マスターの開示・94号
自分自身の神性を認識しましょう
Supreme Master Ching Hai 1998年6月2日 アメリカ・カリフォルニア州立大学、アーバイン校 英語講演全内容

古代からの困惑させられる問題  

たち人類はきっとどこかで始まり、生命は遥か昔に誕生しました。もしかすると、始まったばかりかもしれませんが、私たちはもはや、本当は「どこから来たのか」ということを忘れてしまっています。大多数の人々にとって、これは唯一答えられない問題です。それ以外のことなら何でも、それを理解するに十分な才知を持っています。たとえば、本で勉強したり、実験室で実験をしたり、化学物質や科学の知識を使って、私たちは多くの問題を解いて答えを出すことができます。けれども、私たちが一番困ってしまう問題は、「我々はどこから来たのか」ということです。さらにもう一つ、「その後どこへ行くのか」というのも、同様に困惑させられる問題です。多くの人にとって、生命は決して棺の中で終わるのではないことは明らかです。私たちはこの点に関して知っていても、それを証明することはできません。けれども、古代の多くの偉大な聖人たちにとって、こんな問題は大したことではありません。彼らは、自分たちがどこから来たのか、どこへ行くのかもはっきり知っているのです。彼らにとって、死の問題はいかなる関心も、驚かせる効果もありません。なぜなら、聖書で述べているよう に、聖人たちは、「毎日死ぬ」からです。

「毎日死ぬ」というのは、どういう意味でしょうか。私たちが内面に自身を集中させ、神の王国に入っているとき、私たちは死んでいるということなのです。それは一時なことで、また生き返ります。ですから、もしイエスや古代の聖人たちの修行方法に従えば、私たちはいつでも日常生活の中で「復活」を体験することができます。一度死んだり、毎日死んだりするのですから、この宇宙にはこの物質世界の他に異なった世界が存在していることを知るでしょう。そして、私たちは自由自在に宇宙を歩き回って、宇宙の神秘を探険します。死ぬことは大したことではないと悟り、事実私たちは決して死なないことも知ります。また、肉体さえも持たないことを知ります。とても不思議なことだと思われるかもしれませんが、これは事実です。

イエスが十字架にかけられたとき、彼が恐れず、泣かなかったのはそういうわけです。命請いも、逃走もしませんでした。そうすることはできましたが、彼は望みませんでした。なぜなら、そうする必要がないからです。彼はすべて神の意思にゆだねていました。自分の行くところを知っていたからです。ずっとわかっていました。死や苦痛というものが、本来存在していないことを知っていました。私たちは、どこから来たのか、どこへ行くのかということを知らないので、本当に苦しむのです。イエスはすでにわかっていたので、肉体の安楽を追求しませんでした。しかも、死に対する恐怖感はありませんでした。なぜならイエスは、自分がずっと存在することを、そして肉体は人間の目から見れば朽ちてしまうだけのものにすぎないということを知っていました。イエスの智慧から見ると、肉体自体存在さえしていないのです。

私たちが、仏陀やイエスなどの偉大なマスターたちが通ったのと同じ道に従って修行しない限り、証明するのはとても難しいことでしょう。彼らは同じ道を歩いていました。ですから、たとえ彼らに仏教やキリスト教という異なった名前をつけても、彼らは同じ道を説いていたのです。けれども、私たちは多くの専門用語を持ち、一つしかない真理を二つの違った分野に分けて、自分たちを混同させています。実際マスターたちは、基本的にはいつも同じことを説いています。もし外面のリボンや包装紙である、それぞれのマスター独自の才能や弁才にたけた話などを取り去ってみれば、彼らは同じなのです。特に、私たちが悟りを開いたり、彼らと同じ道に従って同じことを修行すれば、それがまさに同じものだということがわかります。どちらも同じ道を歩んでいるからです。たとえば、私たち全員がこの講堂に来たとします。ここにしばらく座って、その後外に出て、そしてこの同じ部屋について描写するとしたら、違いはないはずです。

悟りは私たちの本来の姿

とても多くの人々が、「悟り」を大いなる神秘と見なし、それを賛美し、もう一度取り戻すよう勧めるのはどういうことでしょうか。実は、それは決して「悟り」ではありません。それはただの「真理」です。それは、ただそうあるべきこと、ありのままの姿です。もし私たちが「悟り」を知らないなら、神を知ること以外、何も重要なことはないと認識するまで、とても多く苦しみ続けるのです。私たちが神のことを知りたいと思い始めると、神は誰かを、友達とかガイドとか経験のある兄弟を派遣して、どうすればいいか示してくれます。どうしたらいいかわかったら、そのときこそ私たちが悟ったときです。仏陀やイエスと同じように、すぐに偉大なる悟りは開いていないかもしれませんが、多少は悟っているのです。そして、一日一日と課程を経て修行し続けていけば、まさに仏陀やイエスのように偉大な人物になることができます。そのとき私たちは、イエスが言ったことがわかるようになるでしょう。たとえば「私のすることは何でも、あなたがたは私よりよくできるようになる。またそれ以上にできるようになるだろう」とか、「私と父とは一つである」など。私たちはみな神の子であり、私たち は神の宮であり、聖霊だけが自分の内に宿っていることを知るでしょう。

もし聖霊が自分の内に宿っているなら、私たちはいったい何でしょうか。私たちは神です。もしこの肉体がただの家で、神がその内に住んでいるなら、それでは、神以外の誰がいるのでしょう。私たちと神が、同じ家に住んでいるのではないのでしょうか。イエスは、「私と神は一緒にそこに住んでいる」とは言いませんでした。「私と父とは一つである」と言いました。もし私と父が一つなら、なぜ私たちは神を知らないのでしょうか。もし聖霊がこの神殿の内に宿り、この肉体が唯一の神殿であり、この中に住んでいるのがたった一人なら、いったいそれは誰でしょうか。ただ一人、即ち、神だけです。

以前、私はこのことで泣いたこともありました。私は自分にこう言いました。「もし私が神であるなら、どうして私はこんなに卑しく、弱く、小さく、無知で、これほど苦しむのでしょうか。私の本当の家はどこにあるのでしょうか」と。私たちはどうすればもとの栄光を取り戻すことができますか、と問いかけるのはそのときです。そのとき、初めて悟りが私たちに少し近づいて来るのです。私たちは、悟りへの道を這って進んで行ったり、それぞれの状況によって走ったり、飛んだりするかもしれません。歩く人もいれば、飛んだり、たぶん電車で行く人もいます。ですから印心のとき、ある人は大きな悟りを開き、ある人は小さな悟りしか得られないのはそのためです。それは、私たちがときどき速いペースを選んだり、遅いペースを選ぶことがあるからです。

どのようにして、私たちはそれを選んだのでしょうか。私たちはこの世に生まれる前に、すでに選んでいたのです。天地創造以前に、この物質世界や、宇宙のどこかで、自分の役を演じ始める前に選択したのです。そして、宇宙のいたるところに分散しました。私たちはもともと一つでした。そして、神がそう望むとおり無数になりました。私たちはその宇宙創造の大計画に参加し、多彩な人生劇の中で自分の役を演じるのです。そして、今自分の役が終わったり、疲れて必要でなくなって引退したくなり、故郷に戻りたいと思っているのです。他の人や他の魂は、私たちに代わって役をひき続き演じますが、私たちは故郷に戻り始めます。悟りが起こるのはそのときです。とても簡単なことです。私たちは神なのです。この人生劇を演じるために、多彩で活気があり、違ったものになって楽しめるような宇宙を創造するために、そしてまた、真の自分自身を認識するために私たちは無知になることを選んでしまったのです。天国には神以外の何ものも存在していません。私たちは神ですから、神のことがわかりません。そこで、私たちは「神でない」ものにならなければなりませんでした。私たちはここに来て 、神と異なった者になることを選んでしまいました。そうすれば見比べることができて、自分自身が神であるとわかるのです。

悟りを開くことが、この物質宇宙に来た人みんなの目的です。神を認識したいがために、私たちは「無知」という役を演じることを選び、そうすれば本当に神も自分たち自身も認識できるからです。もしこの世界に男性しかいなければ、私たちには男女の違いがわからないのと同じです。もし女性がいなければ、自分たちが男性であることもわからないでしょう。夜がなかったら、昼のことはわかりません。もしいつも太陽の下で生活しているなら、暗闇がどんなか知りません。これが、私自身で見つけた答えです。けれども、その真意を見つけだし、認識するために、私たちはそれぞれ自分自身ために、それを見つける方法を探さなければなりません。聞くことや、話すことによって、神を認識できるものではありません。たとえ聖書のことを信じていても、依然として私たちは神であるということが理解できません。そうでしょう? みなさんは神であることを知っていますか? ある人は知っていると思います。なぜなら、悟りを開いているからです。ある人は他のマスターや先生に従って修行していましたから、私たちは単にこの肉体だけではないとか、決して肉体ではないということが、もちろんある 程度までわかっています。

