今日、私は一冊の本を読みました。その中には、フランスの修道女ベルナデットが聖母マリアを見たときのことが詳しく書かれていました。彼女が見たのが聖母マリアだということは述べられていませんが、後にキリスト教の国の人がみな一致して、あれは聖母マリアであると認めたのです。
ベルナデットが最初に見たその直前、突然風の音が聞こえてきました。そのとき、そこはかなり寒かったので、人々は出かけるとき防寒のためにショールを身にまとい、靴下をはきました。彼女は咳をする持病で苦しんでいました。いつも咳をしていて、咳込むといつも眠れなくなり、体もとても弱っていました。ときには呼吸さえできなくなります。ですから彼女の母親は、川を渡ることを禁じました。けれども、彼女はみながこの川を渡っているのを見て、とても渡りたくなり、ついて行こうとしました。彼女が靴下を脱ごうとすると、大きな風の音が聞こえてきました。しかしまわりの木は少しも動いていませんでした。自分の聞き間違いかと思い、続けてもう一方の靴下を脱ぐと、また風の音が聞こえてきました。彼女はまわりを見ましたが、やはり風は吹いていませんでした。木も動いていません。このとき突然、彼女の前方で何かが動き、そして光が見えました。その光の中から、とても美しい一人の女性が現われました。彼女のまわりには光が輝いていて、大変美しい顔でした。ベルナデットはこう言いました。「彼女の顔はとても美しい。こんなに美しい顔は一度見てしまうと、もう一度見るた
めなら、死んでも構わない!」
ベルナデットの家は、それほど裕福ではありませんでした。始終お腹がすいても、食べるパンがないのです。彼らの家は、元々収入相応の暮らしをしていたのですが、あまりにも客に手厚いもてなしをするので、稼いだお金が使ったお金より少なくなり、商売になりませんでした。お客が来るたびにチーズ、パンを食べさせワインも飲ませて、とても良く接待しました。その結果収支のバランスがとれず、ますます損をしました。それでとても貧乏になり、ときには食べる物にも事欠くことさえありました。
彼女は、小さい頃から病気がちでした。十分な薬がなかったので病は重くなりました。彼女は学校へ行けず、親の手伝いをしなければなりませんでした。そうでないとお金が足りないのです。しかしながら、彼女は神と聖母マリアに対してはとても信心がありました。見たことはないけれど、とても信心がありました。彼女は、自分は学問がないから他の女の子と同じことができないと、いつも残念に思っていました。
キリスト教には、こういう風習があります。子どもが12歳から15歳のときに、大洗礼の儀式に参加しなければなりません。きれいな服を着て教会に行き、みなに立ち合ってもらい、それから正式なキリスト教の信者になります。ベルナデットは自分と同じ年頃の女の子が儀式のために教会に行くのを見て、自分は暗誦ができないために行けないことを、とても恥ずかしく思っていました。何人かの人が彼女に教えようとしたのですが、彼女はあまりに愚かで、一つの文字を二、三回教えても覚えないのです。それで、彼女はますます卑下し、自分は一番愚か者で、一番だめな者だと思いました。彼女がそれほど謙虚だったからこそ、思いがけず神は彼女を選び、聖母マリアに化身して見せ、彼女をとても有名にさせ、今や全世界にわたり彼女の名前は知られるようになったのです。
私たちの何人かは、霊修のマスターを見つけたり、はっきりとした方法で修行していますが、あのだめな人だと思われている人よりも信心が足りません。ベルナデットは何も見えなかったし、何も教わらなかったけれど、ただ信心はありました。それでも、神は彼女に恩恵を与えました。ですから、私たちは修行について自己反省をする必要があります。自分の信心は十分かどうかと! ベルナデットは何も見えなかったけれど、やはり信心に満ち、とても興味を持って見たがっていました。彼女は、小さい頃から聖母マリアを愛していました。どんな問題があっても、お腹がすいたときも、家庭に何か困難があってもマリアに祈りました。まだ見ていないのに、もうそれ程好きでした。私たちは時として神の化身に出会っても、それほど好きになれません。ですから、聖書にこう書いてあります。「神は出会っていないけど、信心がとても強い人たちのことを加護してくださる」と。
