ行って次のように言いました。「赤ちゃんの乳母をする女性を見つけて来ましょう」。これを聞いて王女は喜びました。もちろん、その子は母の所へ行き、赤ちゃんの乳母として、自分の母を連れて来たのです。なんと、ごりっぱなことでしょう! (マスター笑う)本当に好都合です。

こうして、モーゼは王宮で大きくなりました。彼はそこで学べることすべてを学び、またエジプト人からもとてもたくさんのことを学びました。やがて成長するにしたがい、彼は礼儀作法を身につけ、ハンサムで背も高くなかなか立派な人物になっていきました。しかし彼はある日、自分がイスラエル人であるということを知ったのです。エジプト人によって毎日とても残酷に扱われる自国の人々を見ているうちに、彼は思い煩うようになりました。

ある日、彼はエジプト人兵士がイスラエル人の労働者を殴って、とても残酷に扱っているのを目撃しました。兵士がその労働者を今にも殴り殺しそうな様子を見たとき、モーゼはその兵士とやむなく戦わざるを得なくなり、それどころか彼を殺してしまいました。なんと! 今度はモーゼが危険になってしまいました。王が彼に対しもめごとを起こすことを恐れて、彼は砂漠に逃げ込み羊飼いになりました。そこで羊飼いの娘と結婚し、義理の父親の羊の世話をするようになりました。

神に選ばれた使者

ある日、彼は羊の世話をしているとき、繁みの辺りでずっと燃え続けている炎を見つけました。しかし奇妙なことに、その繁み自体は焼けていませんでした。不思議に思い、近づいてよく見ようとすると、ふいに声がして、彼に語りかけました。「近づいてはならない。靴を脱ぎなさい。おまえが今立っているのは聖なる土地である」これを聞いてモーゼは恐怖を感じ、震えながら数歩後ろにさがって靴を脱ぎました。すると、その声は再び言いました。「私はおまえの先祖が熱心に崇めていた神である。イスラエル人がひどく苦しんでいるのを見て、私はおまえを私の使いとして選んだのだ。エジプトへ行き、イスラエル人を解放しなさい。そして、彼らを私のもとへ連れて来なさい」

モーゼは躊躇して答えました。「彼らに何と言ったらいいのでしょう? どうしたらいいのですか? 彼らは私の言うことなど聞かないでしょう。どうか他の人を選んでください!」

神は言いました。「いや、私はおまえを選んだのだ。兄のアロンを探し出しなさい。彼がおまえの代わりに話をしてくれるだろう」(彼はモーゼより雄弁だったのです。)「しかし、私はおまえにもう一つの言葉を授けよう」(これは音流を意味します。)「この言葉は特別な音であるから、おまえに非常に大きな超能力をもたらすだろう。おまえはそれでどんなことでもできるようになるだろう」神が言った意味は、神はそれを通して何でもできるということであり、神にできないことは何一つないということです。

モーゼと兄のアロンはエジプトの王のもとへ行き、こう言いました。「私たちには、ひとつお願いがあります。私たちの神は、あなたに私たちの民を砂漠へ赴かせ、別れの会を開くべきだと言っています」 

エジプトの王は答えました。「私はおまえたちの神など知らない。おまえたちの神が私と何の関係があるというのだね? 私にとってその神が何の役に立つというのかね? 私はイスラエル人を行かせるつもりはない」

王はだんだん怒りを強めて、分別を失ってきました。彼は、その日よりイスラエル人には一切麦わらを分けてはならないという命令を出しました。イスラエル人は麦わらを粘土に混ぜて煉瓦を作っていたので、王はイスラエル人にもう麦わらを与えてはならないという命令を出したのです。その代わり自力で麦わらを見つけさせ、以前と同じ量の煉瓦を作るようにと要求しました。彼はわざとイスラエル人を困らせたのです。 

モーゼはとても失望して、神に助けを求めました。すると神は言いました。「私が頭の固いエジプトの王に何をするかを、ちょっと待って見ていなさい。彼に私が神であることを知らせ、私の子どもたちを自由にさせよう。さあ、もう一度王の所へ行き、私の子どもたちを自由にしなければ、エジプト人とエジプトに多くの災難をもたらすだろうと告げなさい」