ときどきサマディの状態のときに、みなさんは自分の体が存在していない感じがします。自分が存在しているのはわかっていても、肉体としてではありません。肉体は見えません。肉、骨、髪などの物質的な形跡は見つからないのです。すべてが光、すなわちすべてが神です。これが、本当に私たちが神であることを認識したときで、唯一神だけがその神殿に住んでいるとわかったときです。そして結局、その神殿も消えていきます。唯一この認識だけが私たちを真に楽しませてくれます。そうでなければ、聖書を何回読んでも、いくら他の多くの先生が「私たちは真の神の子である」とか、「神の王国は私たちの内に存在する」と教えてくれても、私たちは決して信じられないからです。

私たちは毎日聖書を読みます。それを暗記していて、最初のページから最後の文章まで暗唱することができるかもしれません。けれども、私たちは依然として神を認識してはいません。毎日私たちは神に、このまだ知らない神に、私たちの質問に答えるよう、要求を叶えるよう、望みに応えてくれるよう祈っています。実はその間中、結局私たち自身が祈りの対象になっているのです。そして、ときには神が私たちの問題に答えないとか、私たちの要求を叶えてくれないと、神に腹を立てることがあります。自分が神であることがわかったとき、私たちはもうこれ以上神を責めたりはしません。私たちはこれ以上、祈ることすら必要なくなります。どんなものも自分の思い通りに手に入れることができますが、もうこれ以上望んだりはしません。

そのとき私たちは、「主は羊飼い、私には何も欠けることがない」と言えます。なぜなら、私たちはとても満たされているからです。ベンツを運転しようが、自転車に乗ろうが、歩こうが、とてもうれしく、とても満足しています。私たちの内面がとても豊かなので、嫌な思いをするものなど何もありません。たとえ私たちが国王でも、物ごいでも、どんな状況でも同じように幸せでいられます。なぜなら、私たちは幸福の意味を本当にわかっているからです。そのとき幸福は私たち自身であり、これが悟りがもたらしたものなのです。これは、聞かねばならない理論ではなく、自分自身で体験し、認知し、認識しなければならないものです。さもなければ、私たちは多くのことを理解することができませんし、個人的な人間関係でも、仕事の関係でも、神との愛の交流にしても、お互いに誤解し合い、またとても苦しみ続けることになります。私たちは、敵を許す大きな真の理解と愛の心を持とうとしないのです。ですから、そのときはじめて、私たちには敵など存在しないと認識するのです。

聖書で、「汝の敵を許し、汝の隣人を愛せよ」というような言葉をたくさん読んだことがあるでしょう。けれども、私たちは自分が何なのか、誰なのかを本当に認識するまで、その理由を決して理解することができません。そのとき説明は不要です。私たちは愛の流れに満ち、光が私たちを包み込みます。私たちは愛や光になります。望んでいるものに、いつも祈っているものになります。私たちは神のようなものになるのです。私たちがイエスのようなマスターを崇拝する理由は、彼がまるで神のようだからです。仏陀が敬愛される理由も、彼がまさに神のようだからです。彼は私たちが想像する神そのものだからです。けれども、私たちもそうなれるのです。それはイエスの言ったことですから、私たちは彼を信じなければなりません。イエスが私たちを騙す理由はありません。彼は誰からもお金を受け取ったことがないからです。しかも当時、教会や家を建てたことさえありませんでした。彼は歩き、何も財産を持っていませんでした。ですから、この惑星のどんな魂にも嘘をつく理由がないのです。彼はこのように言いました。「私にできることは何でも、あなたがたにもできる」「あなたがたはみな神 の子である」。彼は本当にこのように言ったのですから、私たちは彼を信じなければなりません。今私たちにとって、唯一すべきことは、彼の言ったことを認識して、そして自分で証明していくことです。彼はすでにそのことを約束をしたのですから、私たちはその方法を見つけ、これらの約束を果たさなければなりません。これが悟りに関することのすべてです。とても簡単なことです。

真理を見つける者は幸いである

悟りはすでに私たちの内面にあります。神の王国は私たちの内面にあります。神の王国は間近です。「間近」というのは、いつでもそれを手に入れられることを意味します。方法を知っているかぎり、神の王国はそれほど遠くありません。過去のマスターたちはすでに亡くなってしまいましたが、彼らの教理や法脈は、どこかでなんらかの形で生き続けています。エルサレムや、インドのブッダガヤに残存しているとはかぎりません。それは川の流れのように、生活の場に深く流れ込み、どこにでも流れ、支流となって広がっています。どこかに隠れてしまっていたのですが、突然どこかに姿を現わします。それで私たちは今、その川が湧き出したことろを見つけ、生命の源泉へとたどりつかなければなりません。その川が地下に隠れてしまったり、この惑星の異なる隅々に流れた後、再び現われて来る場所があります。それを知っている人は、本当に幸運なのです。

同様に、古代のマスターたちの教理も消えていません。準備ができたら、いつでも私たちはその川を再び見つけることができるでしょう。私たちの友達や知人を通して、あるときはとてもおもしろいきっかけや不思議な偶然によって、もう一度その教理の流れを見つけることになるのです。あるときはとても簡単にスーパーマーケットで見つけることができますし、またあるときはもっと困難で、ヒマラヤに行かなければならないのです。またあるときは、図書館やお菓子屋さんで偶然に出会うこともあります。誰にも予測はできません。神の仕事のやり方はとても謎めいていますが、それはいつも私たちの利益のためなのです。すべての人が必ずしも、悟りを求めてヒマラヤとかどこかとても遠いところに行く必要はないのです。神は私たち一人ひとりに、その望みや誠実さによって、異なった手配をするのです。宇宙の書に記録されたそれぞれの運命によって、私たちはここや、どこか他のところで、その悟りを開くためのチャンスに出会うのです。

私は、幸運にもこの新たに湧き出した川に出会って、この生命の水を飲むことができました。本当においしかったです。自分でそれを味わったので、本当においしいとわかったのです。それで、戻って来てみなさんに知らせるのです。その水を手に入れる場所も教えることができます。ですから、みなさん自身で味わってください。(拍手)思いがけず、私はみなさんより先に、一番にそれを発見したのです。もしかしたら、誰かがここに座ってそれを私に話したかもしれません。そうです。けれども、神の意思で小柄の私が選ばれたのです。なぜなら運びやすいからです。(マスターとみな笑う)小さなものは遠くまで行けるのでしょう。私にとって、どこでもこっそり出かけて行って、みなさんのためにその川を見つけることはとても簡単です。ですから、どうして私なのか聞かないでください。私にもわからないのですから。(マスター笑う)ただ、誰かが何かを、とにかくどこかで、いつか見つけなければならないことなのです。みんなが同時に、同じものを見つける必要はありません。たとえば、アインシュタンは、唯一自分だけの理論を持っていましたし、たとえばニュートンは一人で十分です。そ れで彼は世界中の人々とその知識を分かち合い、世界中の人の役に立つことができるのです。ですから、私たちには二人のアインシュタンとか、二人のニュートンなど必要ありません。もし太陽が二つあったら多すぎるし、暑すぎます。カリフォルニアの夏は本当に暑いのに、そのうえ太陽が二つもあったら、多すぎてあふれてしまいます。太陽は一つだけで十分です。さて、私が遠くからここに来たのは、この福音をみなさんにお知らせするためです。みなさんがそれを受け入れたいなら、それを見つけ出したいなら、私は喜んでみなさんと分かち合うつもりです。無料です。手数料も、何の条件もありません。(マスター笑う)後にも先にも、その間も不要です。そういうことです。簡単です。(拍手)

このような公共の場で話すのは久しぶりです。たまに同修のグループの中で話すことはありますが、今回のように本当の公共の場での講演の機会はなかったので、弁才がなくなったかもしれません。けれども、それはとても簡単なことです。私は話す必要を感じないこともあります。みなさんが何もかも理解し、知っている感じがしました。なぜなら、みなさんは神だからなのです。私はここに座って神々を見ています。そういうわけで、私はとてもうれしいのです。(マスター笑う)話す必要はありません。けれども、質問があったらみなさんのために、もっと詳しく説明する時間があります。ですから、遠慮なくどうぞ質問してください。みなさんの知識も分かち合えるかもしれません。

講演後の質疑応答

司会者:悟ったマスターに質問ができ、真の答えをいただけることを光栄に思います。この方は、真理を悟った人です。私は、UCアーバイン校の卒業生として、このようなマスターを我がキャンパスに迎えることができ、とても光栄です。最初の質問です。マスター、観音法門の座禅の起源と修行法を教えていただけませんか?

