世界を守るのはみなさんです
私が香港にいた頃、今から10年かそのくらい前のことですが、私はあるお寺で座禅をしていました。私はたまたまそこを通りかかり、一人の友人を通じてそのお寺に滞在することになったのです。私はそこで座り、ある日世界の終わりが来るという聖書の黙示録について考えていました。
私は大変悲しくて、神に不平を言いました。「あなたにはそうする権利はありません。人々を苦しめる権利はありません。この世界を破壊したいのなら、そうしても構いませんが、一瞬のうちにしてください」と言いました。聖書には、たくさんの苦しみや無残に引き延ばされた死について描写されています。「あなたは神ですから、そんなことはできないはずです。なぜ、そうなさるのですか。人々に話し、人々が偉大なことを認識させるべきではないでしょうか。人々のやり方を変えさせてください。ゆっくりやってください。時間を与えてください。彼らをしつけ、自らを改善するチャンスを与えてください。人々が正しい行動をしてないと思われるのなら、教えなければなりません。この世界を良くするためにその方法を見つけ、教えなければなりません」と言いました。これが、私が感情的混乱を起こしていた間に議論していたことです。
すると神は私に、「よろしい、それならあなたがやりなさい」と言いました。神は私に難問を背負わせました。それは冗談だと思いました。というのは、その頃弟子はまだ一人もいませんでしたし、いつかマスターとかそのようなものになる、などという考えが心をよぎったこともありませんでした。そのようなことでした。そのビジョンは消え、すべてが通常に戻りました。それはたいへん昔のことです。
ですから、今日もしみなさんが世界の終わりを心配しているのなら、私は「あなたがやりなさい」と言いたいのです。みなさんが人を改善し、自分を改善し、地球を改善し、神が私たちにとって最も重要であるということを、すべての人に気づかせるのです。神とは、私たちに内在している最高の智慧のことです。私たちはそれを見つけ出し、使わなければなりません。それは目に見えても見えなくても、声にしても沈黙のうちにも、自分たちを幸福にし、自分たちの周りにいるすべての人を加護するためなのです。
座禅とは、最高のパワーを開き使うためのものです
人々に「私を崇拝しなさい」と教えることが、地球にやって来るマスターの目的ではありません。たとえ、人々が修行の初期の頃にそうしたとしてもです。人々はマスターを自分たちの恩人であると考えています。けれども、もしみなさんの身にどんな奇跡が起こっても、どんな望みが叶っても、みなさんが上達したすべてのことも、メディテーションから得たどのような知性も、それはすべてみなさんが持っている最高のパワーの働きなのだと、私はいつも同修たちに言っています。それは目覚めたみなさん自身の偉大さであって、マスターが何かをしたということではありません。そうですね、たぶん何かすることもあるでしょう。というのは、私はちょうどガイドみたいなものなのです。ときどき、みなさんがどの方向に行くかわからなくなったときや、みなさんがつまずいたときや、ちょっとした障害があるときだけ、私はエレベーターを与えて援助します。ただそれだけです。
すべてがみなさん自身からやって来るのです。みなさんは最高のマスターなのです。ですから、イエスは私たちに約束したのです。「私が行うことすべては、あなたたちならもっとうまく行うことができる」(ヨハネ14:12)そうではありませんか。そうです。なぜこのことを忘れているのでしょうか。なぜ私たちはいつも自分たちを卑下して、知らない者に祈るのですか。なぜ、まず知り、それから祈らないのですか。私は神の王国と直接交信できるこの古代の方法を見つけました。それは私の発明ではありません。この法門とか「専用の直通電話」と呼ばれる通信は、この世界でいつでも利用できます。ただ異なる場所から来るだけなのです。
ですから、印心はみなさんの持つ最も偉大な財産を思い出させることなのです。そうすれば、どんなマスターにも頼らず、マスターの生死にかかわらず、みなさんは毎日自分たちの宝物を使うことができます。それが私たちの修行の目的であって、それ以外の目的はありません。
みなさんの真の偉大さを思い出しなさい
この世界では、私たちはたくさんの苦しみを受けています。失敗に終わった冒険も多いので、たぶん神が私たちを加護してくれないからだ、と非難します。けれども、それははるか昔から神が与えてくれているパワーを利用しようとしないからです。実際には自分自身を非難すべきなのです。このパワーを使わないから、私たちはまだここにとどまっているのです。このパワーを使わないから私たちは苦しんだり、私たちの周りに起こっている苦しみが見えるのです。このパワーを使わないから、私たちは互いに戦争するのです。ただこのパワーを使うときだけ、私たちは本当に永遠の平和を得られるのです。