モーゼと彼の兄は再び王の所へ出かけました。王は彼らに言いました。「信じてもらいたいなら、おまえたちはその超能力を示すべきである」。そこで、モーゼと兄のアロンは地面に杖を投げました。すると、その杖は大蛇になりました。彼らはこれで十分だと思いましたが、エジプトの祈祷師たちにも同じことができたので、王は笑って、さよならと言いました。(マスターと聴衆、笑う)王は彼らを追いやったのです。

非常に頑固な王

すると、神は怒りました。神があらゆる種類の災難を引き起こすと言ったとおり、多くの惨事が本当に起こり始めました。毎回一つの災難が起こる前に、神はエジプト王に警告をしましたが、王は神の言うことを聞かず、信じようともしませんでした。というのは、別の戦いの神を信じていたからです。

まず最初に、ナイル川の水が、血のように赤く汚れ、悪臭を発するようになり、川に住んでいた魚はみな死に絶えてしまいました。水が有毒になったのです。一週間後、国中にカエルが這い回るようになったので、王はモーゼにカエルを始末するように言いました。モーゼがカエルを始末しても、王は依然としてイスラエルの奴隷たちを解き放とうとはしませんでした。そこで次に神は、たくさんの昆虫を送り込み、すべての穀物を食い荒らさせ全滅にしてしまいました。イスラエル人の住んでいる場所以外のいたるところは、昆虫とハエとメチャメチャになった穀物が散乱していました。

今度は、王は泣きだしました。「わかった!自由にしよう!」すると、昆虫は消えました。ところが、王は約束を翻してイスラエル人を自由にしないと言いました。彼はいつもそのようにしてイスラエル人をだましていたのです。普通の人というのは誰もみな、そのように気紛れなのです。ですから、神は別の災難を引き起こしました。今回はたくさんの牛や羊、そして他の動物がペストで死にました。イスラエル人の居住地以外にいた動物はすべて死に絶えました。それなのに、エジプト王は強情にもまだ、イスラエル人を解放しようとしませんでした。

すると、また別の災難が起こりました。神は国中の人々の体全体に汚いうえに痛い腫物ができるようにしたのです。祈祷師たちにさえも腫物ができました。しかし、それでも王は奴隷を解放しようとはしませんでした。まあ! この王は本当にひどいものですね。彼の頭が何でできているのか私にはわかりません。彼の頭は私たち同修の頭よりも固いに違いありません。(聴衆笑う)幸いにも、彼は印心を受けに来ませんでした。(聴衆笑う)そうでなかったら、私たちは彼に何をしたらいいのでしょうか? 

モーゼと兄のアロンが再びエジプトの王に会いに行き、こう言いました。「あなたはもう、神の力というものをずっと見てきたはずです。もしあなたが神の指示を聞き入れず、イスラエル人を自由にしないのなら、もっと大きなひどい問題があなたの国を襲うことになりますよ」モーゼは王に言いました。「明日は台風になるでしょう」

実は! 人々はそのような台風というものに、今まで一度も見舞われたことはありませんでした。そうです! それはすべてのものを破壊し、すべての動物を殺してしまったのです。もちろん、イスラエル人の住んでいた場所では何一つ起こりませんでした。このすぐ後に、イナゴが、当然ながらイスラエル人の居住地以外の国中に大量発生しました。そのイナゴは、あらゆるものを、緑の植物をすべて食べ尽くしてしまいました。それから三日間、ずっと太陽が出ませんでした。イスラエル人が住む場所以外はどこもかしこも真っ暗になりました。(マスターと聴衆笑う)おそらく、イスラエル人は印心を受けていたのでしょう。そうに違いありません。

このときになって、ようやく王は恐れを感じ始めました。それでも彼は神と取引することを考え、イスラエル人の奴隷を解き放とうとは思いませんでした。まったく! これほどおかしな人ですが、どうしてこんな人が王になれたのでしょう? こうなっても、彼はイスラエル人を依然として自由にしようとはしなかったのです。すると、さらにもっと恐ろしいことが起こり、たった一夜のうちにすべての家庭の長男が突然死んでしまうという事が起こりました。王位継承者である王子も、幸運をつかんでいながら逃れることができなかったばかりか、最も身分の低いエジプト人の奴隷たちの長男も例外ではありませんでした。もちろん、イスラエル人には何の影響もありませんでした。翌日になり、エジプト人はイスラエル人を早くどこかへ追い払ってほしいと思いました。もう耐えられないし、これ以上どうしようもなくなってしまったからです。彼らにとってあまりにもひどすぎることがすでに起きているのです。もし、もう一日でも長くイスラエル人をとどめておけば、さらに災難を受けることにります。彼らはそれを恐れたのです。彼らはただ単にイスラエル人を追いやったのではなく、イスラエル人 に金や銀のたくさんの器や上質の素材でできた衣服や美しい布や、彼らの要求にあわせたおいしい食べ物を与えました。しかし、イスラエル人がその行程の半分も歩かないところで、エジプト王は心変わりし、彼らを捕まえようと軍隊を送り出しました。

