科学的な発見は、私たちの考えでは不可能なことがみな、科学的にそして別の方法で可能になったり、今日不可能なことでも明日には可能になるということを、私たちに示しています。数百年前、私たちはフォルモサやアメリカからここまで、飛行機でたったの数時間で飛ぶことなど夢にさえ見ることはありませんでした。今では、コンコルドに乗ればもっと短時間ですみます。時間は半分から三分の一に短縮されました。ニューヨークからヨーロッパまで、場所によっては八時間から十時間かかります。けれども、コンコルドでなら四時間しかかかりません。ですからこれはすでに証明です。今日、私たちの周りにあるすべてのことは、私たちが方法を知ったり、技術を発見さえすれば、どんなことでもできるという証明です。
同様に、エネルギーと可能性を秘めたこの偉大な宝庫から、欲しいものを何でも得るための宇宙のパワーと通じ合うには、私たちはまさにその方法を知らなければならないのです。あらゆる奇跡、宇宙やこの惑星に起こっているすべてのことは、この偉大なるパワーの宝庫から来ています。それにほかなりません。トマトやバラが、大地から何を吸収するのかを知っているのと同じです。しかもそれらが吸収するものと、高麗人参が吸収するものは異なります。高麗人参は何か他のものを必要とします。同じ地球、同じ惑星なのに高麗人参は何かを吸収し、バラはその他の何かを吸収するのです。吸収するものによって、それぞれが異なるものを生み出し、生活に彩りを与え、バラエティに富み、さまざまな方法で私たちの役に立つのです。
同様に、私たちは個人個人みな違っていても、それぞれが自分に必要なものを得るために、宇宙のこの莫大なパワーと通じ合うことができます。したがって、私たちはそれぞれ異なる人生や、異なる生活様式や、異なる色彩や、異なる美しさを生み出すことができるのです。そうすることで、自分たちだけではなく共存する他の人も楽しめるよう、今暮らしているこの美しい宇宙を飾ることができるのです。バラは大地や、太陽や、雨からそれぞれ何か少しずつ養分を吸収し、バラ自身が美しく感じるよう、そして私たちや他の人が楽しむように、そのような美しい姿を作り出すのです。
もし、私たちがこの莫大な宇宙のパワーの宝庫と通じ合えば、私たちは自分たちの欲しいもの、自分たちに適するものを得ることができます。そうすれば、自分たちを美しい存在にし、他の人に私たちの良さを感じてもらったり、さらには自分自身の良さも感じられるようになります。私たちは何かになるために、ここに来たのです。バラは、バラになるためにここに来たのです。高麗人参は、ただ高麗人参であるために存在しているのです。というのは、高麗人参を必要とする人がいるからです。いつもバラが必要というわけではありません。たとえバラがきれいでも、時には食べ、楽しみ、健康を感じ、薬を作るために高麗人参が必要となることもあります。バラは、飾ったり、愛を送ったり、周囲に愛の雰囲気を引き出すために使います。人が互いに愛し合うときにバラを贈るのはそのためです。まさに愛を象徴するために、人に、愛する人に、ボーイフレンドやガールフレンドに、妻や夫に、母親や父親などにバラを贈るのです。人に高麗人参を贈るのは、その人の健康を願うからです。その人たちに元気を取り戻してもらいたいからです。
すべてのものは、何かの役に立っています。私たちがここにいるのも、何かのためであり、私たちは私たちというものだからです。というのは、私たちがそのようになりたいからであり、神が私たちにそうなることを望んでいるからです。けれども、私たちが自分自身なりたいもの、なるべきものとして存在するためには栄養が必要です。いつもというわけではありませんが、ほとんどの場合、肉体は存在のために食物を必要とします。そして魂、私たちがそうあるべきこの美しい真の存在は、他のものを必要としています。それは生き残るため、成長するため、咲くため、私たちの人生を装飾するため、この存在や全宇宙的存在としての私たちの目的を達成するためです。私たち自身を養うために、したいことをするために、なりたいものになるために、私たちはこの莫大なエネルギーの宝庫に向かわなければなりません。ちょうど、バラがより良く咲くために、より良い花になるために、新鮮できれいな色で見る人の目を楽しませるために、肥料や良い土や良く世話をすることが必要なのと同じです。同様に、私たちの才能を完全に開花させるためには、魂のための栄養が必要です。そうすれば、私たちの周
りにいるすべての人が幸せに感じ、私たち自身も楽しくなります。
ですから、私たちは観音法門を修行する必要があります。それは単に養うパワーと通じ合うための名前にすぎません。そうすれば私たちは100 %存在することが可能ですし、偉大な存在として、人間として成長発展することができます。(拍手)さもなければ、私たちは完全には存在できません。それが、なぜ私たちが悲惨な状態なのかという理由です。バラと同じです。もし、バラが必要なものを得られなければ、たぶん半分かもっと小さい花しかつけられず、色も惨めで、そのうえ虫に食べられてしまうでしょう。そのバラは重い障害を負っているようで、あまりにもひどく惨めで、とても正常には見えないでしょう。ここにあるのは栽培され、手入れされ、十分に栄養を与えられた花です。ですから、このバラは自分たちに最上のものを与えてくれます。そして、これが私たちがすべき方法なのです。私たちは、そうあるべき偉大な人間なのですから、魂と精神力と肉体、つまり「父と子と聖霊」という三位一体の肉体を以て、完全なる発展を遂げなければなりません。そのうちの何かが欠ければ、私たちは完全に成長した人間ではなく、決して幸せにならず、平和も訪れないでしょう。いくら平和や幸福