M:先程述べたように、それは神から与えられたものです。遥か昔、天地創造が始まって以来、私たちが人生劇を演じ始めてから、神は私たちにその元へ帰る道を与えてくれました。これが観音法門の起源です。その修行法については、もしみなさんが興味があり、後で残れるなら、もっと詳しく説明してさしあげます。もっと詳しい説明が必要です。そうすれば、私と別れてから家で困らずに修行することができます。みなさんは、一回でできるだけ覚えて、永遠に忘れないように注意することです。そうすれば決して忘れないでしょう。マスターが生きているか死んでいるか、ここにいるかいないか、もう一度出会えるか出会えないかにかかわらず、みなさんは家で自分一人で全部実行できます。そういうわけで、慎重にそれを学ばなければなりません。長くはかかりません。たぶん二、三時間で全部教えられるかもしれませんが、これは一生にかかわることなのです。

ここではそれほど時間がありませんので、観音法門は実際には一つの法門ではない、とだけ簡単に言っておきましょう。これは、私たちが本来備えている神のパワーです。それによって、私たちは神であると証明できるのです。私たちはその神のパワーを持っているので、印心のときに、マスターは私たちにそれを思い出させる助けをするのです。しかもすぐにそれを思い出して、それを感じることができます。そのパワーを実感でき、ときには私たちの心を大きく揺り動かすのです。けれども、後でまもなく落ち着いてきます。なぜなら、みなさんは、自分が神であるということを知るからです。最初は興奮するかもしれませんが、後になれば「大丈夫、それがどうしたというのですか。誰もが神です。大したことではありません」といった具合です。(笑い)

Q:どうして過去のカルマを消す必要があるのですか?

M:この世に留まり続けたいなら、それは不要です。もし自分の属するところに戻りたいと思うなら、一切の債務を返済しなければなりません。苦痛を受けたり、悟りの薬を飲むことによって返済していきます。一旦私たちが悟りを開いたら、過去のカルマは消されますが、現世のカルマはまだ残っています。未来のカルマは存在していませんので、このようにして私たちは自由に神の王国に戻ることができます。過去のカルマの蓄積によって、私たちはこの世に留まることができるのです。

カルマというのは、何を意味するのでしょうか。それはサンスクリット語で、因果のことを指します。すなわち、聖書の「自分の蒔いた種は自ら刈り取らねばならない」ということです。太古の昔から、天地創造以来、私たちは悪い行いの種と善い行いの種をたくさん蒔いてしまっているのです。そういうわけで、私たちはこの世に存在し続けるのです。なぜなら私たちは、返済、借金、また返済、再返済し続けているからです。絶え間なくこの世に戻って来て、前世の債務を支払うのです。ですから、この債務をすっかり返済して束縛から自由になるために、過去のカルマを消さなければばなりません。一回で過去のカルマをすべて消す唯一のものは、悟りを開くことだけです。一旦私たちが悟りを開いたら、過去のカルマは消え去ってしまいます。これはスイッチを押して明かりをつけるのと同じで、たとえ長い歳月暗闇だったとしても、その部屋の暗さは一瞬のうちに、消え去るということです。ですから、過去のカルマを消すのに他に方法がありません。なぜなら私たちのカルマはとても多いからです。ですから、悟りを開くことが必要なのです。

Q:親愛なるマスター。あなたをとても慕っています。動物の研究をすることについて、ご意見を聞きたいと思っています。動物で研究をすることは、非倫理的なことでしょうか?

M:医学の研究目的で、動物実験をすることを指すのでしょうか? 誰の質問ですか?(質問を提出した人は、姿を見せない)では、どう答えたらいいのでしょうか。医療制度を攻撃してほしいのですか? そうしたら、彼らは私を殺すかもしれません。(笑い)ある人は、人類を助けるために、動物実験をする必要があると言います。その動機が純粋なら、私たちには人を裁く権利はありません。けれども、動物の立場から見れば、これは非常に冷酷な、慈悲心のないことと言えます。そのようなことはやめて欲しいと思います。私はみなさんが悟りを開いて、内面から自分自身をすっかり治すことを願います。(拍手)

Q:私には魂がありますか? もしなければ、どのように輪廻するのですか?

M:聖書によれば、私たちには魂があります。ですから、あなたにも一つはあるはずです。(マスター笑う)実際、輪廻するのは魂ではありません。魂は永遠に存在しているもので、それは不生不死で輪廻しません。これは人生の体験です。これは、私たちがこの世でいわゆる人生という体験をしているときに、物質と精神両方の融合過程での体験なのです。それは私たちの「生存しているという意識」に執着し、私たちを輪廻させます。私自身と呼ぶ、この種の経験から離れなければ、私たちは絶えず輪廻します。けれども、実際私たちは輪廻することも、死ぬこともありません。私たちはただこれらの出来事や、私たちの身に起こることによって、病んで病気になっているだけなのです。もし私たちがそれからきっぱりと離れないなら、当然私たちはそれとの関係が永遠に続いていきます。因果は絶えず変化したり、移動したり、増えたり、減ったりするのです。これがいわゆる、私たちが輪廻するということです。もし私たちが十分に悟りを開かないなら、このようになります。

Q:マスター、ある人は職場で自分を表現したいと思っても、その機会が押さえつけられます。仕事において、どういう態度でいるべきですか? どうすればいいですか。職場で野心を持ったら悪いのでしょうか? このことについて、あなたのお智慧をいただければありがたいのですが。

M:では、現実の生活の話題に戻りましょう。仕事ですね。(マスター笑う)職場で野心を持つことは間違いではありません。野心は必要です。そうでなければ、どう仕事をするのですか? どうやって進歩できますか? どのように上司と自分とを満足させますか? どうしたら自分の会社に利益をもたらせるのでしょうか? これが職務というものです。野心を持つことが職務なのです。野心を持つというのは、人を踏みつけて進んで行くということではありません。野心は、悪意や嫉妬とは違うものです。野心があれば、いつでも自分を向上させ、人を圧迫することはありません。もし私たちがある程度圧迫された気がしたら、その原因を究明しなければなりません。例えば、私たちが十分にできないとか、個性の問題とか、他の人が私たちをとても妬んでいるのではないかとかです。できるならその人と十分に話し合いなさい。私たちが正しくて、その人が間違っているとわかったなら、その人によく話してあげなさい。もし彼女または彼がよくなったら、許してあげましょう。もし彼らがよくならなくても、とにかく彼らを許して自分の仕事を続けます。私たちは、この人生では何らかの衝突は避けら れないでしょう。これは事実です。人間関係でも、ときには夫婦でも、もしその一方が非常に成功すれば、嫉妬し合うのです。これは人の頭脳の問題で、魂の問題ではありません。ましてや、悟りを開いた者の問題でもありません。(拍手)

魂には精神的な栄養が必要である

Q:どうして毎日二時間半の座禅をする必要があるのですか?

M:これは、あなたがときどき二つか三つハンバーガーを食べることと同じようなことです。(マスターとみな笑い、拍手)これは多かれ少なかれ、体を維持するために毎日食べるほぼ一定量の食物です。同様に、魂にも毎日一定量の精神的栄養を与え、自分の神の、神に似た品格を強くしていくのです。そうしなくてもいいのですが、これは処方されたものです。医者からの処方箋で、決められた量なのです。

これはだいたいのことで、それほど厳しくはありません。それに、寝ているときにも座禅することができますし、バスや飛行機でもすることができます。トイレに入っているときにもできます。失礼しました。(笑い)そうです。私たちはそうすることができるのです。私たちは同時に多くの仕事をすることができます。座禅をする時間はいつでもあります。「好きでもない」テレビ番組を減らして、新聞で重要なことだけ読んで、電話で話すのを少なくすれば、たくさんの時間が作れるでしょう。また、寝る時間も少し減らします。ときどき、私たちは寝ていないこともあります。朝遅くまでベッドの中でゴロゴロしているだけです。(笑い)そのとき、私たちはとてもよく座禅できます。ゴロゴロする代わりに座禅をして集中するのです。そうです。とても単純なことです。無意味なことをあれこれ考えるより、精神を集中させるのです。そこがあなたが座禅をするところになるのです。仏陀のように座って足を組む必要はありません。ただ横になって集中すればいいのです。みなさんの「怠惰」な時間を生かす方法を教えてしまいましたね。すみません。(マスターとみな笑う)「無意味な」時間や心が散 漫になって何もしないとき、その時間で神を思い出すことができるのです。とても簡単です。(拍手)

Q:いつかこの世界が平和になると信じますか?