その頃、イスラエル人はすでに海までやって来ており、彼らの前に道はなく、後ろには追っ手のエジプト軍が迫っていました。イスラエル人たちは恐れて泣きましたが、モーゼが海に手をかざすと、神が東より風を送り込んで、にわかにその海を二つに分けたのです。イスラエル人は急いで海を渡りました。エジプト軍が彼らを追って海を渡っているときに、海は元に戻り、一人残らず溺れてしまいました。それでイスラエル人たちはみな逃げおせたのです。

砂漠に定住し、新生活を始める

イスラエル人はもはや奴隷ではなくなり、たくさんのお金と食べ物を持っていました。砂漠に着くと、神に対する感謝を込め、歌ったり踊ったりして非常に楽しい宴会を催しました。神をたたえて、何日も歌い踊り続けました。けれども、ある時期が過ぎると、彼らは過去の惨めな暮しを忘れてしまい、不満を言いエジプトを懐かしがり始めました。神を忘れて、玉ねぎや魚や肉のことを思ったのです。彼らは言いました。「本当に、エジプトの魚は本当に美味しかったね。ああ! あそこの西瓜はみずみずしかったし、玉ねぎは香りが良かったよ!」(マスター笑う)玉ねぎのことさえも恋しかったのです。彼らにとって玉ねぎは神よりも重要だったのです。彼らはまた言いました。「そうだ! あそこのきゅうりを忘れてはいけないよ。ああ! 砂漠へ来て一体何を食べたらいいんだい?」 

すべての食べ物を食べ尽くしてしまったので、彼らは不満を言い始めたのです。前にエジプトで彼らを打ちつけた鞭や、エジプト人の残酷な心を忘れてしまったのです。涙や汗や血を流し、死ぬほど打たれ、しいたげられていたことさえ忘れてしまい、食べ物や飲み物のことばかりを考え、彼らをこのような何の食べ物もない辺鄙な場所へ連れて来たモーゼとアロンに文句を言い始めたのです。もちろん、彼らには飲み水はありました。神が彼らを砂漠に連れて行ったときに、荒野から水を湧き出させたからです。けれどもイスラエル人はそれでは満足せず、みなが文句を言いました。「ああ! ここで餓死するより、エジプトで死んだほうがましだ」と。

神は彼らの不満を聞いて、モーゼに言いました。「彼らが望むものは何でも、私が与えるであろうと伝えなさい。彼らの命を救ったのに、食べ物を供給しないということがどうしてあろうか。不満を言い過ぎてはいけない。今日、彼らにたくさんの食べ物を与えよう。明日にはパンを与えよう。毎朝、彼らに食べ物を創り出そう。私が土曜に休みを取り、みなも働かなくていいように、金曜には倍の量を与えよう」そこで、モーゼは神が言ったことを人々に伝えました。その夜、神は本当にたくさんの食べ物を与えました。そして、その日から毎朝、パンやその他の食べ物が彼らの前に現われました。こうして、彼らは毎日を過ごし、餓死せずにすみ、働く必要もありませんでした。

しかし、別の問題に遭遇しました。太陽が非常に強く照りつけたので、暑さのため水が足りなくなったのです。そこで彼らはまた不満を言いました。これを聞くなり、神はモーゼに言いました。「どこどこの場所へ行き、おまえの杖で石を叩きなさい。そうすれば水が湧き出るであろう」期待どおりに水が湧き出ました。飲んでも飲んでも十分な水があり、問題はなくなりました。物語の著者は、「神を試すべきではない!」と書いています。たとえ彼らが試したとしても、神は彼らを許し、40年間も食べ物と飲み水を与えたのです。神はこのように毎日人々の面倒をみて、食べ物や人々が求めるものをすべて与えたのです。というのは、神は彼らに神を信じることを教えたかったからです。彼らが徐々に神を信じるようになれば、すべての問題はなくなるのです。