けれども、たとえ世界人口のほんの一部だけでも、このパワーを使っていることはそれでもいくらかは良いのです。私たちの地球はすでにかなり高く引き上げられています。そうでなければ、地獄になっていたはずです。地獄とは光が届かない、人々が天国を完全に忘れ、自分たちの宇宙での最高の地位を忘れ、自分たち自身が幻想的に抱いている意識によって、言い表せないほどの苦しみを受ける所なのです。自分自身を有罪と見なし、自分自身を罰するのです。
悟った人には、そのような罪の意識がありません。すべてがドラマであり、神が命ずる芝居にすぎないことがわかるので、それに応じて演じようとするだけです。たとえ、他の人のように苦しみを受けたとしても、霊的なパワーがとても強いので、それほど影響を感じません。
ですから、イエスはそのような激しい死の苦しみの中でも、極度の痛みの中で十字架にかけられていた間でも、やはり自分を見失いませんでした。なお意識を強く集中させて、自分のためではなく他の人のために祈りました。自分が何をしているのか知らない人々をお許しください、と父に祈りました。神のことを知っているかもしれない隣人のためにも許しを請い、加護してくれるよう祈りました。これがイエスの偉大さです。いかなる環境に置かれても、つねに自分を見失うことはありませんでした。
その偉大さは私たちの中にもあります。それが聖人たちと私たちを違うものにさせているのです。古代からすべての聖人を拝んできたのはそのためです。けれども、私たちは聖人のように彼らと同一体になった方が良いのです。そうすれば、私たちは本当に聖人を崇拝することができます。というのは、聖人の偉大さを本当に理解するからです。そうでなければ、私たちは理論的だったり、文字通りの理解をするだけで、真に理解することはできません。私たちはそれを認識していないので、私たち自身にも、私たちの親族や友人にも、ひいては世界全体に利益をもたらすためにも、この偉大さを利用することはできないのです。
みなさんが自分の偉大さを思い出すよう、努力してもらいたいと思います。というのは、私たちは死ぬために生まれてきたのではないからです。仕事でストレスを受けたり、子どもを育てるという責任を果たすためだけに生まれたのではありません。私たちの父の偉大さを知るために生まれたのです。この内在の最高のパワーで世界を加護するために生まれて来たのです。ただ数十年生き死ぬため、つまり人間の命を浪費し、神の創造のパワーを浪費し、私たちの内面にある高尚な理想を浪費するために生まれたのではありません。 私たちは夢に描いたことを実現しなければなりません。私たちがしたいことをしなければなりません。もし、私たちがまだそれを果たしていないなら、習慣的な考え方や段取りではなく、私たちの最高の智慧を用いて、今それをするのです。人間の知性、人間が築いた体系によって学んだすべてのことは、人間のレベルでしか役に立ちません。もし私たちがそれよりも偉大になりたければ、私たちが持っている超人間的な何かを学ばなければなりません。
人間の肉体は、私たちの単なる道具や仕事部屋にすぎません。本当の自分自身ではありません。そうでなければ、そこに誰かの死体が横たわっていても、彼に食べさせ、話をさせ、考えさせることはできません。たとえ脳がまだそこにあっても、心臓がまだそこにあっても、もう機能することはありません。
何が体を動かすのでしょうか。それは最高のパワーなのです。手遅れになる前に、もう一度これらすべてを学び直すために受けなければならない生・老・病・死の苦しみの前に、A、B、Cから始めて、私たちはそれを利用するべきです。もしみなさんがまた戻って来て学びたいのなら結構です。もしそうでないなら、今すぐ始めたいなら、私たちは誠心誠意みなさんを招待します。すべての愛以外は何も要求することはありません。後にも先にも、修行の間でも、死んだ後でさえも費用は一切かかりません。本当にマスターのパワーはみなさんが天国に到達するまで、いつでもみなさんを助け、世界の終わりまで決してみなさんから離れたり見捨てたりしません。ですから、どのような選択をするかはみなさん次第なのです。
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