を欲しても、いくら会議を開き平和について話し合っても、得ることはできません。
このセンターを持てたことを、うれしく思います。もちろん、私たちが望んだようにはいきませんが。というのは、あまりもたくさんの慣例や規則があり、それに法律はいつも融通が利くとは限らないからです。これは私たち人類が、私たちの兄弟姉妹がずっと昔から、何千年、何百万年以上も前からこのシステムをすでに作り上げてきたからです。ですから、それを変えるのには長い年月がかかります。すぐに、私たちはそれに従って行動しなければなりません。たとえ、私たちが自分たちのやり方の方が良い、確かにもっと良いとわかっていても、私たちは法律に反することや、他の兄弟姉妹の同意が得られないようなことは、あえてしません。けれども、私たちはまだ、私たちのように理解していない、宇宙のパワーにすぐには溶け込める見込みのない兄弟姉妹と共存しなければなりません。彼らは彼らなりの時を選択します。私たちは協力的に、調和を図って、その時が来るのを辛抱強く待たなければなりません。けれども、すでにご存知のように、センターというのは肉体の中だけでなく、魂の中にも存在するのです。(マスターが一匹のいも虫に、「あっちに行きなさい。さもないと怪我しますよ。
人に踏まれてしまいますよ。おまえを助けようとしているのに、あまりにももがきすぎですよ」と言いました。)この虫の兄弟は、私が花に乗せようとしているので、恐がっています。もし、ずっとここにいたら誰かが踏んでしまいます。私は助けようとしただけなのに、この虫はあがきました。私を噛もうとさえしました。この虫は、私が理解していることがわからないからです。もし、宇宙にいる全ての存在が、みなさんを理解していなければ、時には滑稽な反応をしたり、みなさんに反抗したりします。この世界も同じです。私が皆さんに家族を大事にし、愛を込めて面倒をみなさいと言ったり、たとえ生活のために稼ぎたくなくても、自分たちの仕事に耐えなさいと言ったり、たとえ法律が厳しすぎて耐えがたいことがあっても、やはり法律に従いなさいと言うのは、それは他のすべての人と同様、私たち自身にとって良いことだからです。
私たちは暴力で強制的に行動することはできません。できはしません。敵や、私たちのパートナーや反対する側の立場で理解し、反対する側の観点に立って考慮し、ゆっくりと行動しなければなりません。彼らと仲良くするために、私たちが理解している原則を捨てて、レベルを下げるということではありません。そうではありません。私たちの理解のレベルは保ちます。誰もそれを取り去ることはできません。私たちの哲学や意識の原則は保ちます。けれども、私たちは付き合っている人の感覚や理解のレベルを考えなければなりません。このようにすることで、敵やパートナー、ひいては私たち自身の双方にとって、損害や怪我や痛みを最小限にとどめることができるのです。
もちろん、多くの忍耐が必要です。よくわかっています。私もみなさんと同じです。みなさんが耐えるのと同じように、私も耐えなければなりません。私も多く耐え忍び、存在しないようにと願うたくさんの法律、つまり善人のためでなく、むしろ悪人のためだけにあるような法律にも従わなければなりません。残念ながら法律は、悪人が世界や他の人に被害を与えるのを妨げるだけではなく、善人が良いことをするのにさえ障害をもたらすという融通の利かない面もあるのです。
宇宙の法律や、真理の法律はそうではありません。実際には、私たちが二元性の世界をいったん超えてしまえば、法律などありません。私たちは悪いこと、良いこと、禁止事項や、敵や、あらゆる種類の対立する哲学や生き方といった二元性を持っているので、この世には多くの矛盾や混沌があるのです。一つでなく二つです。私たちが二元性を超え、宇宙と一つになり、他のすべての人と一つになり、私たち自身と一つになれば、私はあなたより良いとか、善悪、非難、美醜、罪と徳といったようなものはなくなります。それは、罪が美徳になり、美徳が罪になるということではありません。すべてが愛と調和の中にだけ存在する同一体の中には、そのようなものは存在しないということです。私たちの心に入り込める罪はありません。行動は言うまでもありません。
それらの世界では人がしたいことをし、それで罪とか汚れがないということではありません。ただ、人がそうしないということです。私たちは完美、高徳、真実、愛、そして調和の中で行動し、考え、そして話します。そういうことなのです。私たちがみな、この愛と美の惑星を知るとき、その日はやって来ます。けれども、私たちはどこかで始めなければなりませんし、私たちはすでに始めています。私たちは15年前に始め、今日ここ、韓国の永同にもう一つの連絡所を開設しました。過去、現在、そして未来にみなさんがこのセンターに努力を注いでくれることを感謝します。このセンターに、そして韓国に祝福があることをお祈りします。もちろん、その効果は全世界に広がります。どうもありがとうございました。(拍手)
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