神がなぜこれほどまでにイスラエル人を愛し、忍耐強かったのか、私にはわかりません。40年間も食べ物を与え続け、徐々に神を信じることを教えたのです。けれども、彼らが信心を持ったでしょうか? (ある人が「信じたと思います」と答える。)その信心は、何日続いたでしょうか? 結構です。彼らが信心を持ったかどうか、次の機会にお話ししましょう。もし私たちが信心を持てば、すべてのものを手にすることができます。突然、人々が食べ物をくれたり、おしゃべりをしに来たり、私たちの問題や困難を解決してくれたりするのです。これらすべてのことは神によって為されるのです。もし私たちが本当に神に対して信心を持てば、ことの大小に関わらず、すべてにわたって面倒を見てくれるのです。本当にそうなのです。

神の恩恵は無限

そうでなければ、どうやって自分の面倒をみることができるというのでしょうか。私たちは、一体どこから来たのでしょう。ご存じですか? まったくわかっていません! またどこへ帰って行くかもわかっていません。わかっている人もいますが、わかっていない人もいます。より修行を積み、高いレベルに達した人はわかっているのです。それほど修行していない人たちは、完全にわかってはいないものの、それでもほんの少しは知っていて、彼らが行くべき安全な場所があるに違いないと思っているのです。現在、私たちは悔い改めたので救われたのです。もし、私たちが過去に何か悪いことをしたとしても、問題はありません。というのは、無知だったからです。今私たちは悔い改めることが必要であるということがわかっています。ですから、神は私たちをお許しになり、助けてくださるでしょう。

とてもたくさんのイスラエル人がいたにもかかわらず、神は40年間にもわたって、国全体の面倒を見たのです。砂漠でありながら、それでも神はすべてのものを授けたのですから、私たちが都会に暮しているなら言うまでもありません。神が私たちの面倒を見てくれないことなど、どうしてあるでしょうか? ただ単に私たちの状況がそれほど緊迫しておらず、自分自身で面倒がみられるので、神は直接手を貸さないだけなのです。しかし、神は黙って私たちの面倒を見てくれています。もしそうでなければ、私たちは生きては行けません。たとえ、あまり神を信じていない世俗の人が、ときおり困難に直面したときだけ神に助けを求めたとしても、神は長いあいだにわたり、助けてくれるのです。しかし、後になると私たちは忘れてしまい、不満をつのらせます。すると再び、困難なことが起こるのです。

私たちがしばしば困難に陥るのは、神が私たちに内在の神を探すことを思い出させたいからなのです。「ただ私を求めれば、それでいいのです! なぜ私を呼ばないのですか」神は状況を悪化させ、私たちをむりやり何も頼るものがないほど困難な状況に、たとえば、医者が私たちを治せないとか、親戚や友達が私たちを助けられないとか、そういった状況に陥らせるのです。そうなって初めて、私たちは神の前にひざまづき、何かを請うのです。神は待っているのです! 神はたくさんの贈り物を持っていて(マスター笑う)、いつでも私たちに与えてくれるのです。しかし、非常に残念なことに、ほとんどの人々が神を信じきっていないのです。

一人の人間の修行により、多くの世代が恩恵を受ける

どうして神は、それほどまでしてイスラエル人の面倒を見たのでしょうか? それは彼らの先祖が霊的修行をし、神を信じきっていたからです。イスラエル人はノアの子孫なのです。ノアとアブラハムの物語の中で、神が彼らの子孫の面倒をみると約束したことを思い出してください。もし一人の人が修行すれば、その人の五、六、七、八あるいは百世代までも超生すると言っています。神はこの一世代だけではなく、たくさんの世代の面倒を見てくれるのです。ですから、たとえイスラエル人が霊的修行もせず、菜食もせず、神のことをほんの少ししか考えずに、またすぐに魚のことを考えたりしていたのに、神はそれでも彼らの面倒をみたのです。

神は非常に慈悲深いのです! みなさんの父親が神を信じれば、神はみなさんとみなさんの子どもたちまで面倒をてくれるでしょう。神は非常に慈悲深く、気前が良いからです。私たちが真に神の愛を拒否しない限り、神はあらゆるものを無限に与えてくれます。拒否すれば、神は私たちを助けられません。このようなわけで、イスラエル人は非常に深く神を信じたのです。神は現われるたびに、彼らに念を押しました。「私は、あなたたちの祖先が崇拝した神である!」と。これは内在のマスターや神の愛の力を表しています。彼らの五、六世代後までの子孫の面倒を見ると約束したので、神はただそれを続けたのです。しかし後になって、子孫たちは堕落し、ますますゆき過ぎた許されざることをしたので、彼らの福報と愛の力はどんどん少なくなり、徐々に消えていったのです。