M:(マスター笑う)あなたは信じますか?(笑い)たぶん、西暦3000年かもしれません。いいえ、この世界には決して平和はやって来ません。なぜなら、そうでないと、世界とは呼ばず、天国と呼ぶことになるからです。(拍手)

Q:親愛なるマスター。ここに来てくださってありがとうございます。直観力というのはどこから来るのでしょうか? どう決断したらいいのですか? ときどき私はとても困惑します。二つの選択があり、ときにどの選択がいいか決めかねるときがあります。なぜなら、どちらも私の生活にかかわるものだからです。どちらを選ぶべきか、本当にわからないのです。どう決断すべきか、確かにわかるような境地に到達したいのですが。

M:それには少し時間がかかります。そういうわけで、悟りを開くことが必要なのです。私たちの忘れてしまった智慧のパワーを取り戻さなければならないのです。多すぎる世俗の煩悩は、私たちの視覚を曇らせてしまいます。ですから、私たちは決断力がなくなります。そして、私たちは自分が明晰でないことを知らないために、判断ができないのです。さえた頭が必要です。毎日二時間半の座禅をすることは、考えをはっきりさせ、源に戻って、神のようにさせてくれます。そうすれば、私たちはどうすればいいかわかります。とても明晰になりますし、とてもはっきりしてきます。もしあなたが座禅をそのように多くせず、座禅をしたくなくても、直観力を持っていたら、それはみな神の智慧の残った部分です。ときに、それは世俗の煩悩や生き延びる努力に覆われてしまいます。けれども、ときにそれははっきりしています。これが直観力と呼ばれるものです。さえた頭を持っていないと、危険を冒さなければならなくなります。どちらが適切なのか、どちらが可能性が高いかを感じとり、そして決断しなければなりません。危険を冒さなくてはいけないのです。誰もどうすればよいか教えてくれません 。まず神に祈り、一つを選ぶだけです。そうでなければ、紙を二つに破って、一枚は左手に、もう一枚は右手に持って、その一枚を選ぶのです。どちらも冒険を冒すことには変わりありません。ですから、自分の智慧、自らのマスターのパワーを取り戻すことが必要なのです。

Q:親愛なるマスター。もし私が誠心誠意あなたに祈ったら、永遠に解脱できるのですか?

M:そう思います。(マスターくすくす笑う)けれども、あなた一人だけです。ところが、もしあなたが悟りを開いたら、あなたは自分自身と他の人たちを解脱させることができます。一人の人が悟りを開いたら、あなたの何世代もの親戚や友達、あなたの犬や猫でさえ解脱できるのです。あなたが本当に誠実に、神の化身に祈るなら、あなたはたった一枚の切符だけを手にします。けれども、あなたは、自分が本当に誠実かどうかすらわからないのです。ときにそれはわかりにくいのです。

Q:聖書で述べているような地獄は存在するのでしょうか?

M:あなたはどう思いますか? 存在していますか? この世界を見れば、その答えがわかります。他を見る必要はありません。地獄について、ある悪い笑い話がありますが聞きたいですか? 聞きたいですか、聞きたくないですか? (聞きたいです。笑い)気が狂わないでください。18か9の女の子がいました。泣きながら家に帰り、母親に言いました。「ママ、もうジョンと結婚したくないわ。結婚式を取り消したいの」と。お母さんは言いました。「でも、どうしてなの? あなたたちは、もう婚約しているのよ。結婚式は来週よ。何が問題なの?」女の子は答えました。「もう彼のことが好きじゃないの。彼は無神論者で、地獄のことも信じないのよ」。するとお母さんはこう言いました。「心配しないでいいわよ。結婚したら、きっと信じるから」。(笑い、拍手)悪い冗談ですね。いつも真実とは限りませんが。

なぜ私たちはこの世に生まれて来たのか

Q:マスター、どうして私たちは堕落したのですか? どうして、決して輪廻したくないと第一に思う人たちは、純粋な意識を持ち続けることができないのですか? カルマのことはわかりませんが、借金とクレジットのようなものですか?それとも、創造主の計画の一部ですか? どうして神は、私たちにカルマの苦痛をこんなにも与えたのでしょうか?

M:それは神でなく、私たちのしたことです。これは計画の一部で、私たちが神と神でないものの違いを知り、学ぶためのものです。ですから、私たちがもう一度光に帰ったとき、光を認識することができるのです。私たちは光輝満々の光を認識するために、わざと暗闇に入って行くのです。天国を離れたくない人たちは、この世には来ていません。あるマスターたちは確かに、決して天国を離れませんでしたが、あるマスターは天国を離れてこの世に生まれて来て、私たちを教え導いてくれます。その中には、何回かこの世に生まれ変わって、マスターになった人がいます。これはみな、自分の選択です。私たちが望んだので、そうするのです。

私たちにカルマがあるということについて、たくさんの答えがありますが、だいたい二つの主な目的があると言えます。第一は神を認識したいからです。私たちがわざわざこの世に来た目的は、神を認識するためです。私たちが天国に住んでいたときは、すべてが光に満ちていて、誰もが聖人で、誰もが神でした。そして私たちは神に質問しました。「神よ、神とは何ですか?」神は答えました。「そなたが神である。神はそなたである。神はこのようである」「私には神のことがわかりません」。神は言いました。「そなたは神のようである」。けれども、魂はこのことを完全に理解していませんでした。そして、神に質問しました。「どうすれば神を認識できますか? どうすれば私が神であるということが認識できますか?」神は言いました。「まず、そなたは神と違う者に変わり、自分と異なる者にならねばならない。そして振り返ると、そなたは知るであろう」。これこそ、私たちがこの世に来た目的の一つです。すなわち、さらに自分自身を認識しようとするのです。

もう一つの目的は、こうです。天地創造以前は、この世界には何もありませんでした。そこで、神は一つの計画を立てました。神は、万物が出現して生きものとなることを望み、私たちはこの計画に参加しました。私たちはこの大計画の各場面で演ずることができて、とても楽しかったのです。おもしろ半分でやったのです。生活に彩りを添えるためです。けれども、ある人は自分の役を知ってて演じています。その目的は、いつか再び神になるということです。彼らはもう一度神を認識することができるのです。

神を認識するために、彼らは様々な役を演ずることが必要です。そしてある役は他の人と関係があります。まるで映画のようです。主役がいれば、脇役などもいます。さもないと、劇を進めていけません。それで今、私たちはそのカルマが非常に重く、不合理に感じるのです。けれども、当時私たちにとってそれは大したことではありませんでした。なぜなら、私たちは神だったからです。私たちは苦しみを見ず、問題というものを知りませんでした。障害を不快だとは思いませんでした。私たちにとって、一切は劇のようです。けれども、一旦本気で自分の役を演ずると、私たちは苦しさを感じました。けれども、それはゲームの一部分です。宇宙計画の一部分です。もし私たちが自分の役を演じないなら、私たちはこの世に存在しませんし、ここには何も存在しないのです。私はここに座っていませんし、みなさんもそこに座っていません。みなさんは金髪ではありませんし、私も黒髪ではありません。それでは、ここには何があるでしょうか。すべてはとても普通になります。とてもいいですね。すべての完璧なマスターたちは言いました。「太陽の下では、一切は完全無欠である」。イエスも言いました 。「あなたがたはみな神の子である」。彼らは、「何もすることがない」「みなが完璧である」と認識しました。けれども、私たちはまだこのことを認識していませんから、苦しみ続けます。私たちは彼らと同じことを認識しなければなりません。そうすれば、それがなぜかわかります。そして私たちは苦しみを、苦しみはないと見なすことができます。依然として苦しみは存在しています。例えば、つねられると痛いと感じますが、その原因はわかっていますから、苦痛は感じないのです。苦しみのなかに沈み込んでいません。ただその上を漂っているだけです。

Q:親愛なるマスター。私の妻は今日ここに印心を受けに来ました。彼女は長い間菜食をしています。私も菜食しようとしたことがありますが、失敗してしまいました。どうして失敗したのか、どうすれば成功するのか教えてください。