私たちは、ときにとても良い修行の方法や、とても良い道を追求していますが、自分自身の信心が足りず、求道心があまり高くないので、修行にも多くの結果が出ません。一方で、ある人々は印心して方法もわかっているのに、修行はあまり進歩しません。たぶんカルマが重いのかもしれないし、時間も少ないので、やはり何も見えませんが、信心があるので、彼らも加護されます。とても高い境涯や、多くの光が見えたからといって、これが加護のパワーを受けたのだとは必ずしも言えません。私たちの生活、私たちの信心がどれだけ強いかによって、私たちの進歩を測ることができるので、もし私たちの境涯があまり良いものでなくても、謙虚な心で毎日誠心誠意に祈れば、私たちも神の恩恵を受けることができます。あのベルナデットを見ればわかります。彼女は、学問もなければ、誰も彼女に神とはどういうものか教えなかったけれど、ただこのような祈りを続けただけです。
彼女は、あの聖母マリアが姿を現した場所に18回行きました。18回ともマリアに出会いました。一度は二人の人が彼女について行きました。すると、聖母マリアはベルナデットに、「あの二人は山の洞窟に入ってはいけません。外で待ちなさい」と言いました。どうして、その二人が中に入れないのか、本には書いてありません。もしかしたら、その二人は信心が足りないか、雰囲気が純粋ではないのでしょう。神には分別心がないと思ってはいけません。ときに、ある人々を連れて行きますが、他の人は連れて行きません。どうしてでしょう? それは、レベルが違うからです。私たちが恩恵を受けるには、必ずしも多くの学問がなければならないとはかぎりません。また、何かの演技をして私たちの真心を見せるのではありません。私たちの心の中は完全に純粋でなければなりません。
ベルナデットは小さい頃から、多くの状況から厳しい試練に出合いました。餓えに襲われたり、お金がなかったり、人に軽蔑されたり、学問がない等々、多くの事情があり、人々も状況も彼女をずっと押さえつけていたので、彼女はこの世界に対して未練がなかったのかもしれません。病気のとき彼女はいつも、この世界はとても無常だとしみじみ感じました。彼女は、深くそれを感じたのです。私たちが理解できるくらいの程度の感覚とは違います。彼女は、深く世界の無常を感じとり、この世界には何の未練も残していませんでした。ですから、彼女の魂はとても清浄で、とても純粋で、一心不乱で簡単に入定できるのです。
少し祈り、目を閉じると入定できました。彼女は、いつも目を閉じて祈りました。誰も彼女に教えてはいませんが、これも一種の座禅の方法です。もし、私たちが目を閉じて、心を内面に向けてとても神聖に思いを集中すれば、私たちは、これを「座禅」と呼ぶことができます。
多くの人は、祈りのときに何らかの境涯が見えるようです。もちろん、そのうちのいくつかは幻想で、本当の境涯とは違います。ベルナデットの境涯は本当です。それは、彼女がとても謙虚になり、とても愉快になったからです。しかも賢くなりました。以前、彼女にはまったく学問がありませんでしたが、いわゆる聖母に出会った後、すっかり変わりました。彼女は雄弁になったのです。以前彼女は無知でしたが、今は他人の話に彼女は、とても智慧のある回答をします。しかも、彼女はとても謙虚であるにもかかわらず、少し威厳も出てきました。以前とまったく違う人になりました。
彼女が聖母マリアと交流してから、ときどき彼女は立ち上がって公衆の前で、「懺悔すべきだ、懺悔、懺悔!」と言いました。彼女の話はまるで、すでに長い間修行している牧師や修道女が言うような一種の自信と威厳があって、15、6歳の子どもの雰囲気とは違いました。彼女は、これまでこんなことを習ったことはありません。しかも、こんな境涯を一回や二回でなく18回も見たのですから、これは幻覚ではありませんし、魔でもありません。
私は、ベルナデットの境涯が最高だとは言っていません。ただ一つの例をあげて、どうしてある人は修行して入定の体験と境涯が見られ、またある人にはないのかということを、みなさんにお聞かせしているのです。ベルナデットは非常に純粋な人で、小さい頃から何の財産もありませんでした。しかも、病苦にとても悩まされたために、世界のことを考える力さえなかったのです。ですから、私はときどき、「病気にかかることにも福報がある」と言うのです。本当です。私たちは、病気にかかると慈悲心が少し出て来ます。他人に同情するようになり、また私たちが苦痛にあうと、以前自分が苦しんでいる人にどのように応対したか、あるいはあまり良く応対しなかったかを思い出します。