ある日彼らの国から、よく修行をした別の人間が現われて、再び神を信じるように、そして神とつながるように人々の注意を喚起しました。そこで、神はまた彼らの面倒をみる約束をしたのです。そうでない限り、神がそれほどまでに深くイスラエル人を愛したでしょうか? それは、ノアとアブラハム、そして彼の妻が神を崇拝したからであり、彼の息子や孫や後の世代の人たちもまた恩恵を受けたのです。そういうことで、次のように言うのです。「もし、一人が霊的修行をすれば、その人の九世代後までも天国に行く」と。これは通常の故事ではありません。イスラエル人でさえ、このことを知っていました。今、イスラエル人たちにはマスターはいませんが、この故事ゆえに神を信じ続けたのです。ただ彼らが神と対話できなかったというだけのことであり、とても残念なことです。一部のイスラエル人は神と対話できたかもしれません。もし彼らが、マスターや法門を見つけ出していたなら、きっと対話できたでしょう。しかし、国のすべての人というわけにはいかなかったでしょう。

今もなお、ユダヤ人は多くの国々でさまよっており、すべての国で歓迎されているわけではありません。これは、彼らが真に神と対話できなかったからです。その上、多くの無意味なことをし、多くの人を殺し、神の掟に従ってこなかったので、彼らの福報は非常に少なくなってしまったのです。神は彼らの面倒をあまりみていないように思われます。たくさんのお金を与えても、他の多くのものを与えていません。多くの悪いことをしてきたので、長いあいだ自分の国を持つことができず放浪の民となったと、神は言っているのです。それは本当に起こったことであり、聖書に記録されていることです。もしユダヤ人が本当に彼らの祖先のアブラハムやノアのように神を見つけ出したなら、間違いなく彼らの地位と国の名誉を取り戻すことでしょう。

本当に神を信じきる人というのは稀である

私たちの多くは、神を信じきるということを学んできてはいません。ですから、多くの困難に出会うのです。ときに、私たちは神を信じていると言いますが、信じていません。みなさんが私を信じていると言っても、信じていないのと同じです。どれくらいの人が私を信じているでしょうか? 非常に少ないのです! ほんの少し試されただけで、翻ってしまうのです。もし私が自らテストしたりすると、もっと変わってしまいます。私がみなさんを叱ったら、どれくらいの人がそれを喜べるでしょう。手を上げてください。わかりました! ほんの二、三人だけですね。正直で結構です。私はみなさんの、他人に対して誠実で欺かないという、その徳をたたえます(マスターと聴衆笑う)。本当にそのことを喜べる人だけが手を上げました(マスター笑う)。ほんの五、六、七、八人ぐらいでした。その他の人に対して怒りを覚えるかもしれませんが、あまり長く怒ったままでいてはいけません(笑い)。怒りが長ければ長いほど、福報は少なくなります。落ち着いたあとで、懺悔をすることを覚えておきなさい。わかりましたね? 

普通の人はみなさんをたたいたり、叱ったりしますが、私にはとてもそんなことはできません。ときに、やくざと目が合ったりして、何もしないのに殴られることがあります。彼らに対して、あえて何かしたわけでもなく、あえて怒らせたわけでもないのに、彼らに命請いをするのです。(笑い)私はみなさんの命を救い、多くのことを教えてきました。けれども、たった一回私が叱っただけでみなさんは怒ってしまうのです。これが人間の矛盾というものです。

ですから、私を信じていると言っていますが、長く信じているわけではなく、そんなに深く信じているわけでもありません。みなさんの信心は非常に薄いのです(マスター笑う)。触れれば壊れてしまうでしょう。信心を大事にするのは難しいことです。だからこそ、大事にしなければなりません。より深い信心を持てば持つほど、人生は快適で幸福になるのです。そうなれば、どんな状況に直面しても、信心は決して揺るぎません。とても快適な状態です。しかし、このレベルに達するのは難しいということはわかっています。ですから、私はみなさんを訓練しなければならないのです。神はイスラエル人の面倒をとてもよくみて、40年間にわたってあらゆる種類の食べ物を与えました。しかし、それでも彼らは問題を抱えたのです。後になって、神はゆっくりと彼らに神を信じることを教えこまなければなりませんでした。

出エジプト記