M:あなたの奥さんは菜食料理法をもっと習いに行った方がいいでしょう。かわいそうな夫は、へたな料理さえ食べられないのです。ですから実際、悟りはここから始まるのです。(マスターは自分のおなかを指差す)ここからだけではありません。(マスターは智慧眼を指差す)(笑い)私が夫と初めて出会ったとき、(前の夫です、彼はすでに再婚しています)私は菜食だったのですが、彼はそうではありませんでした。彼は医者で、とても実務家で、とても現実的な人です。彼は牡牛座生まれで、東洋の黄道十二宮では金牛宮に属しているので、二重の牛です。ですから、無意味なことは信じません。けれども、私は料理が上手ですから、彼は毎日私と一緒に食事をしていました。菜食主義にはまったく反対はしていませんでした。私が「世界を救うという理想」の実現のために、(マスターは冗談ぽく話す)彼のもとを去った後、彼は私の料理の作り方を全部集めて、友達に料理を作りました。しかも、彼はいつも「妻はかつてこれを作ったし、あれも作ったものだ。野菜はみなビタミンが豊富だ」と宣伝しました。彼はまさに私の残したレシピどおりに料理したのです。

西洋人で、ドイツ人の、科学的な頭脳を持つような医者でさえ、菜食者になれたのですから、みなさんも当然なれます。もし奥さんたちがみな料理上手なら、何の失敗もありません。例えば、あなたは中華スープのようなものを一杯飲んだとします。その中には麺や何切れかの肉が入っています。その肉の代わりに、グルテンミートや、豆腐類の肉や、菜食ハムや魚など何でも使うことができます。多くの菜食食品は、一見してまるで本当の肉食品のようです。これは製造技術によるところが大です。悟りへの道は、おなかを通って行くことだと、私は信じています。ですから、みなさん奥さんたちは、腕によりをかけて、すばらしくおいしい料理を作ってください。そうすれば、ご主人はあなたと一緒に食事をしてくれるはずです。女の人は、菜食をするのは簡単です。本当です。女の人はあることを一旦信じると、何でも食べます。(マスターとみな笑う)けれども、男の人はより科学的で、より実利的で、女の人のように感情的ではないのです。女の人は感情や、愛情や情緒などに頼って生きていくものです。ですから一旦信じると、味はどうあれ食べます。(笑い)けれども、男の人はあら捜しをする方 ですから、味覚が第一で、それから悟りがついて来るのです。(笑い)

Q:マスターChing Hai 、私たちとあなたとの霊的なつながりを説明してください。あなたが死んだ後でも、あなたの魂は前と同様に、印心を受けた者を連れて故郷に飛び帰ることを保証してくださいますか?

M:保証します。(拍手)先に述べたように、私たちは肉体ではありません。私たちは魂そのものなのです。ですから、肉体が行ったり来たりしても、私たちの間に何の違いも、いかなる距離もありません。私がすでにお話したように、印心を受けるとき、この法門の説明があり、みなさんは一生それを使って修行をすることができます。何も私たちの間に介入することができません。もし、あなたが修行をしたくないなら別です。それでも、この種は来世まで存在し続けるのです。

Q:マスター、私の五人の子どもはすでに印心を受けて、観音法門の修行をしています。けれども、私はかなり年をとっていますが、誰でも悟りを開くことができるのでしょうか? どんな条件が必要ですか? 誠実さが唯一の基準ですか?

M:そうです。誠心誠意でさえいれば十分です。けれども、年をとり、ある年齢を越えると、体や記憶がそれほど敏感ではなくなることもあります。そこで、私たちは彼らに、次回来世で再び戻って来るように言います。あるいは、方便法を修行しても、彼らを助けることができます。全印心を受ける必要はないのです。けれども、方便法は一人の解脱しか保証できません。印心は、何世代もの解脱を保証することができます。これがその違いです。印心を受けてから、自分で修行をして、悟りを開いたマスターになったり、とても多くの魂をも救うことができるのです。

Q:マスター、全体的に見て、どうしてキリスト教は輪廻を信じないのですか? 聖書では、輪廻のことに触れていますか?

M:触れています。けれども、削除されてしまったのです。ある人がイエスに、彼がエリヤという預言者かどうか、つまりイエスが過去のマスターの生まれ変わりかどうかと聞いたとき、彼は沈黙を守ったのです。これが、人々が忘れてしまった、削除された聖書の一部です。もし輪廻が存在しないなら、イエスはこう言ったはずです。「いいえ、マスターがこの世に戻って来るということはない。私は一人である。一回だけで、再び来ることはなく、今後もない」と。彼は沈黙を続けましたが、そのようなとき、沈黙は、よろしいとか、同意とか、黙認を意味します。そうでなければ、イエスは、弟子たちを間違って導かないように、はっきり解釈したはずです。けれども、彼は沈黙を守ったのです。

Q:親愛なるマスター。一人が印心を受けると、その人の五世代がみな救われる、ということを説明してください。現世の家族が肉食をしたり、お酒を飲んだりしても、彼らもやはり救われるのですか?

M:彼らも救われます。残念ながら、運がいいですね。(マスターとみな笑う)もし彼らが故意に解脱したくないなら、いうまでもなく、マスターも無理強いはしません。なぜなら、誰もが神だからです。忘れないでください。私たちはみな神です。誰も、神にこう死なさいと言うことはできません。たとえ他の神でもできないのです。彼がどんなに悪い人でも、どんなに善良な人でも、それは彼自身の決定です。彼自身が自分の人生の道を選択したのです。自分の演じる役を選んだのです。ですから、たとえ彼が悪人でも大丈夫です。そういうわけで、聖書では「人を裁くな」と言っています。

Q:私たちが悟ったマスターになる前に、人類のために彼らを救うとあれこれ誓いを立てます。ですが、マスターになってから、何かの理由でその考えが変わってしまいます。なぜなら、今私たちは違う見解を持っているからです。私たちはこの誓いを実現しなくていいのですか? それとも因果律に従って、この誓いを実現しなければならないのですか?

M:私たちは自由です。自由にやりたいことをすることができます。

Q:The Supreme Master Ching Haiに、ごあいさつ申し上げます。地球は一つの偉大な存在として、その愛の力で私たちの向上を助けてくれます。これについて、あなたの見解を聞かせてください。

M:聖書によれば、万物は神によって造られたものです。万物は言(ことば)から現われたものです。言(ことば)とは宇宙の振動力です。この振動力は神です。これが観音法門です。ですから、私はこの宇宙の振動力、万物と通じ合うよう、みなさんに教えているのです。そういうわけで、私たちがたとえ人間だとしても、神から来たものです。同様に偉大な地球や宇宙の万物も、みな神から来たものです。違った形や密度を持っているかもしれませんが、みな神と同じような品性を持っているのです。ですから、この場合地球もあなたの述べたように偉大な存在なのです。私たちはここに住んでいて、この地球によって生活をしているので、当然この偉大なる母を尊敬しなければならないのです。(拍手)

夢の中でカルマを清算する

Q:私たちは、夢の中でカルマを清算することができますか? それはどのようにするのですか?

M:私たちは神の恩恵があるときだけ、夢の中でカルマを清算することができます。そうでなければ、ほとんどの場合、物質の形でカルマを清算しなければならないのです。すなわち、「目には目を、歯には歯を」というようにです。印心を受けたり、悟りを開いた後、私たちは神の恩恵によって暮らしていくのです。定業(前世から決まっているカルマ)を除いて、私たちはもはや因果律に支配されて暮らす必要はありません。それは、この生命を存続させるために、定業を持たなければならないからです。そのカルマはなくてはならないものです。けれども、それはある程度まで消され、滑らかにされて、とても少なくなったり、夢の中で清算することができますが、それは印心を受けたり、悟りを開いたときだけのことです。

Q:マスター、印心を受けた人が要求された二時間半の座禅をすることができなかったら、どうなるのでしょうか。

M:それなら、しばらくそのレベルに留まるでしょう。(笑い)みなさんのような学生と同じです。例えば、あなたが学生として登録して、あるレベルのクラスに入っていても、ちゃんと勉強しなかったら、どうなりますか? そうしたら、そのレベルに留まるでしょう。(マスターとみな笑う)あなたの成績はAではなく、Jを取ります。このようになります。けれども、あなたは依然として大学生です。あなたは小学生や幼稚園児になるというわけではありません。少なくとも、あなたは大学生に間違いないのです。けれども、疑いもなくあなたは程度の遅れた学生です。

Q:マスター、あなたに観音法門を授けた人についてもっと知りたいのですが。その方、もしくはあなたはイエスの生まれ変りですか? その方の名前は何といいますか?