多くの偉大な修行者は、謙虚な背景から生まれました。あるいは貧困や苦しい状況から出て来ました。ある少数の人は、誠心誠意で苦行をしてから一部の体験を得ました。苦行を修め得たのではなく、この苦行を修めているうちに自分も苦しみ、人生の苦痛を理解したのです。そして、自分の心が変わり、多くの博愛と多くの慈悲心が出てきます。それは、私たちは苦しいとき他人の苦痛を強く感じられるので、心が広くなったり、自分のとても深い心の奥と通じ合い、智慧、慈悲心の内側へ行けるからです。それは、私たちが内面に向いているために、自分の本心に近づくからなのです。それで少しの体験を得ることができるのです。自分を処罰してから得られると言うのではなく、苦しいときに私たちの心は少し大きくなるのです。
しかし、これも人によって異なります。誰もが苦しいときに他人を理解するとは限りません。ある人は、苦しいときに何とかして他人を傷つけて物を獲得し、自分に快楽をもたらします。ですから、みな同じではありません。もしその論理がわかってしまえば、苦しいとき私たちはとても簡単に神に接近することができます。私も同じです。ですから、みなさんが私においしい食物を持ってきても、私は食べたくありません。私にとても大きな高級な車を買ってくれても、私は本当に欲しくありません。というのは、私はそういったものを必要としないからです。しかも、もし私がそれらをもらったら、その後自分がこんな贅沢な生活に慣れてしまって、他人の苦痛を忘れてしまうことを恐れているからです。
私たちがこの世界に住んでいる間は、やはり自分の心のバランスを保ち、公平で心を開き、あまり何かに傾かない方が良いのです。もし、私たち修行者に、謙虚な心や誠心誠意や、とても神聖な信心がなかったら、体験を得るのはとても難しいのです。自分の神聖な本性を体験することはとても難しいのです。私たちは、ただ外面にいるだけです。まるで、痒いとき足を掻かずに、靴下の外側から掻いているのと同じです。
ですから、修行者たちのなかに、多くの違いが生まれるのです。同じマスターがいて、印心のとき同じ境涯や体験があったとしても、少し時が経つとみなそれぞれ異なってきます。各々歩む道があって、各々自分の境涯があるのは、みな信心によります。もし、みなさんが座禅をするとき、境涯が高くなく、何の光も見えず、音声も何も変化がなくても、信心が変わらなければそのうちに必ず何か得られます。遅かれ早かれです! もし、私たちがただ境涯のことばかり考えて、私たちの信心を保護しなければ安全ではありません。私たちの信心を励ましてくれるあらゆるものは、私たちに対してプラスになります。ですから、内面の体験はあまりたくさん話さないほうが良いのです。多くの人は、少し体験を得るとすぐに大声で叫び出します。跳び出してみなに知らせます。そして、少し経つと魔の手におちてしまいます。このことは、すでに前からみなさんに警告しているはずです。
「もし自分に多くの土地があれば悪魔でさえも恐くない」と言った、一人の男の話があります。彼は農夫なので一番土地を望んでいました。そのとき、彼はまだ土地が不足しているので、悪魔が少し恐いと言いました。不運なことに、そばにいた悪魔がそれを聞いて、すばやく彼を処分してしまいました。それは、ただほんの少し驕慢心があったからです。
私たちは、きれいな服を着るとてとても自慢に思ったり、何か香水をちょっと使っても、香りを楽しみ自慢に感じることもあります。悪魔は、これらをみな知っているのです。
また中国には、十世代に渡って高僧であった、一人の僧の話があります。唐朝悟達禅師であった彼にも、たった一回だけ驕慢な心が起きたために、顔にできものが出ました。ですから、この世界で自分の心のバランスを保ち続けることは、とても難しいことなのです。本当に注意深くしなければなりません。気をつけてください。
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