M:いいでしょう。随分前にこのことを話したビデオがあります。彼は、マスター クダ・ジと言います。すでに神のもとに戻りました。イエスは決して輪廻しません。他のマスターもそうです。輪廻とは、私たち人間、カルマを背負った人たちだけのものです。ですから、みなさんはイエスは輪廻転生したとも、していないとも言えます。実際、輪廻するのはイエスではなく、キリストのパワーが絶えずこの世に来ているのです。神の意思を通して、違う人が降りてきて人類を救うのです。ですから、「そう」とも、「そうでない」とも言えます。(拍手)  

Q:あなたの教理は一般の宗教とどう関係がありますか? あなたの教理によって、自分の宗教への信仰を高めることができますか?

M:はい、できます。あなたはすでに知っていますね。私は、あなたに自分の宗教をもっと良く、深く理解させることができます。もしあなたが悟りを開いたら、あなた自身が宗教であり、真理そのものになるのです。あなたはもう一冊聖書を書くことができます。けれども、その必要はありません。一冊の聖書で十分です。あなたはただ、それをよく実証して理解するだけです。もうそれで十分です。

Q:夢について話していただけませんか。

M:色々な夢があります。悪い夢もあれば、よい夢もあります。まさ夢もあれば、毎日の様々な情報から集められた断片のような夢もあります。ですから、それらはみなミックスサラダのようです。あるとき、夢は未来の予言だったり、過去の回顧だったり、あなたの潜在的な欲望や願望と言えるでしょう。こんな夢なら、千里眼の夢と言え、つまり一種の内在の体験です。観音法門を修行をしている人たちや、座禅をしている人は、このような内在の体験の夢を見ます。それは、夢といえどもとても鮮やかで、色彩に富んだ、光に満ちて明るく輝いています。それは、もはや夢とは言えません。内在の体験です。いわば、天国に入っているということです。あなたが座禅をして天国に入っているとき、それはほとんどまるで夢のようです。けれども、目が醒めると、あなたはとても興奮し、充電され、活力に満ちて、生命力や愛に満ちあふれます。そのときのあなたは、自分自身をどうすればいいかわからなくなって、みんなと抱き合ったり、キスしたいと思うのです。けれども、そうしないでください。(笑い)気が違ったと思われますから。

Q:動物や植物には、自分たちの神がいますか?

M:私たちにはたった一人の神がいます。(笑い)同じ神です。すべての者にたった一人の父がいるだけです。イエスはこう言いました。「野の百合を見よ、父はいかにそれを育てるか」(マタイ6:28)ですから、必ず同じ神に違いありません。(笑い)みなさんは聖書を読んでいるのに、とてもたくさん質問しますね。聖書には、なにもかも載っています。違いますか?

Q:どうしたら、一回で前世の体験をすべて断ち切ることができるでしょうか?

M:過去の体験ですか? お話したように、印心を受けることです。印心のときに、マスターはみなさんの蓄積されたカルマを消すのです。それで、みなさんはもはや過去のカルマを持たないのです。もし欲しいなら、いくつか拾ってあげましょう。(マスター笑う)もしこの世界に戻って来たいと思うなら、歓迎します。

Q:マスター、あなたは私たちは神の子である、そして私たちはみな神であると言いましたが、その意味を明らかにしていただけませんか。私たちはすでに神なので、神を崇拝することは不要だという意味ですか?

M:いいえ。神を崇拝することは必要です。神は何かということを認識した後、私たちはなおいっそう神を崇拝します。神は愛に満ちあふれています。私たちととても親蜜で、世界中のどんな親友よりも親しく、私たちの皮膚より近い存在なのです。そのとき、あなたは、より真実の崇拝の意識で神を崇拝します。私たちがただ、「お金をください。妻をください。仕事をください。お願いします」と神に命令する瞬間、実はまったく神を認識していないのです。私たちは神です。けれども、まだ私たちは神になっていないのです。ですから、まず神をよく認識してから、質問をしたほうがいいでしょう。みなさんが神を認識したら、私に知らせてください。

Q:悟りの中で、人間愛はどのように役を演じるのですか?

M:人間愛ですか? そうですね。人間や動物を問わず、愛されることはすばらしいことです。私たちが誰かに、何かに愛されるたびに、それは神に愛されていると言えます。それは人間愛ではありません。母性愛でもありません。兄弟愛でもありません。実は、すべてが神の愛なのです。これは分けられた、非常に小さくされ、変化した愛というものです。誰かが私たちを愛しているということは、神が私たちを愛しているということです。ですから、害はなく唯一の救いとなります。誰かが私たちを愛したり、二人がお互いに愛し合っているときには、つまりいっしょに悟りを開いているときなのです。とても私たちの役に立つ、すばらしいことです

Q:進化論のことについて、どう思いますか? 何が問題なのですか?

M:まあ、私は科学者ではありません。私たちがサルやその類いから進化したという意味ですか?(マスターとみな笑う)私たちはみな神から来たのです。人間と動物は何かつながりがあるかもしれません。なぜなら、あるときには人間は動物と共に暮らしているからです。しかも、あるときたまたま偶然に、彼らは互いに繁殖していたことがあるかもしれません。けれども、人類はまったく異なる種族です。私たちは進化しません。私たちは神の姿に形造られています。それだけです。神は動物をも造りました。旧約聖書によれば、第一章の一ページ目にこのように述べられています。「神は人を、そして一切の果実や草を造った」。神は菜食のことにも言及しています。「私は野に一切の果実や草を造った。それらは目を楽しませ、おいしくあなたがたの食べ物となるであろう」。またこう言っています。「すべての動物にも、私はそれぞれにふさわしい食べ物を造った」と。神は私たちが々は動物から進化したものだとは言ってはいません。神は私たちが動物の王国の支配者になると言いました。私たちは彼らの王様です。ですから、進化について何も複雑なことはありません。私たちは人間であり、動物 もまた神から造られたものですが、彼らは人間ではないのです。

Q:現世で完璧な悟りを得るには、あなたのようにヒマラヤに行かなくてもいいのですか? あなたは、完璧で慈悲深いマスターですから、私たちを七年以内に悟らせることができますか?

M:あなたはヒマラヤに行く必要はありません。私はみなさんにこう言ったことがあります。それは私のカルマですから、行かなければならなかったのです。みなさんのカルマは、私のより良いのです。ただソファーに座って悟りを得ることができます。(マスターとみな笑う)七年間かかるか、七ケ月かかるかは、あなた次第です。あなたの運命次第です。いわば、あなたがこの世に生まれる前に選択したことによります。私は干渉することはできません。ただあなただけが知っていることなのですから。あなたはこの世に生まれる前の自分の選択に満足していたのですから、急いではいけません。どのくらいかかっても、それはあなた自身の選択です。あなたはかつて、神と七年間とか、十七年間とか、二十年間などの聖約を結んだのです。私たちの生命は永遠です。ですから、どのくらいかかっても大丈夫です。悟りは、印心のときに即座に起こります。それはまさに完全開悟で、ときにその人にもよりますし、勤勉さによっても、どれくらい急いで故郷へ帰りたいかによっても違ってきます。あなたは車を持っていますが、速く運転することも、遅く運転することもできます。ですから、七年間とか何年 かかるとか聞かないでください。問題はありません。悟りを得たら、あなたは日増しにうれしくなります。何年かかるかは気にしないことです。そういうとき、悟りのことすら考えないのです。なぜなら、あなたは神を認識しているからです。幸せということも知っているのです。あなたはただ満足し、満たされるのです。

Q:マハトマ(聖人)のエネルギーの紫炎や金色の光によって、世俗の邪悪やマイナスのカルマを、善やプラスのカルマに全面変化することはできますか。

M:神を認識するためには、マイナスのエネルギーが必要です。光を認識するために、私たちは闇を知ることを選びました。このような方法で、マイナス(否定)のものをプラス(肯定)のものに変化させると言えます。さもなければ、マイナスはマイナス、プラスはプラスです。あなたは、闇を光とみなすことはできません。けれども、光が闇の中で輝く助けをするために闇があります。それで、あなたはそれを認識できるのです。彼が言っているのは、座禅をして光を見ると、マイナスのパワーを中和することができるかいうことでしょう。もちろん、本来そうです。光が来ると、闇は消え去るのです。けれども、紫炎か金の炎かは、あなたの意識のレベル次第です。紫炎はややレベルが低く、金の炎はレベルが高いのです。あとで座禅をすればわかります。

Q:天国と光の境地に旅をしたことがありますか? もしありましたら、そこはどんなところですか?(マスターとみな笑う)

M:あなたは私のチョコレートを味わいたいのですか。それは不可能です。(笑い、拍手)食べたのは私なのですから。けれども、私には別のチョコレートがありますので、食べたいならばどうぞご遠慮なく。私はそれが甘くて、大きくて、ジューシーだと言うことができますが、あなたは聞いただけではわからないでしょう。自分で食べてみなくてはならないのです。印心を受けて、座禅をすればわかります。不可能なことはありません。私たち人間にとって不可能なことなど何もないのです。

悟りがすべてのことへの鍵である

Q:悪い習慣は、手かせ足かせのように私たちににつきまとっています。それを生活の中から取り去る一番効果的な方法は何でしょうか?

M:難しいですね。けれども、もし私たちが悟りを開いたら、ものごとが早く、劇的に変わってきます。このようにして、聖人は造られるのです。ですから、みなさんの文化の中に、こうした格言があります。「どんな聖人にも過去があり、どんな罪人にも将来がある」。

神を信じなさい。まじめに修行することによって、内在の光の導びきによって、あなたの内面にある神を通して、神の恩恵を受けるのです。すべては可能なのです。死から生へ蘇ることすら可能です。あなたは、自分の力で病を治すこともでき、習慣は言うまでもありません。末期の病気ですら治るのです。神の光のもとでは、何もかも可能になります。ですから、私はここに来てこのよい知らせを、よい福音をみなさんに知らせているのです。

Q:養子であるなら、血縁関係と養い親のどちらの家族の世代が救われるのですか?

M:血縁家庭のほうです。けれども、養い親のほうも救われるのです。先程言ったように、あなたの犬や猫ですら、利益があるからです。わかりますか? 冗談ではありません。あなたは、自分の犬や猫が悟りを得たのがわかるのです。彼らは、変わってきます。あなたの側に座って、一緒に座禅をするのです。(笑い)そうです、聖人猫になるのです。菜食猫にさえなります。(笑い、拍手)私たちのニュース・マガジンを読んでみてください。多くの真実が載っています。あなたが読むことはすべて真実です。証人は今なおこの世に生きています。あなたはそのページで現代の聖人に出会うことができます。犬や猫すら、魅力的になってくるのです。観音法門です。あなたの修行、あなたの光によって、あなたと血のつながりのない友達や恋人さえ、恩恵を受けることができます。なぜなら、神の恩恵は非常に寛大だからです。私たちには想像もつかない、不思議なことなのです。

Q:印心を受けた後、家に侵入して来た虫や鼠を殺したり、絶滅させてはいけませんか? また、雑草を引き抜くことはどうでしょうか?(笑い)

M:ええ、ある場合には、シロアリは外に引っ越します。もし家がきれいで衛生的であったら、生き物を殺す必要はありません。雑草は引き抜いてもいいですが、神の聖名を黙唱して、すべきことをします。暴力や恨みのために、殺生してはいけません。健康や家族を守るために、どうしても必要なときは仕方がないでしょう。そうでなければ、多くの場合同修が座禅をすると、害虫はみなどこかへ行ってしまいます。一切の虫は、近づきません。これはもっとも便利で、経済的な方法です。すべてのものが、私たちから離れてしまうのです。

Q:離婚のことについて、どう思いますか?

M:悪いことです。離婚というのは、恋愛問題の最後の手段です。まったく起こるべきことではありません。とはいえ、理解し合うことはとても難しいのです。なぜなら、男性と女性は非常に違うものだからです。男性は比較的に冷静で、率直で、単純です。けれども、女性は比較的センチメンタルで、ロマンチックです。ですから、戦争好きと美人は、ときにはうまが合わないということです。けれども、二人を仲直りさせる方法はたくさんあります。例えば、結婚問題のカウンセリング、それに関する本などがあります。もちろん座禅することなどの方法によって、二人がより愛し合い、理解し合い、要求が少なくなることがわかるでしょう。もし二人がほとんど同ようなレベルにいるならそうですが、そうでないなら、なお対立しているでしょう。でもまだお互いに愛しているのです。みなさんは、内面の平和を修めない他の人々のように、離婚することを訴えないはずです。そういう人たちは、離婚率が高いのです。私がそのとき、もし悟りを開いていたら、夫とは離婚しなかったでしょう。告白しますが、彼は最良の人でした。今に至ってもです。けれども、今は別の人の最良の人です。(マスターは 、手で二人の関係が終わったことを表現する)

みなさんが悟りを開いたら、相手をもっと理解することを学びます。印心を受けてから、夫婦二人で共に座禅をすることができたら、多くの家庭問題は消えてしまいます。本当に助けになります。みなさんは二人とも神であることがわかるからです。あなたの思いやりの心が湧き出して、そしてそれは拡大して、男女の一切の相違を覆うことになるのです。二人は互いに愛し合って、相手を神として尊敬することを学びます。肉体的な愛の他に、神聖な愛があり、それが二人を結びつけるのです。そして、より愛情深く、より責任を持ち、お互いの気持ちや要求により敏感になるのです。

Q:ある人は、悟りへの鍵を持っていながら、神の意識に入ることができませんが、何が問題なのでしょうか?

M:そうですね。そんな場合、あとであなたの時間が来たら、もう一度やってみましょう。誰でもみなそれぞれの時間があります。大丈夫です。急がないことです。私たちは永久に持っているのですから。

Q:第二レベルを超越すると、本当にカルマはなくなるのですか? もし私たちが、カルマによって、この世に生きているとすれば、カルマがなくなったあと、なおこの世で生きていくことができますか?

M:カルマがなくなるというのは、第三レベル「カルマ無し」の境地に達してからで、あなたは決してカルマを造らないという意味です。けれども、現世のカルマは、あなたの時間が来るまで、この世であなたを生かします。あなたの時間が来ればいつでも、カルマは消え去ってしまうのです。あなたはもうこの世に留まる必要はありません。けれども、第三レベルの境地に到達したということは、あなたの心境がすでにあるタイプに達し、決してカルマを造らなくさせるということです。何をしても、いつも正しく、自然なのです。けれども、それはあなたがまもなく死ぬということではありません。なぜなら、現世のカルマはなお存在しているからです。私たちの定業(不変のカルマ)は、あなたにこの世で、どれほど歩く必要があるか、どれほど息をする必要があるか、どれほど食べる必要があるか、それほど生きる必要があるかということで、それはすでに決められていることで、消せないのです。もしそう望むならできますが、でもなぜですか? ただあと数年、数日多く生きられるかのことです。どうして急ぐのでしょう? どちらにしても、これが最後の人生なのです。

マスターは与えるだけで、決して取らない

Q:親愛なるマスター、私は修行をして座禅教えたいのですが、俗事がたくさんありますので、どうすればいいでしょうか? 座禅を教えること以外で生計を立てたくないので、アドバイスをお願いします。

M:これは誰の質問ですか。あなたですね。今も教えているのですか? それで生活費を稼いでいるのですか?

Q:はい。けれども、足りないのです。

M:足りませんか。それで、どうしますか? あなたは範囲を広げなければなりません。あなたは間違った人に聞いたのです。私は、お金を取りません。

Q:では、どうやって生計を立てているのですか?

M:日常生活から、生活費を作ります。例えば、服のデザインをしたり、絵を描いたり、ええと、他に何でしたっけ。ジュエリーのデザインとかたくさんの仕事をしています。

Q:それでは、あなたは生計を立てるために、座禅を教えるより、他のことをしたほうがいいとアドバイスしているのですか?

M:そうです。もし私たちがいつも無料で神の道を教えるなら、それはより高尚だと考えます。なぜなら、それは、私たち一人ひとりに内在するものだからです。できることなら、それによって生活費を稼ぐべきではありません。けれども、もしあなたにお金が必要で、人があなたに寄付するのは結構です。神のプレゼントとして受け取るのです。けれども、私自身はどんなお金も要求しません。人々のお金を受け取るのが恐いのです。幼い頃から、良い気持ちがしないのです。昔から、どんなマスターもお金を受け取ることを許されませんでした。与えるばかりで、取ってはいけません。ただし、もし一般の違う座禅法の先生なら害はありません。けれども、マスターになろうと思うなら、何をも受け取らないほうがいいと思います。仏陀は働きませんでしたから、一日一食しか食べませんでした。それが、最小限の供養です。けれども、仕方のないことでした。その当時、彼はあちこちに行って弘法しながら、生活費を稼ぐことができなかったからです。しかも彼は僧侶で、僧侶は托鉢することが伝統です。人々はそうして敬意を表すのです。

現代において、もしあなたが物ごいをしたら、警察はあなたに刑務所に行くよう要請するでしょう。ですから、私はそうすることはできません。私が物質主義者というわけではありません。デザインすることによってお金を稼いで生計を立てることは、物質主義者の観点ではなく、実務的な見方です。私たちは現代に生きていて、現代人にあったきちんとした見苦しくない服装をしなければなりません。なぜなら、現代人はもはや物ごいの身なりを受け入れないからです。あなたは街を歩いて物ごすることができないのです。人はあなたをホームレスだと思うでしょう。第一あなたを尊敬しません。それで、あなたはどうやって彼らに教えるのですか?ですから、世間並みの人になるために、きちんとした服装をしなければならないのです。私は以前尼僧だったことがあります。そのときも私は生活のためにお金を稼いでいたのです。けれども、人からお金を受け取ることを良いとは感じていませんでした。それで、私は別の方法でお金を稼ぎました。野菜を育てたり、編み物をしたりしていたのです。一人でしたから、旅費はそれほどかかりませんでした。しかも、一日一食でしたので、わずかなお金で十分だ ったのです。

けれども今は、私の活動範囲は広がって、あちこち旅しなければなりませんから、さらにお金を稼がなければなりません。ですから様々な技術に、例えば室内装飾品の灯篭、ランプ、陶芸、絵画、服のデザイン、宝石類のデザインなどに頼ります。私は世界各地で多くのお金を稼いでいます。それで、私は旅行することも、快適な生活をすることもできるのです。私は受け取ったものに対して、そのつどお金を払っています。たとえ同修から車を借りても、ガソリン代を払います。私は受け取ることはしませんし、そうしたくないのです。私にとって、自分で生活費を支払うのは当たり前です。なぜなら、私はそうすることができるからです。たとえ弟子たちが何かくれて、そのことを知らないとしても、私は受け取りません。もし知っているなら、受け取らないのです。しかも私は、それを返すか、その物と同じ額のお金か品物で返します。このようにすれば、気分がよくなります。けれども、人々があなたに差し出して、あなたには他の術がなくて、生活費を稼ぐために教えるのにとても忙しすぎるなら、受け取っても構いません。けれども、生活するのに足りる分だけ受け取ることです。

Q:もう一つ質問してもよろしいですか?

M:もちろんです。

Q:それでは、あなたはビジネスをしながら、同時に霊修を教えることができるのですか?

M:はい。今私がしているのがそうです。私は、霊修を教え、時間が空いたときに、服やジュエリーのデザインをしています。私に代わって私の作品を売る人も、服を作る人などみな給料をもらうのです。ときに、私たちは各地に小さなレストランを経営して、お金を稼ぎます。私は、そこで働いている人たちに給料を支払います。すべては、まったくきちんとした経営方法です。

Q:わかりました。本当にありがとうございました。

M:神のご加護がありますように。

Q:もし肉体というものがないなら、なぜイエスは親友の洗礼者ヨハネが首を切られたとき泣いたのですか?

M:それでは、イエスは笑うべきでしたか? こんなに哀れみ深いマスターが、愛の心に満ちている、神のようなマスターは笑うべきだったのですか、石のように、洗礼者ヨハネのような親友に対して無関心であるべきだったのですか? あなたは、イエスがどういう態度をとるべきだったと期待しているのですか? 悟りを開いた人はどうあるべきだと期待しているのですか? 石ですか?彼は、悟りを開いていたからといって、彼の体の中のは、化学反応は変化しませんでした。感情によって涙がこみあげてきたとき、涙が流れるのは当然のことです。イエスは、女性のように柔和で、慈悲のある人になったのです。これは最高のことです。彼の身に起こったことは、私たちにも起こります。あなたの友人が亡くなったとき、泣くことはとてもいいことです。とても自然なことです。ですから、イエスは非常に正常で、そしてとても悟りを開いた人なのです。

Q:私の道すべてが、塞がれたように感じます。このことで、私は自分の目標に到達することができません。私の過去の経験を言うと、目標へ一歩進めるたびに、何かが私を引き戻すのです。どのように自分の道のこれらの障害を取り除き、きれいにすることができますか?

M:どんな「道」を指しているのですか? みなさんによくわかるように説明してください。どなたの質問ですか?

司会:この質問をされた方は、手を挙げてください。

Q:(ある人が手を挙げて)この質問は私の書いたものではありません。けれども、私にもあてはまると思います。私たちは生活の中で、常に障と出会い、とても挫折を感じていると思います。これは、本当に普遍の問題だと思うのですが。

M:OK、わかりました。それは、ビジネスと人間関係のことを指しているのですね。唯一の解答は、悟りを開くことです。他の答えはありません。悟りそのものが、あなたを導き、あなたに答えを与え、あなたに強さを与え、再出発させ、様々の困難を克服させ、色々な問題から生じた不要な悩みを無視させてくれます。あなたは、早くこれらの問題を解くことができます。まず先に悟りを得ることを除いて、生活の中でするべきことはありません。そうすれば、すべてのことがそれについてくるのです。ですから、聖書で「まず、神の王国を見つけなさい」と述べています。その意味は、悟りを開いたら、「その他のすべてのものが、あなたの身に加えられる」ことになるのです。そうです。本当のことです。今の私は、悟りを開いていなときより、もっと多くの金を稼いでいます。必要があれば、神は道を示してくれます。物質面のこともです。私はお金を稼ぐために、悟りを得たのではありません。これは自然に生じたことです。すべてのことがうまく行き、わざわざ求めなくてもよくなりました。本当のことです。

Q:悟りを開いた人生を、どう暮らせばいいのですか?

M:以前と同じように生活していくのです。奥さんや、子どもたちや、ご主人と共に暮らしていくのです。自分の責任を続けて果たし、生活を楽しむ一方で天国を享受するのです。心の中が、知識や幸福で満ちあふれていること以外、何も変わりません。

Q:あなたは、ヒーリングで他人を治すことを信じていません。それはどういう理由でしょうか?

M:私が信じない理由は、自力で病を治すことを習得するべきだということです。私たちは、神の役をつとめるべきではないのです。これが理由です。私たちは、神と患者の間に立つのです。人はみな自分を癒す力を持っています。神は、病を無形の加護として患者に与えます。そして、患者自身は神を見ることができます。もしその人が、とても誠心誠意であれば、神はその人に姿を見せるのです。そうでなければ、私たちは多くの物質的な医学的治療法で、この肉体を世話するようにするべきです。

ですから、人々の霊体や、内在の治癒力に干渉することは、賢明ではありません。手を触れることによって、カルマが消されるというわけではありません。それは後で、十倍になって返ってきます。患者は、かえって苦痛を受け、神のことを決して知ることはありません。もしあなたが、ただ治療者だけを信じて、神のことを忘れたら、特に自分自身の内面に存在する神を忘れたら、あなたはもとの病以上のトラブルに出会うことになります。これが私が信じていることです。知っていることです。ですから、このことをみなさんと分かち合うのです。けれども、もちろんこれは、私個人の意見や知識です。必ずしもみなさんに必要というわけではなく、必ずしもみなさんに受け入れられることが必要だというわけでもありません。ただ聞かれたので、知ってることを話さなければならないのです。私は、ヒーリングやそのようなものを非難しているのではありませんが、もしあなたがもっと高いレベルに行きたいなら、それはやめたほうがいいのです。例えば、あなたが医者になりたいと思ったら、医者になるまで勉強を継続しなければなりません。途中で止めて看護婦になり、それと同時に医者になることを 期待することはできないのと同じです。それは、無理なことです。(拍手)

Q:マスター、なぜ座禅には指導が必要なのですか?

M:他に方法がないからです。座禅というのは単なる名称で、実は、神のパワーと内面で再交流することを指します。それは、みなさんが体を維持するために、一日三食食べることが必要なのと同じです。いわば、精神を維持するためのものなのです。私たちは座禅しなければなりません。神のパワーによって再び、充電しなければならないのです。それは、物質世界の束縛から開放されるため、そして自分自身のマスターになるためです。

司会:マスター、貴重な時間をありがとうございました。

M:ありがとう(拍手)みなさんのご静聴、支援、悟りの雰囲気、可愛い微笑みなど、本当にありがとうござました。とてもうれしかったです。印心のホールで会いましょう。(拍手)今晩印心を受けない人や、もう少し考えたい人は、家に帰って祈ってください。神に祈りましょう。忘れないで、いつも神に祈りましょう。できるだけ祈りましょう。悟りを得る日まで、心から神に祈りましょう。そうして、向こうで会いましょう。(マスターは上を指差す)(拍手)

自分自身の神性を認識しましょう